そのさん
ねねの反応は速かった。振り返り様、電光石火で机上のワルサーをひっつかむと、そのまま銃口をそいつの額に突きつけていた。
「ご挨拶ですね、那花ねねL」
黒光りした銃口を眉間に突きつけられながら、そいつはゆったりとウェーブのかかった髪を揺らし、泣きぼくろをかすかに歪めて笑っていた。
モザイク・グラファイト・インダストリアル広報部、豊崎涼子。
引き金を引いておくんだったと、ねねは思う。
「そこまでだ、那花L」
ついいつものクセで野戦反応のスイッチを入れてしまった。豊崎の向こう、沢城の声に我に返ったように、ねねは銃口を下ろしていた。
「……これはどういうことですか、沢城一尉」
公社のトップとモザイクの広報。犬猿の仲のふたりがなぜお手々つないでここにいる?
「室長と呼べ、那花L。公社は軍隊ではない」
「この件は私に一任いただいたはずでは?」
「時間切れだ」
とっととその化け物を始末できなかったお前の落ち度だ、とばかりに沢城はこちらを睨みつけている。
「観測対象:R/E0017の身柄は、現時刻をもってモザイク・グラファイト・インダストリアル社に移譲される」
もう少しで再度目の前の女に照準を合わせるところだった。
「……それは、上の決定ですか」
「無論だ」
「いったいどうして、」
「世界が、敵を必要としているからですよ」
答えたのは、目の前の豊崎だった。今度こそねねは我慢できずに銃口と共に言葉を突きつけようとして、
「この惨状を見たでしょう?」
豊崎のあっけらかんとした言葉に遮られた。
「十年前の原初の雨に負けず劣らぬ威力の赤い雨――我々は〝アグネアの矢〟と呼んでいますが。七瀬市の半分が壊滅。交通網、通信網は以降数年は完全に復旧されないとさえ言われており、死傷者、行方不明者数はいまだ確定すらされていない。稀に見る大惨劇です。しかし、壊されたのは街や情報だけではありません」
どこまでも優雅に豊崎は笑む。
「人の心です」
そこだけ見聞きすれば天使と見まごう所作で豊崎は目の前の銃口をそっと下ろさせると、
「なくしたものへの怒り、痛み。この先の未来への不安。振り上げられた拳は、いったいいくつになるんでしょうね? しかし人々は、その振り下ろし先を知らない」
「だからなに? あんたたちが彼を裁こうとでもいうわけ?」
「とんでもない。私共は、あくまでお手伝いをさせていただきたいだけでございますよ」
「……手伝い?」
「敵がいるからには、正義の味方が必要でしょう?」
豊崎の天使のような悪魔の笑みがねねの向こう、ただじっと机上を見つめるだけの雪晴へと向けられる。
「木桜雪晴くん。取引をしましょう」
豊崎の声は虫唾が走るほど朗々と響く。
「貴方の身柄はこれより、私どもモザイク社が預かります。特殊気象対策公社が出された極刑という裁断は白紙に戻されます。以降あなたの身の安全は、私共が保証しましょう」
「……それで?」
じっと、机上を見つめていた雪晴がゆっくりと顔を上げる。
「僕はどうすればいいんですか?」
「木桜くん!」
ねねの声を無視して、豊崎は歌うように答える。
「なにも難しいことはありません。貴方はこれまでどおり、好きな時に雨を降らせてくれればいい。ただひとつ、降らせる前に、私どもに時と場所を指定してさえくれればそれはそれでたすかりますけれどね」
「……正義の味方は、お金になるってことですよね」
「話が早くてたすかります」
「そのために、僕が必要だと?」
「はい」
「自分勝手ですね」
「ひとはみんな、自分勝手でよくないですか?」
いけしゃあしゃあと、豊崎は言う。
「ひとが社会を形成するのは突き詰めれば自分のためです。自分の利益のために、他人を利用する。そうすることでひとは世界に君臨してきました。私共は私共の利益のために、貴方を利用します。貴方は貴方で、私どもを利用すればいい。自分のためにね」
半秒、雪晴は迷って、そして、
「わかりました」
とっさに叫んでいた。
「やめなさい木桜くん! あなたそれがどういうことかわかってるの?!」
雪晴は答えない。
「赤い雨の正体をバラされて、あなたのことも世界中に晒されて、わかってるの?! あなた、世界の敵になるのよ?!」
答えずに、雪晴はゆっくりと立ち上がる。
「木桜くん!」
止まらず横をすり抜ける雪晴に思わず感情が溢れてしまって、
「ハルくん!」
昔どおりの呼び方が、ようやく雪晴の足を止めていた。
だけど雪晴は、決してこちらを振り返ることなくただひとことで答える。
「……それが、なにがいけないんですか。全部、本当のことです」
ねねは、完全に言葉に詰まる。
「ねえさん」
「……?!」
どうしてだろうと思う。ここにきて雪晴は、どうして〝ねねさん〟ではなく〝ねえさん〟と呼んでくれるのだろう。
「ななちゃんは無事ですか」
「ハルくん……」
「ななちゃんは無事ですか」
繰り返す雪晴に、半ばやけくそにねねは叫んでいた。
「私が、あのこを死なせると思う?!」
しばらく雪晴はなにか考えるように沈黙して、だけど結局返ってきたのは、たったひとことだった。
「……そうですか」
その後豊崎がなにか言っていたような気がするけれど、もうねねにはなにも聞こえない。
ローカパーラの雨傘の正式稼動の日は、すぐそこに迫っていた。