そのよん
『やはり健在でしたか』
性懲りもなく割り込んでくるモザイク社広報、豊崎涼子の笑顔を、沢城は憮然としたまま見上げる。
せめてメインではなくサブモニタに割り込むのならかわいげがあるものを、とここまで出掛かったが、それを言ってはなにか負けを認めるような気がして無言でチャンネルを切り替えた。
豊崎のアップを横に追いやって、メインに映し出されるのはひとり雨中に立ち尽くす那花まなの姿。
『彼女でしょう? 特殊気象対策公社第一即応戦略室が誇るたったひとりの急襲班。コードネームは〝玉藻前〟でしたでしょうか?』
「……そんな名前は知らん」
『これは――空気を読まずに申し訳ありません。御社の社外秘でしたね』
こいつ、いったいどこまで知っているのか。
『首の傷、見たところ頚動脈にまで達しているように見受けられます。出血も完全には止まっていないようですし、それでも動きますか。脅威ですね彼女は。いったいどうすれば彼女を活動停止に追い込めますか?』
「……それは高度なジョークか?」
豊崎はにっこりと笑みだけを返すと、
『確かに彼女は脅威ですが、さすがに限界では? 見るからに足元はおぼつかない。すでに限界たるレベル4のCF起動を振り切っているのでしょう? とてもあのダブルナンバーに対抗できるとは思えませんが』
まなの限界まで正確に把握している豊崎に、沢城はどこかきな臭いものを感じる。中央がこの女にここのパスを与えていることからも、自分のしていることはもはや無意味なのかもしれないとも思う。が、
――コマは、所詮コマだ。
そんなものは、古巣にいた頃からわかっていたことだった。
「心配は無用だ」
怪訝そうに眉をひそめる豊崎にかまわず、沢城は言い放つ。
「千里の第2特科より退役したM1を借り受けた。加害半径外より特殊カーボナイト榴弾をもって彼奴を狙撃、殲滅する」
が、そこに割り込んでくる声があった。
『待ってください』
この電波障害の嵐の中、ひまわりを中継点に発信してきたのだろう、那花まなの声だった。
『先週のこともあります。カーボナイト弾が通用する保証はどこにもありません。いたずらに被害を増やすだけの可能性もあります』
「……だから?」
『私が単独で対策を続行します』
「却下だ」
沢城は即答する。
「手負いの獣を野放しにするほど私は甘くない。速やかに帰投しろ那花AG。これは命令だ」
『今の戦力ではどのみちダブルナンバーを抑えることなどできません。中央への応援要請は受理されましたか? 増援まではあと何分?』
視線で、沢城はオペレータに問う。
「弾丸特急で、あと十五分!」
『その十五分を、私にください』
さらに割り込む、豊崎の声があった。
『どうするつもりですか、その傷で?』
怪訝そうに、まなの声が曇る。
『……誰』
『これは失礼いたしました。わたくし、モザイク・グラファイト・インダストリアル広報部の、』
『興味ない』
ばっさりと切り捨てる。
そっちから聞いたくせに、と口を尖らせる豊崎を無視して、まなは沢城へと詰め寄る。
『室長、再考を』
沢城は、五秒考えた。
「十分だ。それ以上は待たん」
あいつと初めて出会ったのは、今から十年ほど前。
父の仕事の関係で、お隣さんになったのがきっかけだった。
正直、面倒くさいやつだな、と思っていた。
声はよく聞こえないし、まっすぐこっちを見ない。いつだってびくびくしているし、ことあるごとにこちらの顔色ばかりを伺っている。
――ななちゃんは、ゲームとか、すき?
ななちゃんじゃねっつの。
うっとおしいやつだと思っていた。ことあるごとに迷惑をかけられた。悪意がないのがまた性質が悪かった。
それでも面倒をみていたのは、姉の命令だったから。おこづかいを人質にとられていたからだ。それ以外なんの理由もなかった。少なくとも、最初のうちは。
どこへ行くにも一緒。帰るときも一緒。遊ぶときとも一緒。ごはんを食べるときも一緒。私の行くところにはどこだってついてきたし、あいつの行くところには、どこだってついていった。私がいないと、あいつはなにもできなかった。
鈍くて要領が悪くて、叱りつけない日など一日たりとてなくて、だけど、だからこそ見えないところも見えてきた。鈍いのは思慮深いからで、要領が悪いのは誠実さの違う一面で、だからこそ一生懸命で。気がついたら目で追っていた。空気や水と同じくらい、一緒でいるのが当たり前になっていた。
あいつがいないと、落ち着かなかった。
あいつが泣いていると、私も悲しかった。
あいつが笑うと、私もうれしかった。
その時の感情をなんと呼ぶのかは、今でもよくわからない。私には経験はなかったから。初めての感情だったから。
そんな時だった。あいつが、あいつの両親に最後通牒を突きつけられたのは。
あの時の私は子どもで。どうしようもなく子どもで、
――ゲーム、やる?
