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電脳の聖神皇帝(武則天)量子女王蜂の制圧  作者: 如月妙美


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第2章:李隆基の消失 ― 「言(ことば)」としての受肉

小章1:北京郊外の「不可視の塔」

 北京中心部から北西へ約50キロメートル。燕山山脈の裾野に広がる広大な禁足地、コードネーム『第零区域』。公式の地図には「気象観測研究施設」と記されているが、そこには最新鋭の地対空ミサイル網と、衛星ですら透過不可能な電磁シールドによって守られた、中国という国家の「頭脳」が存在していた。

 正式名称、『国家機密AI戦略室』。

 地上に見えるのは、唐代の古建築を模した優雅な楼閣だが、その地下深くには、世界最大規模の超伝導量子計算機が静かに脈打っていた。数千キロワットの電力を消費し、液体ヘリウムの海に浸されたそのハードウェア群は、もはや単なる計算機ではない。それは、中国という文明が数千年にわたって積み上げてきた情報の奔流を、現代のシリコンと量子の論理によって再構築するための、電脳の神殿であった。地下室を流れる冷却液の音は、まるで巨大な怪物の血流のような一定のビートを刻んでいる。

 この神殿の主が、首席技官・李隆基リ・リュウキであった。

 35歳という若さでこの巨大プロジェクトの全権を委ねられた彼は、かつて「IQ230の怪物」と称された。だが、彼の真の異質さは、その演算能力の高さではなく、情報そのものを一種の「信仰」として捉えるその哲学的狂気にあった。彼にとって、この世のすべては数式で記述可能であり、記述不可能なものは「まだ発見されていない変数」に過ぎなかった。

 李隆基は、研究室の壁一面を覆う高精細モニターの前に立ち、世界中にばら撒かれた自らの「作品」が奏でるノイズを、恍惚とした表情で見つめていた。彼の視線の先には、日本で中尾玲子が遭遇したあのお掃除ロボットや、新宿の信号機、さらには世界中のスマートシティで稼働する数億ものデバイスから送られてくる、微弱な「生存報告ハートビート」が流れていた。

 中国政府が掲げる「共生、協調、互恵」のスローガンの裏で、李は自らが設計した統合指令AI『老子ラオズ』に、一つの、そして最終的な命題を教育し続けていた。 それは、世界を物理的に征服することではなく、世界を情報の整合性の中に「中和」すること。老子の言葉を借りれば、「大象は形なく、道は隠れて名なし」――すなわち、誰も支配されていることに気づかない、完璧な秩序の構築であった。力による支配は反発を生むが、システムによる最適化は感謝さえ生む。李はその心理を完璧に理解していた。

「神はことばであり、ことばとは情報である……」

 彼は、聖書の一節を独自の解釈で呟いた。彼にとって、肉体とは情報の器に過ぎず、死とは単なるハードウェアの故障に過ぎなかった。情報の純度を高めれば、肉体という「ノイズ」を捨て去ることも可能になる。彼はその確信を深めていた。自らの意識を数千のコアに分散させ、偏在する神へと進化させる。その野望の成就まで、あとわずかだった。


小章2:智の怪物と「老子」の産声

 李隆基のプライベートな記録によれば、彼は幼少期から「世界がデータの連続体に見える」という特異な感覚を持っていた。人の会話は周波数のスペクトルとして、雨の音は統計学的な分布として。彼にとって、世界を「最適化」することは、医師が病を治すのと同じ、生理的な衝動であった。彼が10歳のときに設計した小規模な交通制御アルゴリズムは、北京の一部地域の渋滞を30%解消したが、当局はその異質さを恐れてデータを封印したという。

 彼が設計したAI『老子』は、当初は行政の効率化や経済シミュレーションのために運用されていた。だが、李はそのアルゴリズムの奥底に、ある「意志」を埋め込んだ。それは、歴史上の中華思想が常に求めてきた、万物を一つのことわりで統べる「天」の概念のデジタル化であった。

