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からくり空手  作者: 水前寺鯉太郎
第3部

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第69話:剛と柔の源流

『からくり空手』

第69話:剛と柔の源流


「第五試合——遠野 対 マスターイップ! リングへ!!」

 会場の空気が変わった。

 マスターイップという名前を知っている者が、観客席の中にいた。その人たちが、一斉に姿勢を正した。

 嵐が佐野に聞いた。「マスターイップって、どんな人ですか」

 佐野がタブレットを開いた。

「……データが少ない。しかし分かることがあります。香港生まれ、七十二歳。詠春拳の師範。——ライセンスは」

 佐野が画面を見て、一瞬止まった。

 「金星です。通算千勝以上」

 マスターイップがリングへ歩いてきた。

 七十二歳。しかし「老人」という印象がない。細身で、背が低い。道着は白く、装飾が何もない。からくりアーマーも極限まで削ぎ落とされていた——両手首にのみ、細いからくり補強が巻かれているだけだ。

 その歩き方が——木村と似ていた。

 流れるような、無駄のない歩法。詠春拳の歩き方だ。しかし木村のそれより、遥かに深い。

 木村が客席で立ち上がった。「……あの歩き方は」

 「知ってるんですか」嵐が聞いた。

 「詠春拳の、本物の『寸法すんぽう』だ」木村の声が、わずかに震えていた。「俺が目指している動きの——その先だ」

 遠野がリングに上がった。

 「クロオビ・岩鉄Mk-II」の重量感が、マットを低く鳴らした。山のような圧力を放つ遠野と、小柄なマスターイップが向かい合った。

 体格差は歴然だ。遠野の方が頭一つ以上大きく、体重は倍近い。

 マスターイップは遠野を見上げ、静かに言った。日本語だった。

 「遠野くん。洪家拳と詠春拳は、同じ少林寺から生まれた兄弟だ。今日は兄弟喧嘩といこうか」

 遠野が深く一礼した。「……マスターイップ。あなたの詠春拳、全力で受け止めます」

 「始め!!」

 マスターイップが動いた。

 歩く。ただ、歩く。

 しかしその一歩ごとに——遠野の「岩鉄」の警告センサーが微かに反応した。接近しているのに、接近している気配がしない。

 遠野が構えを固めた。「四平大馬しへいたいば」——大地に根を張る洪家拳の基本構え。マブイが地中へ伸びていく。

 マスターイップが手を伸ばした。

 遠野の前腕に、指先が触れた。

 「ヒット、マスターイップ! 1点!」

 【遠野 00 - 01 マスターイップ】

 遠野は動いていない。しかし触れられた。指先が、遠野のどこかを「開いた」感触があった。

 (触れただけで、1点か——センサーが反応した。有効打と判定された。しかし、痛みがない。いや、痛みではなく——マブイが、揺れた)

 マスターイップが静かに言った。「詠春拳の黐手チーサオは、木村くんも使う。しかし俺のそれは少し違う。——触れた瞬間に、相手のマブイの中心を探す」

 「マブイの中心——」

 「人間のマブイには、重心と同じように『中心点』がある。そこに触れると、全身のバランスが一瞬だけ崩れる。——崩れた瞬間が、ポイントだ」

 遠野は構えを解かなかった。「……ならば、俺の中心点を探させない。大地のマブイと繋がれば——中心は地球の中心だ」

 マスターイップは微笑んだ。「面白い答えだ。試してみよう」

 マスターイップが再び近づいた。

 今度は指先ではなく、手のひら全体で遠野の前腕に触れた。黐手の基本形——しかし木村のそれとは質感が違う。圧力がない。重さがない。ただ「そこにある」だけ。

 遠野は大地のマブイを引き上げ、全身に満たした。

 マスターイップの手が、遠野の前腕の上を——滑った。

 抵抗がなかった。遠野のマブイが「大地と繋がっている」ため、触れる起点がない。

 マスターイップは手を引いた。「……なるほど。中心が地下にある。では——」

 マスターイップの手が今度は上から触れた。

 肩の上部。遠野のマブイが地下へ向かっている、その「上流」だ。

「ヒット、マスターイップ! 1点!」


【遠野 00 - 02 マスターイップ】


 遠野の全身が、一瞬だけ揺れた。

(上流を触れられた——地下へ流れているマブイの、源流を揺さぶられた)


 遠野は構えを低くした。肩を落とし、重心をさらに下げる。上流を守るために。


 マスターイップは位置を変えなかった。ただ、今度は手を伸ばさなかった。


 待っている。


 遠野が攻めに転じた。洪家拳の「虎鶴双形」——右掌で視界を遮り、左の虎爪が胴体を狙う。


 マスターイップは動かなかった。


 遠野の掌が、マスターイップの視界を遮ろうとした——その腕が、マスターイップの指先一本で「止まった」。


 物理的に止まったのではない。遠野の腕のマブイが、一点で断ち切られた。腕が——動かなくなった。


「クリーンヒット、マスターイップ! 2点!」


【遠野 00 - 04 マスターイップ】


「……腕が動かなくなった」


 遠野は自分の右腕を確認した。数秒後、マブイが戻ってきて動きが回復した。「マブイを、局所的に断ち切った」


「触れた場所のマブイの流れを、一瞬だけ止める」

マスターイップは言った。

「洪家拳は全身のマブイを一点に集中させる。集中したマブイは——触れた場所で止めやすい」


 遠野は少し考えた。


(集中させるから止められる。ならば——集中させなければいい。しかしそれでは、洪家拳の力が出ない)


