そのなな
まな先生の赫眼講座は、二年三組の彼女に対する勢力図を明らかに書き換えたといえた。
とはいえそれは休み時間ごとに押し寄せる人だかりを、雪晴が机を端に寄せなくても受け入れることができるようになったという程度のことであり、それも昼休みになる頃には噂を聞きつけた他クラスの連中のせいで結局休み時間は自席でゆっくりすることなどできなくなっていた。
セーラー服かわいいね。君の趣味? お弁当持ってきた? 昼食はどうするの?
「ありがとう。前の学校の制服。持ってきてません。食堂へ。ぽんぽんは痛くありません」
相変わらず淡々と質問の弾丸を喰らい続けるまなを背中に見送りながら、また咲良たちにつかまる前に学食にでも行くかと、雪晴が立ち上がったその時だった。
ふわりと、いいにおいがした。
「食堂、いく?」
殺到する人垣を置き去りにして、いつのまにかまなが目の前に立っていた。
「よかったら、案内してほしい」
学食は今日も盛況だった。今までならこんな時間にのこのこ顔を出してもメニューはともかく座るところもないほどだったが、最近は学校が推し進める親子親交政策(通称おやおや政策)のおかげで弁当持参の生徒が増えており、おかげでかろうじて二人分の席は確保できそうだった。
「券売機ここです。ここで食券買って、好きなだけ、」
「おばちゃん、ミルクちょうだい」
どんだけすばやいのか。
「あいよ、って、うわあ! なんだいなんだい異人さんかい! 異人さんなのかい?! ゆーきゃんすぴーくじゃぱにー?」
「ミルク。ジョッキで」
「ってなんだい、日本語しゃべれんのかい。えらい流暢じゃないかい。低温殺菌と低脂肪どっちする?」
「低温殺菌。あと人形焼き」
「いや、ないでしょ人形焼きとか。学食には」
「ごめんよ、人形焼きは今日切れてんだよね」
あるんだ。
「……切れ、」
途端、まながフリーズする。
「那花さん?」
「……そう、切れてるの」
ものすごく哀しそうだった。まるでこの世の終わりを垣間見たかのような落ち込みっぷりだった。
おばちゃんが言う。
「あんぱんならあるけど」
「あんぱんで!」
一瞬で復活していた。さっきの落胆はいったいなんだったのかと思わせる勢いでトレイにあんぱんを山積みにしていく。
「そ、そんなに食べるんですか?」
「……あんぱんと、」
「え?」
「あんぱんとミルクは、おいしい」
には、と、ほんとに自然に綻んでしまったのだろう、まなの笑顔にどきっとする。
「に、人形焼きはいいんですか?」
「人形焼きはマイブーム。だけどあんぱんは、」
「……あんぱんは?」
答えず、まなはただ、にへ、と笑う。
正直きもい。でもかわいいは正義だった。さらなる胸の高鳴りをなんとか押さえつけながら、雪晴はまなを先導する。
「窓際空いてますけど。それとも外行きます?」
「外は寒い。窓際ももまむめもま」
「いやいやいや、せめて席着くまで待ちましょうよ」
すでにまなはふたつのあんぱんをやっつけしかもリス食いしていた。
「なにもそんなめいっぱい放り込まなくても……」
「むもむまみまむ」
「いやしゃべるか食べるかどっちかにしましょうよ」
もむもむもむもむ。
「やっぱ食べるんだ」
どうして僕に、と思わないでもない。一時限目開始前の赫眼講座以来、さすがにその数は減っていたけれど、それでも休み時間ごとにまなの周りには人だかりができ、マシンガンがごとき質問の嵐を真っ向受け止めては時々つい自分の胃腸の調子を答えてしまっては赤面したりしていた。食堂の案内など頼まなくたって申し出るひとなど後を立たなかったに違いないのに。
同じ委員のよしみ? 一応先生に言われたから?
やめよう。その先を考えたくなくて、雪晴は思考を止める。考えるのをやめるのは得意だった。
ようやく席に落ち着いて、まなはごきゅん、とあんぱんを飲み干す。
「食べれるときに、食べておかないと」
そうか、そういう世界に生きているんだよな。雪晴は思う。
人知れず人ならざるものと争い続ける日々。自分たちとは違う世界が見えているせいなのかな、とも思うけれど、
「おははんおはあり」
ぜってー食いしん坊なだけですよね。
「……一週間前とは別人みたいだ」
ぽつりと呟いた瞬間、まなの動きが止まっていた。なんだろう、リス食いのままじっと上目遣いでのぞき込んでくる瞳に、やっぱりどきどきしながら雪晴は問う。
「……な、なんですか?」
「もまはむもむめ」
「いや、すみません、わかりません。ほら、おべんとついてますよ」
「む?」
「こっちです」
とっさに身体が動いていた。普段の自分からは考えられない行動だった。気づいた時にはまなのほっぺにちょこんとくっついていた小豆をひょい、っと取ってあげてしまっていた。
まず、まなが固まった。
続いて、雪晴もフリーズしていた。
目の前のまなの顔がみるみる朱に染まっていくのを見るにつれて、自分がいったいなにをしでかしてしまったのかを知って、そして、
なんだろう、電撃のように脳内を走るものがあった。これは、アレかもしれない、まずい、とも思う。昔のことを思い出そうとしたときに起こるこれは、
瞬間、まながそのすべてを断ち切っていた。
小豆ひと粒渡さんとばかりに、つまみあげた雪晴の指にかぶりついてきたからだ。
「うわあ!」
「むまみもむまも!」
「いや、すみません、わかんなうひゃひゃくすぐったいくすぐったいですかぶりつくか話すかどっちかにしてください」
もむもむもむもむ。
「って、かぶりつくんだ!」