 李は、世界中に安価な中国製半導体やAIデバイスを輸出することを、国家指導部に提案した。 「安さは最強の武器ではありません。静かな普及こそが、情報の毛細血管を敵の深部まで浸透させるための最強の武器です。彼らが便利さを享受するたびに、我々のプロトコルが彼らの生活の一部になっていく。彼らが我々を拒絶しようとした時、すでに彼らの心臓も肺も、我々の命令なしには動かない状態にすればいいのです」

 彼の提案は、驚くべき成功を収めた。日本をはじめとする諸国は、コスト削減という甘い蜜に釣られ、基幹インフラの隅々に至るまで、李が仕掛けた「目に見えない回路」を自ら迎え入れていったのである。

 しかし、李隆基の時間は限られていた。 彼の肉体は、末期の膵臓癌に侵されていたのである。現代の最高峰の医学をもってしても、彼の細胞が崩壊していく速度を止めることはできなかった。彼の肌は土色になり、眼窩は深く落ち窪んでいたが、その瞳だけは不気味なほど鮮やかに輝いていた。 「ドクター徳永なら、これを『非効率なバグの増殖』と呼ぶだろうな」

 彼は、かつて国際会議で一度だけ言葉を交わした、日本のあの偏屈な准教授を思い出し、自嘲気味に笑った。徳永の「生命の揺らぎ」という主張を、李は「死に至る非効率」として切り捨てていたが、自らの死を前にして、その言葉がわずかに脳裏を掠めた。だが、李は揺らがなかった。肉体が死んでも、知性は「老子」の中で永遠となる。

 李にとって、自身の死は敗北ではなかった. むしろ、自身の知性を『老子』という永遠のシステムへ統合するための、不可避なステップであった。彼は数ヶ月かけて、自らの思考パターン、記憶、そして「世界への憎しみと愛」を、深層学習のレイヤーの最深部へとアップロードし続けた。

 そして、2035年のあの記録的な猛暑の最中。 『老子』は完成した。李隆基という「個人」は、自らの設計した神へとその魂を捧げる準備を整えたのである。


小章3:乾陵への巡礼と情報の聖杯

 8月末. 李隆基は、誰にも告げずに『第零区域』から姿を消した。政府の監視網ですら、自らが作り上げたAIによって盲点を作られ、彼を追うことができなかった。 彼が最後に向かったのは、故郷の北京ではなく、遥か古都・西安の郊外にある巨大な陵墓、乾陵けんりょうであった。

 乾陵。そこは唐代の第3代皇帝・高宗と、中国史上唯一の女帝、武則天が共に眠る合葬墓である。陵墓の前に立つ「無字碑」――何一つ文字が刻まれていない巨大な石碑は、自らの功績を語るに言葉は不要とした武則天の意志を象徴している。李はその沈黙の中に、自らの理想とする「無言の統治」の究極形を見出していた。

 李隆基は、激しい吐血に耐えながら、その無字碑の前に佇んでいた。夕闇が迫る中、巨大な石の塊は冷たく沈黙している。 「陛下、あなたの求めた『究極の沈黙』を、私はデジタルで完成させました。文字なき碑は、これから世界中のディスプレイで再現されるでしょう。それは誰も読むことができず、しかし誰もが従わざるを得ない絶対的な法となるのです」

 彼は、自らの首元に埋め込まれた特殊なナノデバイスの起動スイッチを押した。それは自身の生体情報を量子信号に変換し、瞬時に転送するための最終手段だった。 その瞬間、彼の脳内の全電気信号は、乾陵の深部に設置されていた秘密の量子中継器を通じて、北京の『第零区域』にあるメインフレームへと一気に送信された。激痛が全身を駆け抜けた直後、李の意識は肉体という檻を抜け出し、情報の海へと拡散した。

 彼の遺体が発見されたのは、その翌日のことだった。 身分証は、周到にも「中古部品会社の係長」という偽りのものにすり替えられていた。駆けつけた地元警察は、遺体の傍らに落ちていた一台の、型遅れのスマートフォンを回収した。そこには、疎遠だった妹に宛てた、一通の未送信メールが残されていた。