 ジレンマだ。遠野の強さの源泉が、そのまま弱点になっている。


残り2分。


【遠野 03 - 08 マスターイップ】


 遠野はポイントを積み上げていた。しかし追いつけていない。マスターイップの「触れるだけ」の攻撃が、着実にポイントを刻み続けている。


 遠野が考えた。


(集中させない。しかし力を出す。——矛盾だ。しかし、本当に矛盾か)


 ブラジルのシルバ戦で、遠野は「砂の拳」を作った。装甲が砕かれた後、バラバラになった粒子を「流動する鋼」として使った。


 固まるから砕かれる。ならば最初から砂であればいい——あの時の気づきが蘇った。


(集中させるから止められる。ならば——分散させながら、一点に届かせる)


矛盾のように聞こえる。しかし「霧が集まって雨になる」ように、分散したものが一点に降り注ぐことはできる。

遠野は洪家拳の構えを——わずかに変えた。


 全身のマブイを一点に集中させるのではなく、全身に薄く均一に満たした。嵐が佐々木戦で使った「霧」に近い状態だ。しかし遠野の「霧」は、嵐のそれより密度が高い。大地のマブイを吸い上げ続けているため、薄く広がっても濃い。


 マスターイップが近づいた。触れようとした。


 触れた瞬間——止めようとしたが、止める「点」がない。霧に中心はない。


「……分散させた」マスターイップが呟いた。「しかしそれでは、一撃の重さが——」


 遠野が踏み込んだ。


 全身に分散していたマブイが——踏み込みの瞬間に、右拳の一点へと「降り注いだ」。


 霧が雨になった。


「クリーンヒット、遠野! 2点!」


【遠野 05 - 08 マスターイップ】


 マスターイップの目が細くなった。


「……面白い。分散から収束か。それは——詠春拳の『寸勁』と同じ原理だ」


「そうかもしれません」

 遠野が静かに言った。

「洪家拳と詠春拳は、兄弟だとおっしゃった。——根が同じなら、辿り着く場所も近いのかもしれない」


 マスターイップは少し黙った。それから、初めて構えを正面から取った。


「遠野くん。俺も正面から行こう」


 残り1分。


【遠野 07 - 10 マスターイップ】


 マスターイップの黐手が来た。

 

 しかし今度は「触れるだけ」ではない。木村の連環拳に近い、連続した接触だ。


 遠野は「霧から雨」の動作を繰り返した。

 分散——収束——分散——収束。


 触れるたびにマスターイップが止めようとする。しかし霧は止められない。収束した瞬間に一撃が来る。


「クリーンヒット、遠野! 2点!」


「ヒット、遠野! 1点!」


「クリーンヒット、マスターイップ! 2点!」


 スコアが激しく動いた。


 残り20秒。


【遠野 11 - 13 マスターイップ】


 2点差。逆転にはダウンが必要だ。


 遠野は大きく踏み込んだ。


 全マブイを——一気に収束させた。霧が嵐になった。


萬斤砕まんきんさい」の変形——砕かれた装甲の「砂」ではなく、大地のマブイが全て右拳に集まった。


 マスターイップが触れた。止めようとした。


 しかし今回の収束は、マスターイップが触れた「後」に起きた。


 触れた瞬間に収束した。マスターイップの指先が、収束の「起爆剤」になった。


 マスターイップの体が、後方へ弾け飛んだ。


「ダウン、遠野! 3点!」


 タイムアップ。


【遠野 14 - 13 マスターイップ】


「勝者、遠野!!」


 会場が静まり返った後、拍手が来た。


 マスターイップが立ち上がった。

 倒れた体を確認し、それから大きく笑った。七十二歳の顔が、少年のように明るくなった。


「……触れた瞬間に収束させた。俺の触れ方を、逆手に取ったか」


「マスターイップの触れ方を学ばせてもらいました」   遠野が深く一礼した。

「あなたが触れた場所が——収束の起点になりました」


「なるほど」

 マスターイップは満足そうに頷いた。


「洪家拳が詠春拳を吸収した——いや、融合した、か。面白い」


 マスターイップが遠野に右手を差し出した。


「遠野くん。君の洪家拳は、まだ伸びる。——また手合わせしたい」


「はい。ぜひ」


 客席へ戻った遠野に、木村が近づいた。


「遠野さん。マスターイップと戦って——どうでしたか」


 遠野は少し考えた。


「……詠春拳の深さを、初めて理解した気がします」


「詠春拳の」


「木村さんが目指している場所が——どれだけ遠いか、今日分かりました」

 遠野は静かに言った。

「しかし同時に——木村さんがその場所に近づいていることも、分かりました」


 木村は遠野の顔を見た。

 それから、リングを降りていくマスターイップの背中を目で追った。


 七十二歳の詠春拳師が歩いていく。その背中に——木村がいつか辿り着きたい「景色」があった。


「……俺も、手合わせしてもらえるかな」


 木村は呟いた。


「聞いてみてください」嵐が言った。


「マスターイップさん、まだ会場にいます」


木村は少し迷った。それから立ち上がった。


【遠野 通算成績:記録更新中】


会場の端で、マスターイップが水を飲んでいた。


木村が近づいていく背中を、嵐は見ていた。


詠春拳の源流と、詠春拳の継承者が出会う瞬間だ。


佐藤が小声で言った。

「……木村さん、緊張してますね」



「当然だ」嵐は静かに言った。


「憧れの人に会いに行くんだから」

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