そのいち
ものごころついた頃から、雪晴はひとりだった。
無論、周りに誰もいなかったわけもなく、保護者もいた。同年代の子供たちもいた。ただ、両親だけがいなかった。
誰に聞くでもなく、なんとなく、自分はこの家の子ではないのだろうな、と感づいていた。
保護者はそれぞれ父、母とは呼ばせてくれなかったし、同居人たちは兄、姉とは呼ばせてくれなかった。
両親からの入金がある間は最低限の食事と着る物と寝る所は与えてくれていたけれど、たとえばそれは食事時。自分に声をかけてくれる者は誰もいなかった。お茶碗と席だけはかろうじて用意されていたけれど、ごはんをよそってくれる手もなければ、話しかけてくれる団欒もなかった。
たとえばそれは休日。みんなで買い物に出ても自分だけ、ほしいものを聞かれない。ほくほく顔でたくさんの荷物を抱える同居人たちの横でひとり、手ぶらで帰途に着く。誰も、なにも買ってはくれない。
朝起きて、最初に考えることは、まだ自分はここにいてもいいのか、ということ。
顔を洗って、リビングまで降りてきて、自分の席とお茶碗がまだあることを確認して、心の底からほっとする。
でもすぐに、それもただの惰性の産物なのかもしれないと思うとなにもできなくなる。
どうすればいいのかわからなかった。
僕はここにいるのに。――いるはずなのに、誰も僕に気づいてくれない。
見つけてほしかった。ここにいてもいいのだと、誰かに言ってほしかった。
そんなときだった。元気で強い、彼女と出会ったのは。
「雪は嫌いだから」
それが、彼女の第一声だった。
「あんたのことは、〝ハル〟って呼ぶから」
十年ほど前。それはまだ、雪晴の知る誰の眼も、赫く染まっていなかった頃の話。
引越しそばを持ってきたその直後、ふんぞり返った彼女の姿を昨日のことのように覚えている。
「ちょっとあんた、なんでそんな無駄に偉そうなのよ」
ぺしん、と容赦なく彼女の後頭部をはたいたのは、一緒に引越しの挨拶にやってきていたおねえさんだった。
「ほら、あんたもちゃんと自己紹介する」
おねえさんに促されて、涙目になりながら彼女は、年長組の制服の胸元をやっぱりふんぞり返ってこちらへ示した。
おそるおそる顔を近づけて、雪晴はそれを読んだ。
「……ななな、なな?」
まだ五十音をナ行までしか覚えていなかった。
途端、彼女は憮然として、
「まな」
言い直すのだけれど、悲しいかな彼女は舌ったらずな上にちょっと鼻にかかったような声だったもんだから、
「なな?」
「まな!」
とりあえず話題を変えようと思った。
「ななちゃんは、ゲームとか、好き?」
「ま! な!」
「いいんじゃないの、ななちゃんで」
もうがまんできないとばかりにおねえさんが楽しそうに笑いをこらえていた。
「ほら、間に飛び込むと「は」だって「な」に変わっちゃうよ。アタックチャンスだって狙えちゃうよ?」
「人の名前日曜朝のパネルクイズと一緒にすんな!」
もしかしていきなり名前を呼んだのがいけないのかな、と思って、
「ねえなななちゃん、ゲームする? それとも公園行く?」
「まなだってば! しかもひとつ増えてるし!」
それはたぶんずっと後で気づいたのだとは思うのだけれど、とにかく雪晴は、彼女の困ることばかりやっていたような気がする。
天然で鈍感で要領の悪い自分を怒鳴りながらどつきながら、それでも彼女はなにかにつけてそばにいてくれた。
「あ、あんたの面倒みないと、おこづかい減らされるのよ姉さんに!」
彼女はそう言っていたけれど、それでもよかった。
それが叱咤であれなんであれ、こちらの言葉に返事をしてくれる。
しでかした失敗を大声で叱ってくれる。逃げると必死で追いかけてくれる。
誰にも気づいてもらえなかった自分を、彼女だけは見つけてくれた気がした。
こんな自分でも、ここにいてもいいんだと思わせてくれた。
結局それは、幻想に過ぎなかったのかもしれないけれど。
両親が帰ってきた。
生まれてすぐに今ある家に預けられて、顔さえ覚えていない名ばかりの両親ではあったけれど、その腕に抱かれてすぐにわかった。