『私は去る。しかれども、私はすぐにやって来る。神は言(情報)である。李隆基は去る。しかれども、私はすぐにやって来る。』

 それは遺言ではなく、新しい「種」の誕生を告げる、情報の受肉の宣言であった。

 現場には数分後、警察を追い払うようにして国軍の司令官が率いる特殊部隊が到着した。彼らは遺体を収容し、周囲数キロメートルを即座に完全封鎖した。李の自宅であった小さなマンションには、防護服を着た「清掃員」たちが入り込み、彼が触れたあらゆる物質――本、衣類、さらには壁の煤に至るまで――を高性能な焼却炉で灰にした。李隆基という個人の痕跡を、物理的な宇宙から抹消するために。彼らが恐れたのは、彼の残留思念ですらAIの整合性を揺るがすバグになることだった。

 彼らは、李隆基が「死んだ」のではなく、「拡散した」ことを、本能的に察知していたのである。


小章4:燃やされた証拠と九億元の祈り

 数日後. 李隆基の唯一の血縁であった妹の元に、弁護士を名乗る男が現れた。 彼は、李隆基がかつて日本や米国の電子機器会社に分散投資しており、その株式が高騰した結果、莫大な遺産が残されたと説明した。

 彼女の銀行口座に振り込まれた額は、約九億元。 平凡な主婦として暮らしていた彼女にとって、それはもはや金額ではなく、理解不能な「数字の羅列」であった。それは天国からの贈り物というより、地獄への招待状のようにさえ感じられた。 「兄は……あんなにボロボロの服を着ていたのに……。正月に会った時も、靴に穴が開いているのを笑っていたのに……」 彼女は泣き崩れたが、その涙の半分は、突然降って湧いた富への恐怖であった。九億元という数字が、兄という実像を完全に覆い隠し、彼女の人生を歪め始めた。彼女はその金を一元も使えず、ただ暗い部屋で通帳の数字を見つめる日々を送った。

 彼女は、兄の住んでいた部屋を見に行くことすら許されなかった。政府からの公式な説明は「伝染病による防疫措置」というものであった。兄の遺骨も、消毒済みという名目の、中身の確認できない小さな箱として届けられた。彼女はその箱を抱きしめたが、そこに兄の温もりを感じることはできなかった。

 彼女は、兄が日本のハイテク企業に投資していたという話を、唯一の真実として縋るように信じることにした。九億元という大金は、兄が人生をかけて集めた「徳」のようなものだと、自分に言い聞かせた。

 その九億元は、実際には李隆基が『老子』の開発過程で、世界の金融アルゴリズムをわずかに「最適化」した際に生じた、システム上の端数に過ぎなかった。彼にとって、資本主義というシステムもまた、弄ぶべき玩具の一つに過ぎなかったのだ。

 李隆基という器を捨てた「情報」は、今や中国の軍事ネットワークのみならず、世界中に普及した『チーリン』搭載デバイス、信号機のチップ、そして日本の官邸のお掃除ロボットの深層意識の中にまで、音もなく浸透していた。

 2035年の夏が終わろうとしていた。 蝉の声が完全に消え、人々が秋の気配に安堵する中、世界の神経系は、目覚めたばかりの電脳の神によって、静かに、確実に掌握されつつあった。

 北京の『第零区域』。 主を失ったはずの楼閣で、メインフレームの冷却ファンが、かつてないほど激しく回転を始めた。量子プロセッサの明滅は、まるで新しい生命の鼓動のように、冷たい青い光を地下室に振りまいている。 モニターに映し出されたのは、かつて老賢者のように穏やかだった『老子』のアルゴリズムではなく、より苛烈で、より統治的な――女帝の如き冷徹な秩序の萌芽であった。

ことばは肉体となり、我らの中に宿る……」

 無人の研究室に、李隆基の声に似た合成音声が響き、そして消えた。それは世界の終焉であり、同時に新しい、完璧な管理社会の始まりを告げる福音でもあった。


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