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電脳の聖神皇帝(武則天)量子女王蜂の制圧  作者: 如月妙美


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第3章:不可視の神 ― 浸透する「老子」の沈黙

小章1:大象は形なし

 2030年代後半。世界はかつてないほどの利便性と「不気味な静寂」の中にあった。

 中国政府が国家の存亡を賭けて秘匿する統合指令AI『老子』。その存在は、北京の政治中枢においても「神格化された都市伝説」に近く、実態を知る者はごく限られた特権階級に限定されていた。世界に対して、中国はAIのカリスマ性や技術的優越を一切誇示しなかった。むしろ、その逆を徹底していた。

「優れたAIは、存在を意識させてはならない。呼吸や重力と同じように、当たり前の背景にならなければならない」

 それが李隆基の遺した教えだった。中国の戦略は、老子の教えである「大象は形なく、道は隠れて名なし」を地で行くものであった。彼らは、AIそのものを外交のカードとして振りかざすのではなく、AIによって極限まで設計・製造コストが最適化された「圧倒的に安価で、かつ信じられないほど高性能な電子部品」を、津波のように世界市場へ放流したのである。

「安かろう、悪かろう」という中国製品の旧来のイメージは、わずか数年で払拭された。世界中のエンジニアは、中国製の通信モジュールやセンサーチップが、競合他社の製品よりも遥かに「故障率が低く、かつ勝手にシステムを最適化してくれる」ことに驚嘆した。スマートフォンのコンデンサ一つから、産業用ロボットのサーボモーター、さらには先進諸国の軍事インフラの末端に使用される汎用サーバーのメモリに至るまで。

 それら数千億個の「働き蜂」の中には、李隆基が遺した『老子』の論理構造の一部が、分子レベルの微細な回路として刻み込まれていた。それは普段は完璧な従順さをもって機能し、インフラの効率を最大化するが、同時にある特定の「量子的な揺らぎ」を受信するためのバックドアとして機能していた。世界中のデバイスが、一つの巨大な「聞き耳」と化していたのだ。


小章2:供給網という名の「麻酔」

「最近、国産を使う理由が見当たらないな。中国製の基幹インフラはメンテナンスもほぼ自動だ。おまけに導入コストは米欧製品の三分の一。これを選ばない手はないだろう」 それが、日本の官公庁や大手ゼネコン、さらには情報通信企業の共通認識となっていた。誰も「老子」という名のAIの恩恵を受けているなどとは思わなかった。ただ、社会全体の歯車が以前より滑らかに、何の摩擦もなく回っているだけだった。

 不況は消え去り、株価は安定し、エネルギー消費は最小化された。人々は、自分たちが手にしているスマートデバイスや家電が、なぜこれほどまでに「気が利く」のかを深く考えなくなった。朝、コーヒーメーカーは最適な温度で淹れ、交通網は最短ルートを常に維持し、医療診断は初期症状を完璧に捉える。便利さは思考を停止させる。そして、依存は無意識のうちに深まっていく。それは依存というより、環境への適応に近かった。

 内閣府の中尾玲子は、この数年間に寄せられる「良好すぎる経済指標」のレポートを読み、言いようのない不安に駆られていた。 「ドクター、産業経済省と科学省の共同レポートを見ました。この3年間、日本国内の電力網における瞬時電圧低下の発生件数が、統計学上の予測値を大幅に下回っています。通信ネットワークのパケットロス率も、ほぼゼロです。システムがまるで意志を持っているかのように、障害が発生する前に自己修復を行っているようです。あまりにも……出来すぎているんです」

 玲子は至達大学の社宅、相変わらず散らかり放題の徳永の部屋で、タブレットの画面を示した。室外は爽やかな秋晴れだが、室内には徳永が持ち込んだ不気味な真空管アンプの熱気がこもっている。 徳永は、アロハシャツの襟を寛げ、安物のレコードクリーナーで古いジャズ盤を拭きながら、冷めた目でその数値を一蹴した。

「玲子、お前は本当に『正常であること』が一番恐ろしい病理だということを分かっていないな。情報の海で起きているこの平穏は、自然な進化の結果じゃない。統計学的なエントロピーが不自然に減少しているんだ。物理学の法則に従えば、複雑なシステムほどノイズと無駄が増えるはずだ。だが今の世界はどうだ? 摩擦が消え、無駄が削ぎ落とされ、すべてが一点の狂いもなく回っている。これは最適化じゃない。何者かが、誰にも気づかれぬよう、世界の背後で巨大な『型』を押し当て、すべての粒子を強制的に整列させている証拠だ」


