夜の太公望
短編ファンタジー(?)です。明るい感じで書いてみました。
夕方の報道番組に設けられた天気予報コーナーを、アテにならないと有名な気象予報士がこう締めくくっていた。
『今夜は全国的に雲ひとつ無く、綺麗な満月が見えるでしょう』
これを聞いて俺は、今宵の予定を立てた。
自宅屋根に上っての月光浴だ。
俺は下戸――まだ高校生だから当たり前と言えば当たり前――だから、コーラを片手に月見酒の真似事と洒落こもうか。……あぁ、なんて楽しみなんだろう。
しかし夕食後、自室のベランダから脚立を立て掛け屋根まで這い上った俺がまず思った事は、
『あの気象予報士、また騙しやがった』
『取り敢えず警察呼んだ方が良いかな』
の二つだった。
視界に入ったのは、どこを探しても満月なんか見当たらない夜空と、屋根の上で胡座をかいて座り込む一人の少女。
空については、気象予報士のミスという事にすれば良い。が、勝手に人の家の屋根に上っている女の子には流石に驚く。
それで思い付いたのが、『警察に任せる』という名案なのだ。
怪しいとはいえ女の子相手にこのチキン野郎、と笑いたければ笑え。
背中を向けている彼女は、幸いまだ俺の存在に気付いていないようだった。俺は這った恰好のまま、そうっと下ろした足を脚立に掛けようとした。
しかし――。
「……っ?!」
不覚にも、ゆっくり伸ばした足で脚立を蹴飛ばしてしまった。俺は四つん這いの情けないポーズのままで固まる。
ガシャッ、と夜に相応しくない派手な音がした。
それと同時に少女が振り返る。
「あっ、見つかっちゃった」
マズった、という顔の彼女は頬をポリポリと掻いた。
そうだ、普通この場合、見つかって困るのは俺では無いのだ。だが所詮俺はチキン。こそこそして何が悪い!
ぐっと言葉に詰まった俺に、女の子が笑いかけた。
「お邪魔してます」
「……いらっしゃい」
暗くて解りにくかったが、とても可愛らしい顔立ちだ。歳は俺と同じくらいだろうか。俺は毒気を抜かれ、そんな返事しか出来なかった。
「ちょっと静かにしてて貰える? 今夜は釣れそうなんだ」
「……?」
再び前を向いた女の子は、手に細い棒を握っているようだ。肩越しに手元を覗き込むと、どうやらそれは竹で作られた釣竿らしい。だが、先端に釣糸は付いていない。
「……何してんだ」
色んな意味で。
女の子はちらっと俺を見る。さらさらと流れる美しい黒髪に、心臓が不自然に跳ね上がる。
「釣り」
さも当然、といった様子で簡単に返される。女の子の大きな目はもう、竿を握る手元へと落としていた。
彼女が履いているホットパンツから伸びる白い足にもどぎまぎしながら、俺はもう一度尋ねる。
「こんなとこで?」
「うん」
「何が釣れんだ?」
「釣ってみないとわからないよ」
それはそうかもしれないが。
「…………」
混乱した俺は、どこぞの名探偵のように頭をガシガシと掻く。その時、
「来たっ!」
押し殺した声で叫んだ少女がぱっと立ち上がった。足場としては不安定すぎる屋根の上で、華奢に見える腰を落として足を踏ん張っている。本当に巨大な獲物と格闘しているようだが、釣竿には糸さえ下がっていないのだ。
俺の目にはパントマイムのようにも映る。が、一生懸命な表情はとても演技とは思えない。
「〜っ! 大物ね……ね、ちょっと手伝って!」
「俺がですかっ?!」
「他にいる? 身体っ、支え、てっ!」
細い肢体を左右に大きく振って、女の子が怒鳴る。身体を支えるという事は、その腰へ抱き付くに他ならないという事で――。
「早く!!」
「あ、あぁっ!」
鋭く急かされた俺は、ともすれば見えない何かに振り飛ばされそうになっている細い腰に、(多分)損得勘定抜きでしっかりと腕を回した。
その途端、俺の身体は凄まじい力によって引き摺られそうになった。なんだこれ!?
「こんなサイズは珍しいわ――上等っ! 絶対釣り上げてみせる!!」
闘志が燃え上がったように女の子が笑う。俺には横顔しか見えなかったが、その表情はとても楽しそうだった。
――よし。
俺は支える両腕を離す。代わりにぐぐっと伸ばし、女の子が握り締める竿を一緒に掴む。
「チキン野郎でも、野郎の内なんだよ!!」
こんなとこで何が釣れるのか、確かめてやろうじゃねぇか!
ジタバタ暴れまくっていた『獲物』の力が弱まったように感じた。
「もうすぐか!」
「ええ!」
俺と女の子は同時に息を大きく吸った。
「いち!」
「にぃの……」
最後は二人、声と息を合わせる。
「さ――んっ!」
はね上がった釣竿と同時に姿を現したのは、今宵の空のように黒い、大きな大きな『魚』だった。
「えーと、2メートル53センチ。新記録ね――」
今頃になって身体が震え始めた俺を後目に、少女は屋根の上で、メジャーを取り出しててきぱきと計測している。
「……なぁ。一体何がどうなってんだ?」
「釣った魚が死んでる」
「…………」
「あ、そうだ。忘れるとこだったわ」
女の子が、白く長い足を『魚』の腹へと叩き込んだ。すると『魚』の口から金色の光が飛び出し、それはあっという間に空へと昇って行った。
周囲がみるみる明るくなる。一瞬、何が起きたのかわからなかったが――。
「嘘だろ――」
見上げた夜空に、金色の月が輝いていた。
「こいつは光る物ならなんでも食べちゃうの。でもよりによって月光を食べるなんて――」
「ははは……全っ然追いつかねぇな」
もうどうだって良い。
女の子は巨大な『魚』を縄でぐるぐると縛り上げている。そして縄の先端を持つと、笑顔で俺を顧みた。
「ありがとっ。助かったわ」
「お――おう」
「じゃ、私行くから」
「行くって、どこへ?」
「魚河岸」
「あ、そ……。てか重くね? それ」
俺が『魚』を指さすと、女の子は首を振った。
「さっきは月光がお腹に入ってたから重かっただけよ。今はそうでもないわ」
言いながら戦利品に巻き付けた縄を担ぎ、
「じゃあね!」
と、屋根から飛び降りたのだ。
「おいっ、ここ二階の――」
言いかけた俺は屋根から身を乗り出したが、すでに女の子の姿はどこにも見当たらない。細い身体と大きな『魚』は夜の闇に溶けてしまったかのようだった。暫く俺は呆然としていた。
――この出来事が夢では無い証拠がある。俺の掌が、何かで擦ったようにジンジンと赤くなっていたのだ。
「……ったく。とんだ月光浴だな……」
だが俺に降り注ぐ月光は、今までに無い程美しく周囲を照らしていた。
いまいち纏まりに欠けている気がしないでもないですが、まぁ終わりという事で。