第61話:父の席、息子の拳
『からくり空手』
第61話:父の席、息子の拳
桑原部屋の食堂は、広かった。
力士たちが囲む大きな食卓に、嵐と桑原が向かい合って座った。ちゃんこ鍋の湯気が立ち上り、五人の男たちが黙々と食べている。
桑原は椀を一口飲んでから、話し始めた。
「IKKCが設立されたのは、今から四十年前だ」
桑原は静かに言った。「からくり空手が世界に広まり始めた頃、競技としての統一ルールが必要になった。各国の道場がバラバラに動いていた時代に、一つの組織が生まれた——それがIKKCだ」
「最初から13人のマスターがいたんですか」
「最初は7人だった。世界の主要な格闘大国から一人ずつ選ばれた。日本、韓国、中国、アメリカ、ブラジル、ロシア、フィリピン——それぞれの格闘文化を代表する人物だ」
桑原は椀を置いた。
「その7人の中に、俺の父がいた」
嵐は箸を止めた。
「桑原さんのお父さんが——マスターだったんですか」
「ああ」桑原は静かに言った。「桑原剛造。元横綱で、からくり相撲界の頂点に立った男だ。設立当初の7人のマスターの一人として、日本代表として名を連ねていた」
食堂が静かになった。五人の弟子たちは、食べながら聞いている。この話を、何度か聞いたことがあるのかもしれない。
「父は俺が十五の時に死んだ」桑原は続けた。「からくり相撲の試合中の事故だった。——そしてその席に、後藤が入った」
嵐の体が、わずかに固まった。
「後藤が……お父さんの席に」
「日本代表のマスター席だ」桑原の声は平静だったが、その目の奥に何かが揺れた。「後藤はその頃、既に日本最大の道場を持っていた。父の後継として、理事会が推薦した。——父が生きていれば、違う人間が入っていたかもしれない」
桑原はちゃんこを一口食べた。それから続けた。
「IKKCのマスターは現在13人だ。7人から13人に増えた経緯には、色々な駆け引きがあった。今は後藤の影響力が強い。議長のリー・チャンウォンと、後藤は利害が一致している部分がある」
「どんな利害ですか」
「リーは『計算できないからくり空手』を嫌う。後藤は『規格化されたからくり空手』を推進する。——方向性が同じだ。アンディのような『計算の外にある空手』を、二人とも排除したい」
嵐は黙って聞いた。
「アンディのプラチナ承認が7対6の薄氷だったのは、その力学のせいだ。リーと後藤が、あの審査で組んでいた。それでも7人がアンディを認めた——そのうちの一票は」
桑原は一拍置いた。
「父の遺した席の後継として俺が継いだものだ。当時俺はまだプラチナになっていなかったから、正確には父の仲間だったマスターが俺の代わりに投じた票だが——その人物は、俺の意志を代弁してくれた」
嵐は静かに聞いていた。
「桑原さんは今、マスターではないんですか」
「なれていない」桑原は率直に言った。「マスターになるには、IKKCの理事会で承認される必要がある。後藤がいる限り、俺の承認は通らない。——父の席を、後藤に取られた男の息子を、理事会が認めるはずがない」
「それでも、四天王にはなれた」
「四天王はプラチナ保持者だ。IKKCが決めるのではなく、からくり空手の実力が決める」桑原は嵐を見た。「マスターズとプラチナは別物だ。プラチナは実力で取る。しかしその実力を『認める』のはマスターズだ——そこに矛盾がある」
渡邉が口を開いた。「親方。嵐さんに、第三番の話もしておいた方がいいんじゃないですか」
桑原が頷いた。「そうだな」
「第三番——ジャッジメント・イレブンの三番目ですか」嵐が聞いた。
「ああ」桑原は腕を組んだ。「第七番が広島道場を観察した後、俺のところにも情報が入ってきた。第三番は組み技の専門家だ。——レスリング、相撲、シルム、柔術。四つの組み技を高次元で融合させている」
嵐は五試合分の疲労を思い出した。今日一日で、組み技の恐ろしさを骨で理解した。それを四つ融合させた相手が来る。
「今日の稽古は、その準備ですか」
「準備の入口だ」桑原は言った。「一日で身につくものではない。しかし——今日体験したことを、体が覚えている。それが土台になる」
高が食器を置いた。「安道。来週も来るか」
嵐は少し考えた。「来ます」
「ならば俺たちも本気で相手をする」高は静かに言った。「今日は様子見だった」
「……今日で様子見だったんですか」
「そうだ」
嵐は苦笑した。五試合、あれで様子見だったのか。
食事が終わり、嵐が帰り支度をしていると、桑原が玄関まで送ってきた。
「嵐。一つだけ聞いていいか」
「はい」
「お前は、プラチナを取った後に何がしたい」
嵐は少し考えた。「叔父さんと同じ場所に立ちたい。それだけです」
「それだけか」
「……それだけです。今は」
桑原は黙った。夜の両国の空気が、二人の間に流れた。
「父は言っていた」桑原がゆっくりと言った。「プラチナになったことより、プラチナになるまでの道が大事だ。道を歩いた分だけ、人間が重くなる——と」
嵐は黙って聞いた。
「お前の拳は、今日少し重くなった」桑原は嵐の右拳を見た。「来週また来い。もっと重くしてやる」
「はい」
嵐は門を出た。振り返ると、桑原が腕を組んで立っていた。
両国の夜空の下、桑原洋己の姿が——遠い昔、父の背中を見ていた少年の面影と重なった気がした。