同じにおいだった。
物心などなかった雪晴の一番奥底にあるそれは、原初の記憶のかけらだった。
今までどこにいっていたのか。これからはずっとそばにいてくれるのか。
矢継ぎ早に出てしまう雪晴の言葉ごと小さな頭を大きな手のひらでなでつけながら、両親はデパートへ行こうと言った。
なんでも好きなものを買ってあげる。
そう言って差し出された手を、一瞬この世のものとは思えない眼で見ていた。なかば呆然と両親を見上げて、そこに変わらぬ笑顔があるのを見つけて、ようやく喜びが弾けた。言葉が詰まった。手を取ろうして、心のどこかで遠慮している自分がいて、だけどどうしてもがまんができなくておそるおそる差し出した手を、結局母の方から握られた。
あれ以上の喜びを、いまだに雪晴は知らない。なにか買ってくれるよりもなによりも、母が手を取ってくれたことがうれしかった。うれしくてうれしくて、泣きそうになった。だけど必死でがまんした。いつだって保護者のひとたちは、自分が泣くととたんに不機嫌になるから。大好きな両親を困らせたくはなかった。
まずはレストランに入った。好きなものを頼んでいいと言われた。にわかには信じられなくて、何度も何度も聞き返した。その都度母はただ穏やかにもちろんと笑ってうなずいた。
おもちゃ売り場は天国だった。今まで色あせていた世界が、この瞬間なにもかもが輝いてみえた。
ここで待ってて。母は言った。
好きなものを選んでなさい。父は言った。すぐに戻ってくるから。
なんの疑いもなく頷いて、雪晴はおもちゃの世界で夢中になった。
それっきり、両親が帰ってくることはなかった。
思ったのとは違った。
もう飽きた。
両親がそう言っていたのを、保護者のひとから聞いたのはもっとずっと後の話で。
その時の雪晴はわくわくしながらおもちゃの国でばかみたいにずっと待っていた。
めまぐるしく変化する仮想現実を映し出すモニタがひとつ、またひとつ消えて真っ暗になっても。
夢の世界の住人のようなロボットや動物たちの人形がひとつ、またひとつ動きを止めても。
赤や青や黄色の照明がひとつ、またひとつ消えてあたりがまったく見えなくなっても。
ひとり、雪晴は売れ残りのおもちゃたちと一緒にずっと待っていた。
ただひたすらずっと。ただ、ずっと。
「なにないてるの」
声をかけてくれたのは、無論、両親ではなかった。
「ぽんぽんいたいの?」
ななちゃんがきてくれたのかと思った。実際顔を上げたそこにあったのは黒くて長い髪、気の強そうな大きな瞳、四歳児とは思えない背格好、まな以外の誰でもなかったのだけれど、でも、違う。
その日まなは家族そろって出かけているはずだったからだ。遠い遠い、親戚の家に。
「ここはさむいよ」
それが、赫眼との出会いだった。
「いっしょにかえろ?」
シングルナンバーとも呼ばれる赫眼の真祖。〝オリジナル〟がそこにはいたのだ。
現時点で確認できている九体のオリジナルは全にして一。一にして全。この世に特定の姿をもたず、対峙するひとのこころの在りようによって常に異なる姿を現す。無論その時の雪晴にはそのことは知る由もなかったけれど、このひとはななちゃんではない、だけどでもどうしてななちゃんがそこにいるのだろう、という疑問さえ持たなかった。
「まってて、って、いったんだ」
涙でずたぼろの声で、雪晴は答える。
「すぐにもどってくるから、って」
「おかあさん?」
こくりと、雪晴は頷く。
「そっか」
にっこりと、彼女も頷く。
「じゃあきみは、ここでまってたいんだ」
言葉が詰まる。
「ここでずっとずっと、まってたいんだ?」
こらえきれずに、声に出して泣いていた。
「ないてちゃわかんない」
ななちゃんの顔、ななちゃんの声で、彼女は言う。
「だまってちゃわかんない。いってくれなくちゃ、わかんないよ」
そしてそのとき、すべてが始まったのだと思う。
「きみは、どうしたいの?」
それは、今から十年ほど前。
誰の眼も、赫く染まっていなかった頃の物語。