ふさぎこむあいつに、かける言葉を見つけることができなかった。
――ほら、あんたの大好きなやつ。それとも、公園行くのがいい?
その日から世界は、赤い雨の脅威にさらされた。叔父さんたちはきっと、薄々感づいていたんだろうと思う。それまで以上に叔父さんたちはあいつを遠ざけ、結局別の親戚のところに預けられることになった。
私はもちろん、あの赤い雨があいつのせいだなんて微塵も思わなくて、ただ、あいつと別れなければならないつらさでいっぱいだった。あいつの前では、強がってしまったけれど。
それからあいつは、北海道から東北にかけて、親戚中をたらいまわしにあっていたらしい。
あの時期、赤い雨がこの国の北部に集中していたのはたぶん、そのせいだろうとは思う。
今の後見人のあのかっこいい叔母さんにあいつが預けられたのは、今から三年前。小学五年生に上がった頃だった。
同じクラスへの転入。それが、あいつとの再会だった。
出会い頭、思わず殴りつけてしまった。それから泣いた。クラスのみんなの前で、正体なくすまで泣いてしまった。今思い出しても顔から火が出る思いだけれど、あの時初めて、ああそうか、と思った。
私はきっと、そうなのだ、と思ってしまった。それだけははっきりと覚えている。
それからは今までの時間を取り戻すように、ことあるごとにそばにいた。
朝早く起きるのは苦手だったけれど、がんばって目覚ましを三個買い増して、さらに寝ぼすけなあいつを起こしにいった。
新品の自転車あるくせに、パンクしたと嘘を言ってはあいつの荷台に飛び乗った。
なかなか家に帰ってこないあいつの叔母さんの代わりに、一生懸命料理を覚えた。一生分のばんそうこうを指に巻きつけた。
きっと私は、舞い上がってしまっていたのだろうと思う。あまりのうれしさに、まったく周りが見えていなかったのだと思う。
あいつの抱えているものの深さを、忘れてしまうくらいに。
それは月のない、冷たい夜だった。
見上げるとそこには星ひとつなくて、今にも降り出しそうな空だったけれど、街は煌びやかなイルミネーションに彩られて、昼間よりも明るいくらいだった。
もうすぐクリスマス。夜の暗闇も星のない空も凍えるような寒さも、全部吹き飛ばす浮き足立った街の中、あいつはひとりいつものようにアルバイトに精を出していた。
いつだって帰ってくるのは商店街のシャッターが下りる頃だったけれど、その日は輪をかけて遅かったのを覚えている。
「ハル! やっと帰ってきた!」
思わずおたまを持ったまま駆け寄る私を、あいつはいつもの苦笑で出迎えた。
「ごめん、てか、今日は遅くなるからいいって言ったのに」
「だってあんた、でないとまたなんも食べないで寝ちゃうでしょ」
「食べたいときに食べるからいいよ」
「そんなことばっか言ってるからあんたいつまでたってもクラスで一番前なんだからね! また平野とか浅井とかにばかにされてもしんないんだから!」
「……一番ばかにしてんのはななちゃんだと思うな」
「……なんか言った?」
「と、とりあえず包丁は人間に向けるべきもんじゃないかなーって」
食事を始めた頃にはもう、雨は降っていたように思う。赤い雨じゃない、普通の雨。あまりに激しくて、窓を開けていると互いの会話がうまく聞き取れないくらいだった。
「……? なに?」
「だから! あんたもたまには自分のこと自分でやりなさいって話でしょ!」
「ぼくがやらないんじゃなくて、ななちゃんがぜんぶやりすぎるだけじゃないか」
「んあ?」
「いえ、このパスタ、ものすごくおいしいです」
「おいしいでしょ?! おいしいよね? だったらさ、たまにはさ、私にも上げ膳据え膳の幸せ味合わせたいとか思わない? 日ごろの感謝とかさあ」
「べ、別にそれは、うん。というか、いっつも感謝してるし」
「ほんとにい?」
「ほ、ほんとほんと」
「だ、だったらさ、今度、なんか奢ってよ」
「い、いいよ」
「ほんと?」
「ほ、ほんとほんと」
「じゃ、じゃあ、に、二十四日とか……どうかな?」
「え」
「か、勘違いしないでよね! その日しかどうしても空いてないだけで、べ、別にクリスマスに一緒に過ごしたいとか思ってるわけじゃ、」
「バイトだから」
「え、」
降りしきる雨はどんどん激しさを増していて。うまくあいつの答えが聞き取れなかった。
そう、思い込もうとしていただけかもしれないけれど。
「冬休みは全部、バイトが入ってて。……ごめん」
いつもの申し訳なさそうな、今にも泣きそうな笑顔で、あいつはもう一度確かにそう言った。
頭の中が真っ白になって、それからのことは正直あまり覚えていない。思い出したくない。
「……そっか」
結局笑ってそう言ったのだ、私は。
「じゃあ、また次の機会だね」
それ以上そばにいたら泣いてしまいそうな気がして、