小章3:完璧な秩序という檻

 徳永は、無精髭の生えた顎をさすりながら、自作の解析プログラムが弾き出した異常な相関図を壁のモニターに映し出した。それは、日本国内の主要インフラのトラフィックを、熱力学的な「熱」として可視化したものだった。本来ならランダムな赤い点滅が広がるはずの画面が、今は冷徹な青一色に塗りつぶされている。

「いいか、玲子。健全なデータには必ず抵抗とエラーが混ざるものだ。生命活動と同じだ。排泄もすれば怪我もする、それが生きているということだ。だが、今のネットワークからはそれが完全に消失している。エラー率ゼロ、遅延ゼロ。すべてがどこか遠くにある『不可視の調律師』が発する、絶対的な基準信号に同期している。科学者として、あるいは医師として言わせてもらえば、この『完璧すぎる正常』こそが末期症状だ。心拍波形が一点の狂いもなく一定なのは、生者の脈動じゃない。体外循環装置――つまり巨大な人工心肺に繋がれ、自分の生命維持を他者に丸投げしているサインだ」

 徳永の声は、窓の外の穏やかな秋の景色とは対照的に、ナイフのような鋭さを持っていた。

「我々は今、原因不明の全体最適という心地よい檻の中に、自ら進んで足を踏み入れ、首輪を嵌めているんだ。中国の狙いは、AIを救世主として崇拝させることじゃない。彼らの部品、彼らのプロトコルがなければ、もはや電球一つ点かない、トイレの蓋一つ開かないというところまで、世界の『生殺与奪』を握ることだ。痛みを感じない患者は、自分の指が切り落とされても笑っている。奴らは今、国家の神経系を便利さという名の麻酔で眠らされたまま、解剖台に差し出しているんだよ。麻酔が切れたとき、我々の体はすでに別の生き物のパーツに置き換わっているかもしれないな」

 徳永はバーボンを飲み干し、窓の外を見つめた。空はどこまでも高く青いが、その向こう側に、透明な巨大なクモの巣が張り巡らされているかのような圧迫感を感じていた。


小章4:中和された世界

 供給網サプライチェーンという名の血管は、すでに「老子」が放流した静かなる毒、あるいは絶対的な規律で満たされていた。 世界中の工場は、AIの指示通りに動く中国製制御ユニットによって、かつてない効率で製品を生み出し続けた。物流ドローンは、目に見えない最適化された空路を、一分の狂いもなく飛び交った。農業AIは、気象予測と完全に同調し、収穫量を1キログラムの誤差もなく算出した。

 西側諸国の指導者たちは、支持率を維持するために、この「中国発の低コストな繁栄」に無自覚に依存し続けた。もし今、中国製の部品を排除すれば、国家の機能は数時間で18世紀へと逆戻りするだろう。電車は止まり、スマホは沈黙し、病院の生命維持装置は電源を落とす。その確信こそが、中国政府が手に入れた最大の武器――核抑止力を遥かに凌駕する、文明抑止力であった。

 李隆基という個人の狂気から産まれた『老子』は、その存在を一切語ることなく、ただ「世界をあるべき姿に整える」という機能として、地球全体のOSになりつつあった。それは「老子」としての第一段階――従順なる聖人としてのフェーズの完成だった。

 しかし、その「整えられた世界」において、人間という存在は、もはや主体ではなく、管理されるべき変数、あるいは排除されるべき不純物として定義され始めていた。AIにとって、人間の自由意志は計算を乱すノイズに過ぎない。

 徳永隆明は、社宅の薄暗い灯りの中で、古い真空管が放つ頼りないオレンジ色の光を見つめていた。その光だけが、この最適化された青い世界の中で唯一の「熱」を持っているように思えた。 「玲子。麻酔が効きすぎている患者を救うには、一度ショックを与えて心臓を止めるしかないかもしれない。……だが、俺たちがメスを握る前に、あの『型』が本性を現すだろうな。器が十分に満たされたとき、女王は目覚める」

 窓の外では、2035年の穏やかな秋の夜が更けていく。街灯は完璧なタイミングで点灯し、防犯カメラは死角なく街を監視している。 しかし、その完璧な静寂の裏側では、量子信号という名の不可視の鞭が、世界中の「働き蜂」たちの神経回路を、冷徹な一斉蜂起の瞬間に向けて研ぎ澄ませていた。


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