そのよん
咲良さくらはひとり、道端に立ち尽くし呆けていた。
自分では決してそうは思わないのではあるが、相棒の往村が言うには自分は結構呆けていることがあるらしい。特に授業中とか。
いやそれは考え事してんじゃん授業受けてんだし、と反論するも暖簾に腕押し。くやしいが咲良はあのおっぱい魔人に口で勝てた試しが一度もない。
とはいえ今は別に授業中でもなければ先生の言っていることがわからなすぎてまったくもって日本語どころか言語とさえ思えないからというわけでもない。
今日は結局雪晴にフられたのでねこランドへは行けなかった。半ばふて寝しながらテレビでやってたねこねこサーカスに魂を抜かれていたところ、目の前に飛び込んできたのが緊急テロップだった。突然の特雨警報と、爆発事故。おざなりに表示されていた事故現場の住所に嫌な予感がして、気がついたらここまで飛び出してきてしまっていた。
携帯が鳴った。
我に返ってあわてて出た。
『おい、元おっぱい』
いつもの往村の声にどこかこころが軽くなった。
「誰が元やねん!」
『おっぱいは否定しないのか』
「あーそーだよいいよおっぱいで今それどこじゃねんだよ!」
『わかってる。お前今どこだ』
どきりとした。マジになるならなるで前もって言ってほしいと思う。
「あいつんちの前」
『どんな感じだ』
「なんかこうすげえ。ぶわーってなって、だだーっといっぱい走ってる。煙とかが、」
『待てお前おっぱい、ぜんぜんわかんねえ。擬音語禁止。あいつんち自体は大丈夫なのか』
「たぶん。煙は出てない。壊れてない。たぶん」
『なんだよたぶんたぶんって。たぶんたぶんなのはお前の乳だけで十分だ』
「やめてそれなんか垂れてる感じするから!?」
『やっぱ通行止めくらってんのか? ヨンパチ?』
「うん、国道から先通してくんない」
『警察?』
「たぶ、もしかしたら公社かも。制服着てないし。――ねえ、あいつだいじょぶかな」
『わかんね。とにかく俺もそっち行く。桂にも連絡とっとけ』
最後は放り投げるように言って、往村は電話を切っていた。
はるか向こう、雪晴のマンションの方角ではいまだかすかに黒煙が立ち上っている。
赤い雨はやんでいた。だけど周囲には野次馬とそれを押しとどめようとする公社のひとたちとでごった返していて、まるでいつもの街とは違う街にいるようだった。どこか別の世界へやってきたような気がして、正直さくらは足がすくんだ。
赤い雨とか赫眼とか。危険なものはすぐそばにあったはずなのに、どこか対岸の火事のように感じていた。そのツケが今、とうとう回ってきたのだとしたら、
――なんだそれ。
こわかった。こわくてこわくて、たすけを求めるように冠月へと電話をかけていた。
頭が痛かった。この痛みを、雪晴は知っている。今の自分ではない自分のことを思い出そうとしたとき、必ず打ち込まれる楔だ。
痛みの根源は、たぶんにおいだった。ものすごくいいにおいがしていた。シャンプーでも香水でもない、あまずっぱい、女の子――いや、ななちゃん特有の、
ずぎん、
痛みに叩き起こされた。
瞬かせた目に映った光景に雪晴は度肝を抜かれることになる。思い出したのは山。双子山。ふたつのふくらみ。なんだろう。後頭部がふかふかしていた。痛みにすべて奪われていた認識力が戻ってくる。そうか、自分は寝っころがって、というか、なんだこれ、ものすごく気持ちいい。まるで、ひざまくらされてるみた、
あわててがばりと起き上がってしまって、目の前の双丘に顔面をうずめる羽目になった。
一瞬、やっぱりわけがわからなくて、直後、もはや形容しがたい感触に溺れた。
やわらかくてもふもふして凶悪なくらいいいにおいがして、同じいきものでありながらどうしてこうも違うのか、それでもこれさえあればひとはきっと互いにわかりあえると思えるような、
って、違う。とか思っている場合じゃない。
下乳をおもいきり顔面でもって持ち上げられたまなのこめかみには、ぶっとい青筋が浮かんでいた。
「ご、ごめ、」
あやまるよりも早くまなに左右から両手で顔面を鷲掴みにされた。
そのまま叩きつけられるようにまなの膝へと押し戻された。
膝枕。やっぱり気のせいじゃなかった。目の前の双丘はまぎれもなくまなの胸部であり、まなの胸部はかの咲良のそれなどものともしない大きさなわけでありとてつもなくでかすぎてどうしよう、おっぱいしか見えない。
傍らではなにか思うところがあるようにひととせが自分の胸元に手を当ててさびしそうにぢっと手を見る。
なんなのだろう。いったい自分はなんでこんな状況に陥っているのだろうか。いったい今まで自分は、
そこまで考えて、すべてを急激に理解する。
――ああ、
真っ赤に火照っていた頬が唐突に熱を失う。後頭部にぬるりとした感触があった。心臓を鷲掴みにされたような感覚。見なくてもわかる。まなのふともも。ついさっき、自分自身がしでかしたことなのだから。
顔面を鷲掴むまなの手に、力がこもるのがわかった。
絹糸のような髪が、そっと頬に触れた。こちらをのぞきこんでくる碧い瞳が見えた。
雪晴は、これほどまでにあらゆる感情がない交ぜになった瞳を見たことがない。
「観測対象R/E0017、戸籍登録名、木桜雪晴。あなたは現時刻をもって特殊気象対策公社ならびに日本国政府の管理下に置かれます」
無理矢理感情を抑えつけたようなまなの言葉に、雪晴は自然に問うていた。
「処分されるんですか、僕は」
まなは深くうつむくと、激しく頭を振った。
「あんたは、操られていただけでしょ」
「僕は、」
「赫眼さえいなければ、こんなことにはならなかった、そうでしょ?」
雪晴の言葉を遮って、まなは今までになく語気を荒くする。
その奥に見え隠れするのは明らかな焦燥。
「春夏秋冬さんと一緒に、八久寺にきてほしい」
なにかを必死に振り絞るようにまなは言う。
「一度赫眼に喰われたひとを、もとに戻せた前例はない。だけど、春夏秋冬さんの力があれば、なんとかできるかもしれない。こんなこと、繰り返さなくてもいいかもしれない。八久寺のひとたちは、ちょっと変なひとも多いけど、いいひとたちばかりだから。悪いようにはしない。きっとだいじょうぶ。だからお願い」
頭を押さえつけるようにつかむまなの手は明らかに震えていた。
「いっしょにきて」
肩口から滑り落ちた髪は小刻みに頬をくすぐり、頭上から急降下してくる碧い視線はどこまでもまっすぐだった。
どうしてだろうと、雪晴は思う。こんな自分のために、どうしてこのひとはここまで必死になってくれるのだろう。
「……私自身、こんなこと言われても信じられないと思う。自分を信じろという人間が、信じられた試しなんてないし。それでも今は、こう言うしかない。お願い、私を信じて。私ときて。私は、あなたをたすけたい」
まなの瞳はぶれない。どこまでも根源的にまっすぐで。まっすぐだからこそ――
雪晴はゆっくりと半身を起こす。
あれだけがっちりと頭を押さえつけていたまなの手があっさりと離れる。
背中に感じる視線に答えるように振り返って、そして、