ホレたぜ、かじゅブー
ちょうどそのとき、ウィンと静かな音をさせて木製の自動扉が左右に開いた。ドリンクを乗せたワゴンをガラゴロ押して入ってきたのは、先ほど立体ホログラフィで見た、あのエンビ服の男だ。実物のほうがやや老けて見えるが、なにかスポーツでもやっていたのか体つきはがっしりしている。しずしずとワゴンを押して応接セットの前までやって来くると、俺たちのほうを見て慇懃に挨拶をした。
「いらっしゃいませ。わたくし当医院で事務長をしております、エドワードと申します」
あわてて立ち上がり、名刺を差し出した。
「これはどうも、私立探偵のカズヤ・ブルーノです」
エドワードは、検問中の警察官のような目つきで俺の顔と名刺に書かれた文字を見比べた後、横目でドクター・キリシマのほうを睨んだ。なぜ探偵など中へ入れたのですか? 目がそう語っている。それに対しドクター・キリシマは、私の勝手でしょ、と言わんばかりに鼻をつんと突き上げた。こんな良い男を黙って帰す手はないわ。たぶんそう言いたかったのだろう。
こほん。
咳払いをひとつしてから、エドワードはテーブルの上にコーヒーカップをならべてゆく。輝くような白磁がチンと硬質な音を鳴らした。二本の剣が交差するコバルトブルーの窯印。間違いない、アンティーク・マイセンだ。さすがに良い趣味してやがる。銀器のポットから湯気の立つコーヒーが注がれてゆく。コポコポコポ……。この芳醇にしてまろやかな香りはおそらく中米産の、そうだな、グァテマラかコスタリカあたりだろう。俺はコーヒー豆には一家言ある。エドワードが言った。
「あいにくインスタントですが」
「うっほーっ」
そのとき、マリモちゃんが胸を激しくドラミングした。
ボコボコボコボコッ
目の前に置かれたバナナジュースの豪華さに感動しているのだ。なんと生のサツマイモをスライスしたものが刺さっている。ストローのように見えるのはアスパラだった。うっほっほーっ。ボコボコボコッ。借金取りのチンピラを何度か追い返したこともあるマリモちゃんのドラミングだが、しかし敵もさるもの、エドワードは表情ひとつ変えなかった。
「では、ごゆっくり」
一礼して部屋を出てゆこうとする。そのときドクター・キリシマが目顔でなにか指示するのを、俺は見逃さなかった。それに対してエドワードが小さく頷いたのも。
こいつらなにか企んでやがるな。
職業がら、俺は鼻が利くほうだ。とくに危険なにおいに対しては敏感だった。身の危険が迫ると、なぜかいつもケツの穴がむず痒くなるのだ。今も、ギョウ虫が湧いているのではと心配になるくらいケツの穴が痒い。つい、おしっこを我慢する幼児みたいに尻をモジモジさせた。
「さあ、熱いうちに召し上がれ――」
そう言ってドクター・キリシマが微笑んだ。ただし自分はコーヒーカップへ手を伸ばそうとはしない。まさか一服盛ったわけではあるまいな。マリモちゃんに注意を促そうとしたが、時すでに遅し、飲み干したグラスの底に舌を突っ込んでレロレロ舐め回しているところだった。
「どうぞ、冷めないうちに」
ドクター・キリシマが、俺の目を見ながらタバコの煙をフーッと吐き出した。声は穏やかだが、得体の知れないプレッシャーをかけてくる。さすがに、こちらから押し掛けておいて、出されたコーヒーに手をつけないというのも失礼であろう。
「では、遠慮なくいただきます」
俺はカップをつまみ上げると、まず優雅な所作でコーヒーの香りを楽しんだ。目を細め「デリシャス!」と顔全体で表現する。それから少しだけカップの中身をすすり、うんと頷いて「ワンダフル!」という表情をしてみせた。ただし口に含んだコーヒーを飲み込んだりはしない。後で咳をするフリをして、こっそりハンカチへ染み込ませるのだ。だてに探偵稼業を長くやっていない。こういう場合の対処法はちゃんと心得ている。
ドンドンドンッ!
そのとき部屋のドアが激しく叩かれた。「やめてくださいっ」という女性の声も聞こえる。院長室の外でなにか騒ぎが起こっているようだ。
「おいこらあ、今すぐ院長を出しやがれっ」
ドンドンドン、バコッ!
最後の「バコッ」は、恐らくドアに蹴りを入れた音だろう。びっくりして思わずコーヒーを飲み込んでしまった。どうしてくれるっ。
「一体なにごと?」
ドクター・キリシマが執務デスクへ飛んで行って内線ネットワークのタッチパネルを操作する。ふたたび立体ホログラフィとなって現れたエドワードが、声をひそめて言った。
「先ほど施術を終えたひとりが、気が変わったので元に戻せと騒いでおります」
チラッとこちらへ視線を向けてから、ドクター・キリシマは内線通信機にあるスピーカーのボリュームをしぼった。俺はすかさず、右耳の奥へ隠してある超小型集音マイクの感度を上げた。この装置を使えば、十メートル離れた場所でこっそり放ったスカシっ屁の音まで聞き分けられる。
「バカね、そんなのさっさとレストアしちゃって、後で倍の料金を請求すれば良いだけの話でしょう」
「いえ、それが、教団本部にあるデータベースと照合したところ、摘出したペ◯スは特Aのランクに合致しましたもので……」
「それは本当なの? 分かったわ、取りあえずその患者は特別室のほうで待たせてちょうだい。私もすぐに行くから」
「かしこまりました」
通信を終えたドクター・キリシマは、なにか思索をめぐらすように視線を宙へ泳がせていたが、ふと俺たちの存在に気づいて表情を硬くした。
「探偵さん悪いわね。急用ができたので、そろそろお引取り願えるかしら」
「なにか緊急事態ですか? さっき外で患者さんが騒いでいたようですけど」
ドクター・キリシマは新しいタバコに火を付けながら、俺に鋭い視線を送った。
「大したことじゃないし、あなたには関係のないことよ。あまり妙な詮索はしないことね。でないと、こちらも法的な手段に訴えることになるわよ。おたくに高額な裁判費用を負担できるだけの財力があるとは思えないけど」
煙と一緒に毒を吐きながら、薄笑いを浮かべる。たしかに一介の探偵が警察まがいの捜査をすることは、法に触れかねない。裁判までほのめかされてしまえば、もう正攻法でなにかを聞き出すのは無理というものだろう。
それでも言われっ放しのまま引き下がるは癪なので、憎まれ口のひとつでもと考えていたら、急に腹がギュルギュルと鳴り出した。猛烈な便意に、体じゅうから冷や汗が吹き出す。
「うっ、これは……」
ドクター・キリシマが嬉しそうにウィンクしてみせた。
「あら、トイレなら廊下へ出て左側の奥よ。うふふ、ちょっと急いだほうが良いかもしれないね」
くそう、やはり一服盛りやがったな。俺は括約筋に全神経を集中させて、そろそろと立ち上がった。
「で、ではドクター、本日はお忙しいところありがとうございました、うううっ……。い、いくぞ、マリモちゃん」
ウホッ。
どうやらマリモちゃんは無事のようだ。おそろしく胃が丈夫で、海王星にある回転寿司で腐ったサバを出されて救急車で運ばれたときにも、彼女だけはピンピンして三十五皿も食いやがった。
とりあえず一時退却っ。
俺はまるで花魁道中みたいに、しゃなりしゃなりと内股で革靴を引きずりながら院長室を後にしたのだった。