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からくり空手  作者: 水前寺鯉太郎
第3部

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第72話:データと本能の境界線

「第二回戦、第二試合――佐野 対 井上康成。始めッ!!!!」

 二〇二六年、六月下旬。駒沢オリンピック公園体育館。降り止まぬ長雨がもたらす湿気が、からくり機体たちの冷却系に重い負荷をかけていた。

 佐野は、更衣室にタブレットを置いたままリングへ上がった。

 「佐野、井上は小川道場の正嫡だ。黒の155勝、奴の『理』は、規格化されたデータじゃ計りきれんぞ」

 セコンドの田所の声に、佐野は静かに頷いた。「分かっています。だから今日は、データではなく――僕自身の『マブイの精度』を信じます」

 嵐は何も言わなかった。ただ、少年の背中に刻まれた『ボルシチ・ギア』の排気ダクトが、決意を映すように静かな青い燐光を放つのを見つめていた。

 対峙する井上康成は、微動だにしない。彼の纏う『柔・参型』は、全身のジャイロセンサーが連動し、外力による重心の乱れをコンマ数秒で打ち消す「能動的安定装置アクティブ・スタビライザー」を備えている。

 「始めッ!!」

 佐野がサンボの「いなし」の構えから、重い湿気を押し分けるように前へ出る。

 井上が動いた。最短の軌道で放たれた右手が、佐野の袖口を確実に捉える。

 (――今だ)

 佐野は掴まれることを拒まなかった。逆に、その瞬間に掌の触覚センサーを最大出力へオーバーライド。井上の肘を「掴み返す」ことで、二人の機体の間に物理的な通信回路リンクを形成した。

 「ヒット、佐野! 1点!」

 【佐野 01 - 00 井上】

 「……掴まれると同時に、僕の信号を相手のフレームに流し込みました」

 井上の瞳が鋭く細まる。「なるほど。回避を捨てて『情報の同期』を選んだか。だが、組み合えば柔道が絶対的に有利なのは変わらん」

 

 井上が一気に踏み込む。片襟片袖の伝統的な組み。佐野は襟を掴まれたが、同時に自らのマブイを右手の指先へ集中させ、井上の腰帯を強引にハックした。

 「クリーンヒット、井上! 2点!」

 【佐野 01 - 02 井上】

 

 「引きずり込む!」

 井上が腰を落とした。重心を地表数センチまで下げる、死神の引き込み。

 「ダウン、井上! 3点!」

 【佐野 01 - 05 井上】

 (……重い。データ上では知っていたが、実際に投げられた際の重力 G の感覚は、シミュレーションの比じゃない……!)

 立ち上がる佐野のバイザーには、ダメージの警告が走る。しかし、彼はそれを無視し、井上の袖から伝わってくる「微細な振動」に意識を全集中させた。

 (桑原部屋の高さんに教わった重心の読み方……帯よりも袖の方がノイズが多い。なら、不規則な振動の『周期』を逆算して、次の爆発エクスプロージョンを特定する!)

 再び組み合う二人。

 (重心が左足のサーボモーターへ……来る、引き込みだ!)

 佐野は井上が引くより一瞬早く、自らの関節のトルクを解放し、井上の力のベクトルを「空転」させた。

 「ヒット、佐野! 1点!」

 【佐野 02 - 05 井上】

 井上が初めて眉を動かした。「……袖越しのノイズから、私の出力を予読プレディクトしたというのか」

 「解析ではありません」佐野が静かに答える。「僕のからくりが、あなたの機体の『呼吸』を覚えたんです」

 残り一分。

 【佐野 09 - 11 井上】

 二点差。

 井上の吸気――人工筋肉が駆動電圧を溜め込むわずかな電圧降下。佐野はその一刹那を逃さなかった。

 井上の腕を掴み、自らの全体重を回転軸へと捧げる。サンボの肩越し投げ。

 「ダウン、佐野! 3点!」

 【佐野 12 - 11 井上】

 逆転。会場が地鳴りのような歓声に包まれた。だが、155勝のプロの牙は、その程度では折れなかった。

 残り十秒。井上が放った最後の大外刈り。

 佐野は重心の移動を感知した。しかし、連戦による排熱限界で、佐野の足首のブースターがコンマ数秒のラグを起こした。

 「ダウン、井上! 3点!」

 

 タイムアップ。

 【最終スコア:佐野 12 - 14 井上】

 「勝者、井上康成!!」

 佐野はリングの床を見つめたまま、熱を持った自分の掌を見つめた。

 負けた。しかし、掌の中には、155勝のプロの「魂の重み」が、消えないデータとして刻まれていた。

 「……佐野くん。君のその『学びながら戦う』狂気……次は、私が食われる番かもしれないな」

 井上が差し出した手を、佐野は力強く握り返した。

 「次は、今日覚えた『感触』を僕のシステムの一部にして勝負します」

 【佐野 通算成績:9勝2敗。――敗北は、次なる解析の種】

 東京大会の雨は、まだ降り続いていた。だが、佐野のバイザーに映る世界は、以前よりもずっと鮮やかに、そして「不確定な熱」を帯びて輝いていた。

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