そのさん
あっという間の出来事だった。
警報機が今までにない大音量をたてて鳴り響いた瞬間、ねねは雪晴のクラスメイトたちを慌てて高機の中へと引き込んでいた。
バックドアを力任せに引き閉めた直後だった。
地震に見舞われたのかと思うほどの衝撃だった。天井を無数のハンマーで無限に叩かれているような、身の毛もよだつ音が響いて初めてこれが雨だと気づいていた。
今までの赤い雨など産湯のシャワーのようなものだった。周囲に巻き起こっているであろう惨劇さえ窺い知れないほどの暴雨。
公社に支給されている装備は例外なく何重にもコーティングを施した特注品を採用している。この高機動車も例外ではなく、車体後部の幌をカスタマイズし搭載したカーゴもろともそれそのものが小さなシェルターといっても過言ではないほどの堅牢性を誇っている。受注担当と開発主任はこいつぶっ飛ばすにゃあ小型核弾頭何人つぎこんでもまだまだおつりがくらぁな、と高笑いしていた。
ということは――ねねは思わず苦笑する。この雨は瞬間的な貫通力でいえば核に勝る、とでもいうのかあのボンクラどもめ。
雨滴が叩くごとに、カーゴは激しく揺れた。カーゴの溶接部なのだろう、中央部の歪みがもう限界にきており、見る間に天井がひしゃげてゆくのがわかった。あいた隙間から雨に征服された空がはっきりと見てとれるほどだった。
こうしてはいられない。
ねねはいまだ呆然と天井を見上げたままの咲良の腕を強引に車体前部まで引き寄せながら、車載通信機に取り付く。
それを見て取った冠月と往村が慌ててこちらへと駆け寄ってくる。
カーゴが軋む音は刻一刻と激しさを増している。それほど長くはもたないだろう。脱出しようにも車輪もサスもとっくの昔に天に召されている。
ノイズがひどい。どのチャンネルも死んでいた。発信は絶望的で、とにかく状況を知りたい。どこかないか。死に物狂いで周波数から周波数を渡り歩いて、かろうじてつかまえたのはここにきてようやく第一種が発令されたというクソの役にも立たない情報と、
「……え?」
クソの方が数段マシだった、知らないほうがよかったもの。
それはおそらくあの『ひまわり』が捉えたこの雨の〝爆心地〟の映像であり、第一即戦室のメインモニタにダイレクトに配信されたデータなのだろう。
拳大ほどの小さな車載モニタの画面に、冠月たち三人の目が釘付けになる。呆然と見開かれた六つの瞳に浮かんでいるのは、信じられないという驚きと、信じたくないという拒絶。
――どうして、
この時ほど、ねねはこの世に巣食う運命という名のなにかを恨んだことはなかった。
こんなときに限って、なぜ八久寺は『ひまわり』のコントロールをこっちに寄越している?
いや違う。
そんなことよりなにより、どうしてこんなときに限って、このこは――あんたは、そんな姿を保っているのか。
拳大ほどの小さな画面に確かに映っていたのは、乗り移られた少女を模した姿でもなく、火の七日間を演出するようなバケモノでもなく、かつては宇宙に君臨した帝王の姿でもない。
木桜雪晴。ただ、眼が赫いだけの。
「……なに、これ」
咲良の呟き。瞬間、耳をつんざく音をたてて天井の一角が抉れて崩れていた。
予想以上に限界が早かった。カーゴの後ろ半分は完全に消失し、すさまじい水量の刃が咲良のぶっといツインテールの片方を切断していた。
鼻先を凶悪な雨のカーテンがかすめるけれど、咲良は微動だにせずモニタをにらみつけている。慌てて冠月が抱きしめ引き寄せる。
車載モニタの電源は完全に落ちていた。だけどもう、手遅れだった。
「……あれ、木桜ですよね?」
往村でさえ、声が震えていた。
「木桜ですよね、あれ……!」
「そう、木桜雪晴」
答えたのは、ねねではなかった。
「あなたたちのクラスメイト。そして、この雨の元凶」
那花まなが、誰もが死に至るこの豪雨の中、立ち尽くしていた。
「まな……」
思わずこぼれたねねの声に、雨の向こうの赫い瞳が反応する。
「無事だったのね、姉さん。よかった」
かっと、血がのぼった。
「それはこっちのセリフよ! なにやってたのあんた! 通信きかなくなるし雨はこんなだしあいつはあんなだし! だいたいあんたはいつも、」
そこまで叫んで、はっと気づく。
「春夏秋冬さんがいたからだいじょうぶ」
まなの向こう、雨に煙る夜を切り取ったような、白い暗闇があった。
そう言われて初めて気づく、存在感などどこかに置いてきたかのような日本人形。
「学校までとっさに〝跳んで〟くれたからたすかった。CFを起動していないときは、どうしたって赤い雨の影響を受けるから」
まなの話は、半分も聞いていなかった。ねねが気を奪われていたのは、ひととせに対してなんかじゃなかった。
