そのさん
不安定なすのこの上をなんとか渡りきって、倒れこむ勢いで北校舎へと突入する。すぐさま左折、廊下をおぼつかない足取りで突っ切って、校舎の突き当たり、裏口を目指す。
身体が重い。せりあがる咳が止まらない。ついせきとめようとしてしまって、もう我慢する必要のないことに気づく。
いくらなんでも強引だっただろうか。呼吸困難に陥りそうな咳の中、雪晴は思う。
咲良と往村はちゃんとフォローしてくれているだろうか。それともやっぱりあのふたりにも気づかれてしまっていただろうか。もう考えない。
今はただ、ひとりになりたかった。ひとりになれるところへ行くべきだった。
激しく咳き込みながら、もたれかかるようにして裏口の鉄扉へと取りついた。
──ヤツがきたんだ……
それはあながち冗談でもなんでもなかった。
──早くしないと間に合わない……!
それがみんなに気を遣わせないためだけの方便であったなら、どんなによかっただろう。
ばつん、いやに激しくスピーカーに火が入って、さっきとは明らかに違う声音の校内放送が響き渡る。
『特雨警報です。本日一六○六を持ちまして特雨警報に移行しました。最終下校時刻を繰り上げます。校内に残留している生徒は速やかに下校、必ず手をつないで帰宅してください。繰り返します。特雨警報が発令されました。校内に残留している生徒は速やかに下校、必ず手をつないで帰宅してください──』
赤い雨。
人類〝のみ〟が遭遇した未曾有の危機。もはや人類はその雨に削り取られてゆくだけの運命にあるのかと危ぶまれていた。だが違った。命の危険性は皆無ではないけれど、回避策はあった。運命は、変えられたのではないかと思われた。そう、未曾有の危機とやらが、この雨だけであるならば。
教育委員会の連中が面突き合わせて決めたのは、コーティングされた雨具の携帯だけではない。いやむしろそんなことよりなにより優先すべきことが人々にはあった。
どんなことがあっても、手をつないで帰らなくてはいけない。
この雨の元凶。
アレが、やってくるから。
「……ひととせ」
眩暈がするほど激しく咳き込みながら、それでも一気に鉄扉を引き開けた。
途端、耳朶を叩くのは激しい雨音。数メートル先はグレーに沈む墨絵の世界。
──天気予報、みてなかったの?
見てはいた。朝、電気をつけるよりも先にテレビをつけるくらいなのだから。見ていないわけはなかった。
だけど誤算だった。臨時増員なんて聞いてなかった。早く帰るつもりだった。今日は、早く帰らなきゃいけなかったんだ。
今日あたり、それはくるのかなと、予感していたから。
さっきまでのそれは、勢いをいや増す雨に煙り、ガラス球よりもくすんで見えた。
だけど今はどうだろう。白と黒の混濁のみで形成されたこの世界にあって、ただただひたすらそれだけが毒々しいまでに鮮やかだった。
その、赫い目だけが。
もこもこのマフラーと、ミトンをはめた小さな手。
ついさっきまで中庭にいたはずの、赫い瞳の日本人形。
今にもくずおれそうな熱と動悸と汗と眩暈にまみれながら、それでも雪晴はへたりこもうとはしなかった。
「もういいんだ、ひととせ」
血よりも赫い視線をまっすぐに受け止めて、懇願する。
「もう、やめてくれ」
少女の答えは、簡潔だった。
初めて会った頃よりかは、幾分マシになってしまった、あかんべえ。