「今日はもう遅いから帰るね」
「送ってくよ」
「いい」
「だって、」
テレビでは特雨注意報が出ていた。目の前であいつがあいつのままでいる以上、そんな警報ありえないのだけれど、その頃の警報は精度も甘く、誤報も多かった。
「どうせまた間違いよ」
「それでもひとりはあぶないよ」
「だいじょうぶ。すぐそこで、みっちゃんと待ち合わせしてるから」
そばにいたら、泣いてしまいそうでこわかった。
「……そっか」
「うん」
だけどそれでも、追ってきてほしかった。
この手をとって、ほしかった。
「じゃあ」
お互いに手を振った。
「またあした」
あしたなんてこなかった。
当たり前のことだけど、その日の特雨注意報は誤報だった。
赤い雨は降らなかった。あいつも、赫眼に取り込まれ、町中を蹂躙することはなかった。そう、あくまで、あいつは。
役立たずの警報機が引っ掛けたのは、別の赫眼だったのだ。
みっちゃんと待ち合わせなんてしてなかった。
その時最後に見た光景は、側溝に雨と共に猛烈な勢いで流れ落ちる自らの真っ赤な血だった。
第一発見者は、あいつだったのだという。
血まみれで倒れ伏しながらも一命をとりとめた私のそばにしゃがみこんで、あいつは私に関する記憶をすべて失っていた。
それはひとの持つ便利な防御機能。つらい出来事は、すべて忘れてしまう能力。
病院を転々とし、ゆっくりとリハビリを繰り返しながら、あいつは自分の中の記憶を再構築していった。〝那花まな〟がいなくても、整合性の取れる記憶へ。
その間、二年と半。
赫眼に喰われたことにより、赫眼に取り込まれようとしていた私は公社に勤めていた姉の勧めもあり、八久寺の研究室に身を寄せていた。
あいつの居場所はわからなかった。どうしてかは知らない。たぶん、中央が頑なに情報をシャットアウトしていたのだと思う。
私があいつの痛みならば、このまま消えるしかないとも思ったけれど、あいつをこのまま完全な赫眼にするわけにはいかなかった。私のことを忘れているのならそれはそれで好都合だった。
八久寺で何度も〝アカシックゲート〟を開け、赫眼へと近づくにつれ、あいつのことを感知できるようになった。
自ら志願して、七瀬市へとやってきた。やっとここまできた。そう、思っていたのに。
こうなることを、予想していなかったといえば嘘になる。
この首をかっ切られる直前の、あいつの怯えた視線がこびりついて離れない。
拒絶されて、されすぎて、臆病が他人を慮るこころを殺した。
拒絶されるのがこわくて、そうなる前に、すべてを拒絶しようとしている。
信じたかった。今度こそ変わってほしかった。
だけど、だめだった。
三年前と同じ。私じゃ、だめだった。
どうしてこうなのかな。
どうして私は、二度も殺されなきゃいけなかったのかな。
――私ね、今ならあんたやあのこが、どうして赫眼になろうとしているのか、よくわかる。
いつだったか、姉が言っていた言葉が、耳の裏に残っている。
赫眼ってなんだろうって、ずっと考えていたと、姉は言った。
迷信だと思ってた。私の力を見るまでは信じられなかったのだと。
別世界からきた異物。あれは誰もが持つ当たり前の力。自分たちも別世界にいけばあんな力が発言するんだろうか。わからないし、今はそれを確かめる術もない。
いきなり見知らぬ世界に飛ばされて、今までの常識も認識もまったく通用しない、ひとりぼっちだと気づいたとき、ひとはどうなるんだろう。
まな、今のあんたならそれがわかるんじゃない?
そしてきっと、あのこにも。
世界に絶望したとき、ひとは赫眼を呼び寄せるのよ。赫眼もまた、この世界に絶望したひとたちだから。
だから赫眼は、手をつないだひと、ひとりぼっちじゃないひとのことは認識できない。したくないのね、そんなもの。この世には存在しないとでも思いたいのよ。
でも、それでも同じものを求める。この世界に絶望し、ひとりぼっちになってしまったひとを探しては喰らい、自分たちと同じものへと引き寄せる。どれだけ取り込んでも赫眼は赫眼。赫眼とは異物であり、それ以外のなにかとは決して相容れない。たとえそれが別の赫眼だったとしても。
それでもやめられない。やめられるわけがない。
この雨だって、今はこんな嫌な雨だけど。こんなもの、あのこが望んでるわけがない。あんただって、わかってるんじゃないの?
――だって、だから行くんでしょ、あのこをもう一度、連れ戻しに。
二回や三回殺されたくらいでごたごた言うなと、言われたような気がした。
この世界に絶望した人間が結局どうなるのかは、正直わからない。
でもだけど、〝わからない〟ということは、まだこの血まみれの手が、つかめるものがこの先にあるということなのかもしれないと、まなは思う。
歯を食いしばって、前を向く。
血を噛みしめて、歩き出す。