視線は、雨に煙るまなの首元に釘づけになっていた。
厚く巻かれた包帯は、まだ完全に止まっていない血の赤で、じくじくと滲んでいた。
頭に血が上って、さっきは気づかなかった。まなから受けた最後の通信。今にも消え入りそうな声ではあったけれど、こんなにしゃがれてはいなかった。
「……なにがあったの」
「だから春夏秋冬さんが、」
「そうじゃなくて!」
思わず大きな声が出ていた。
状況は終了したと言っていた。赤い雨だってやんでいた。それは少なくともダブルナンバーを退け、〝彼〟が正気を取り戻したということであり、話し合ったんじゃないのか。話ができたんじゃないのか。なのに――
なのに、すべてを拒絶するような、この、雨――
「……あのこにやられたのね」
ダブルナンバーではなく、〝彼〟に。
だけどまなは完全に無視して、未だ状況を受け入れきれない冠月たちへと赫い瞳を向けた。
「ここはもうもたない。春夏秋冬さんと一緒に、早くここを離れて」
冠月も咲良も往村も、とっさには動けない。
「春夏秋冬さんと一緒に跳べばだいじょうぶ。さあ、早く」
再びねねへと向き直ると、
「姉さんも」
三秒、ねねは考えた。生まれてこの方、これほど密度の濃い三秒を味わったのは初めてだった。
冠月たち三人へ向かって言い放つ。
「あなたたちだけ行きなさい」
「姉さん……?」
「私はここに残ります」
狼狽の声を上げたのはまなばかりではなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
冠月が咲良を抱きしめたまま、震える声でそれでも事態を把握しようともがく。
「いったいなんなんですか? 那花、さん? なにが起こってるの? 説明して。いったいなにがどうなってるの?」
「今は時間がない」
「……ゆっきーのところに行くの?」
まなは答えない。
今にも崩れそうな瞳をめいっぱい見開いて、くじけそうな心を必死で押しとどめて、冠月は問う。
「ゆっきーを殺すの? ねえ?!」
「うるさい!」
思わずねねは叫んでしまっていた。
そのひとことで、冠月たちはひとたまりもなく縮み上がってしまう。ただただ震える瞳でねねを見上げる。
ねねは自らの不甲斐なさを呪う。まっとうな大人なら、もっとマシな諌め方を知っていたかもしれないのに。
この時ほど強く、まじめに生きてきたらよかった思ったことはない。今さらそんなことを言っても仕方ないかもしれないけれど。
「終わったら、全部話してあげるから、今は言うこと聞きなさい」
最後までこちらが気になって仕方がない冠月たちをひととせに任せて、ねねはまなとふたり、崩れかけたカーゴの中にとり残される。
まなの首元、未だ血が滲む傷口へ手を伸ばそうとして、そっと、まなに手で制された。それ以上手を伸ばせば赤い雨にあたる。制されたのは、それだけが理由ではないのだろうけれど。
伸ばした手を完全には引っ込めきれずに、ねねは問う。
「だいじょうぶ?」
いつものように淡々と、まなは答える。
「だいじょうぶ。――知ってるでしょ、めったなことじゃ、死なないようにでき」
「そうじゃなくて」
まなの瞳をのぞきこむ。血よりも赤い赫に染まるひとではない色の向こうに、彼女の本心を垣間見ようとするかのように。
「大好きなひとに殺されかけたら、普通の人は正気じゃいられないもんでしょ」
ぐっと、まなが言葉に詰まるのがわかった。わずかにうつむいて、かろうじて答えた。
「大好きなんかじゃない」
「素直じゃないなあ」
場違いだと思いながらも、つい笑みがこぼれてしまう。
「だってあんた、おっぱい大きくしたかったのもあのこのためでしょ」
「違う」
「好きだったもんね、あのこ、あのアニメの姫姉様。やきもちすごかったし。あのときのあんた」
「違う」
「あとたどたどしい日本語で『殺す』とか言っちゃう中国娘とかね。あんたマネしてたもんね」
「違う」
「どうでもいいけどあんた、チャイナドレスだけはやめなさい。似合いすぎるから」
「なんでそんなことまで知ってんの!」
「だって、だから行くんでしょ、あのこをもう一度、連れ戻しに」
まなが、自分たちをたすけにくるためだけにここまでくるわけがない。ましてや、冠月が言っていたようなことなどあるわけがない。
でなければ自分がここまで心配する必要なんてないのだから。
なにか言おうとして、まなは一度は喉元まで出かけた言葉を呑み込んだ。
きゅっと唇をかんで、蚊のなくような声で、
「……しつこい女は、嫌われるかな」
「いいんじゃないの、あのこの場合特別だし。そういうのおねえちゃん、嫌いじゃないし」
その代わり――ねねは念を押すように、言う。
「おねえちゃん、ここで待ってるから。あのことふたりで、必ずたすけにきなさい。いいわね?」