そのに
後にわかった話である。
観測史上最大と言われている十年前のあの日と同じく、その雨の初速は、少なくとも50000m/sを超えていたという記録が、〝ローカパーラの雨傘〟のレコーダーには残されている。
SMCRのコーティングなど、クソの役にも立たなかった。
時間にして、わずか一秒と半。
瞬きひとつする間に、未曾有の赤い雨は、数万人の命をこの世から消し去っていた。
双子山を中心にした半径十キロ。七瀬市の北半分が、比喩でなく真っ赤に染まった。
十年前の再来。いや、いまや七瀬市は建造物や道路だけでなく、自動車、電車、あらゆる公共機関がSMCRコーティングされている。それがかえって仇となり、被害は十年前とは比較にならなくなっていた。
家々やビルはもちろんのこと、高速道路は瞬時に消滅、紙のように貫かれた自動車はガソリンに引火してあらゆるところで火災を発生させていた。
逃げ惑う人々さえいなかった。静かに速やかに七瀬市の半分を殺した赤い雨に、残された人々は最初なにが起こったのかわからず、一瞬沈黙に呑み込まれた後、爆発した。
阿鼻叫喚とは、まさにこれをいうのだろう。
人々を突き動かすのは、次は自分たちかもしれないという恐怖。
あちこちで上がる火の手が人々の本能を刺激し、あまりの水量と水圧で北側の様子がまったくうかがい知れない事実がさらなる不安を煽っていた。
まだ動く交通網をなけなしの通信網で探し当て、前をゆくひとびとを押しのけ引き倒しながら誰もが我先にと南へと逃げていく。
雨の檻に閉じこもる〝彼〟から逃げようと、すべてが恐慌と混沌に呑み込まれてゆく。
「だめです! 北側の光ケーブルがすべて寸断! モニタできません!」
「爆心地は双子山山中! 対象とアンノウンの直下ですが、詳細は不明です!」
「自警団とJRより協力要請! 規制はいつ解かれるか!」
もはや阿鼻叫喚は日常となりつつあり、オペレーターからの悲鳴は心地よいBGMと思うことにした。
沢城はとにかく優先順位の基準を〝やらなければいけないこと〟から〝今できること〟に切り替える。
「八久寺の研究室に打電。『ひまわり』の協力要請、というか全コントロールをこちら側へぶんどれ。責任は私が取る。規制レベルは予定どおり3まで引き下げ、市南部の安全を最優先に設定しろ」
「了解です!」
「現時点で感知可能なCF反応は」
「ありませ――あ、いえ、七瀬中校内に微弱ながら――あ、」
「どうした」
「き、消えました。たった今、消失しました!」
1008か。沢城は思う。ヤツの行動と思惑が読めないのが癪だがまあいい。今はダブルナンバーだ。
「総員、第一種対策準備」
沢城の噛み潰すような号令を、だけどかき消すように響く声があった。
『ここにきてようやく第一種ですか、大尉?』
思わず沢城は入り口のドアを仰ぎ見るが、そこにはもちろん誰もいなかった。
それを見計らったかのようにメインモニタに大写しになる女性の姿があった。
『お初にお目にかかります、大尉。わたくし、モザイク・グラファイト・インダストリアル広報部の豊崎涼子と申します。以後、お見知りおきを』
「……どういうことだ?」
沢城はモニタの女性へは一顧だにせず手近のオペレータをにらみつける。
「専用回線だろう、誰がチャンネルを開けろと言った!」
不運なオペレータは完全に縮み上がり、返事をすることもなく今にも泣き出しそうな顔を左右に振るだけだった。
豊崎と名乗った女性は泣きぼくろをかすかに歪めて微笑むと、
『彼女に非はありません。パスなら、御社の中央から預託を受けております』
「……なんのつもりだ」
ようやくモニタを見上げながら、沢城が問う。
「このくそ忙しいときに、くその役にも立たん〝雨傘〟の宣伝でもするつもりか?」
『お話が早くて恐縮です』
すばらしい笑顔に、沢城は舌打ちする。どうして自分に関わる若い女はこんなにも癪に障るヤツばかりなのか。
『失礼ながら第一即応戦略室の現在の状況を調べさせていただきました。四つある実働班のうち三つは壊滅。頼みの綱の急襲班は現在行方不明、いえ、失礼しました、休暇中だとか。他拠点への応援要請は?』
「……ついさっき受理された」
そう、さすがの中央もようやくその重い腰を上げた。
規制レベルが大幅に引き下げられた以上、状況も結果もいずれ公開せずにはいられなくなるからだ。そんな時に手をこまねいて見ていた、と批判されないためのポーズでもあるだろう、だけど――
『間に合いますか?』
沢城は拳を固く握りしめる。豊崎の言うとおり、応援要請が受理されたのは誇張ではなくついさっきのことだ。一番近い三笠の第二即戦室からでも弾丸特急で一時間はかかる。今のところダブルナンバーは出現時と同じく爆心地から微動だにせず小康状態を保ってはいるが、赤い雨の加害半径がこれ以上広がらないという保証はどこにもない。
『我々の〝ローカパーラの雨傘〟なら起動に一八○、散布に三○、即座にこの〝アグネアの矢〟を駆逐してみせますが?』
「貴様らの未完成な泥舟に乗れと? 揮発性SMCRの人体への安全性は確保されたわけではなかろう」
『確かに。しかしながら有害性が証明されたわけでもありません』
「詭弁だな。どちらにしても一室長の私にその権限はないよ。そういう話なら中央に直接持っていくんだな」
『無論、だからこそこちらのパスもいただいております。現場の意見を聞くように。それが中央のお答えでしたのでね』
こちらにすべて丸投げか、今さらながら沢城はげんなりしつつ、それならそれで好都合だとも思う。
「……この戦は、我々特殊気象対策公社とヤツとの戦だ」
よその力を借りるくらいなら、あのバケモノの力に頼った方がどれだけマシかと思う。
話はこれで終わりだとばかりに沢城は通信を切断すると、
「現時刻をもって〝アンノウン〟を〝火狐〟と特定。休暇も撤回だ。連絡は取れるか」
「ノイズがひどく、特定できません!」
「赤い雨周辺の状況は」
「加害半径に変化はありません! 半径内にCF反応なし! 生存反応も――あ、」
「どうした」
「ふ、双子山近辺、48号線のほぼ入り口! 生存反応です! その数四! 生きてます! 生きてるひとがいます!」