19 お尻の危機と、女店員の反乱
『【モカ】ちゃん、診察室へどうぞ』
「にゃにゃにゃ? 【モカ】って聞こえたニャン?オレッチのことかニャン?」
【モカ】と聞こえた事で、何となく自分の事だろうと思った。チャイロはバッグの中で耳をピンっと立てた。
『ハイ』
頭上で女店員の声が聞こえると、不意に浮遊感を感じる。バッグの中で踏ん張るチャイロ。
「にゃにゃにゃ? どうしたニャン? 女店員、どうしたニャン?」
『【モカ】よく我慢出来たね 順番来たよ』
キャリーバッグを抱え、女店員は診察室に入って行った。
『まずは、体重を図りますので【モカ】ちゃんを、台の上に出してくれますか?』
『はい』
バッグの上部を縛っていた紐が解かれ、女店員は両手を差し込んだ。警戒して身体に力が入っているチャイロの脇腹を、むんずと掴んだ。
女店員の更なる暴挙。確実に反乱を起こされた思って間違いない。
「にゃにゃにゃ! 止めるニャン! ここにいるニャン!」
チャイロの訴えは届かない。女店員は、容赦なくチャイロの体を魔の手で掴んできた。
ずるりとバッグからチャイロが引きずり出されてしまう。引きずり出されたチャイロは、そのまま台に乗せられた。台に上でチャイロは、へっぴり腰になる。
「女店員、今なら、許してやるニャン オレッチをその袋に戻すんだニャン」
よじよじと自分が入っていたキャリーバッグに向かって、台の端に行こうとすると、みたことのない白衣を着た人間にズリっと台の中央に戻される。
『1.8キロですね。次はお熱はかりますね』
「にゃにゃにゃにゃにゃ! そこの白い女! 誰か尻尾を掴む事を許したニャン! オレッチの尻尾持つんじゃないニャン!」
よじりよじり前に進み、逃げようとするチャイロに衝撃が容赦なく襲う。
「にゃにゃにゃーーーーーーーーん」
ブスリとお尻に刺された体温計。
「く、屈辱ニャーーーーン! 最悪ニャン! 気持ち悪いニャン!! なんたる辱めニャン!」
女店員を恨めしげに見つめると、チャイロの頭を魔の手で触ってくる。今、お触りは許可していない。女店員の反乱は、終わっていなかった。
「にゃにゃあ! 魔の手で触って良いと許可してないニャン! 違うニャン そうじゃないニャン! 止めるニャーン」
『はーい、良い子でしたね。38度平熱です。後から先生が来ますので、もう暫くお待ち下さい』
「ニャーン もう、お婿さんになれない体になってしまったニャン.....」
看護師が、診察室から出ていくと、チャイロは、女店員の膝の上に抱えられた。
酷い辱めと抵抗できなかった悔しさに、チャイロは女店員の腕の隙間に、お尻を隠さずグリグリと顔を埋めて隠した。
「何たる辱めニャン! 女店員のバカニャン!bバカニャン! バカニャン!」
『【モカ】よく頑張ったね!エライぞ~』
チャイロの言葉と、人間の言葉が噛み合っていないのは仕方がない。だって、言葉が通じないから。
女店員がチャイロを褒めまくっていると、奥の扉がガラガラっと勢いよく開いた。
音に敏感なチャイロは、一瞬ビクッとして動きが固まった。
『初めまして、僕がこの病院の、院長兼ドクターです』
ヒョロリとした背の高い白衣を着た男。チャイロにとって、初対面だ。眼鏡の奥に光る鋭い眼光が、チャイロにとって不気味な存在だった。
『うちの喫茶店に来るお客さんから、先生の評判を聞いて来ました。【モカ】をヨロシクお願いします』
『嬉しいこと言ってくれて、ありがとう。ご期待に添えると良いな。それじゃあ、【モカ】君を台の上に乗せて』
『ハイ』
必死に女店員の腕に顔を埋め、隠れようとするチャイロの脇腹を、無情にも女店員はガシッと掴みそのまま持ち上げた。
いまだに反旗を翻したままの状態と思われる女店員。
無理矢理診察台の上に乗せられて、チャイロは初めて病院のドクターと目が合った。
眼鏡がキラリと光、その奥に潜む鋭い眼光に怯み、ゴクリと唾を飲んだ。
『生後半年位かな?』
『やっぱり、それくらいかなって思ってました』
『背中まで毛を立てて、一丁前に威嚇してきてるな!』
『【モカ】大人しくしてようね』
小さな体を目一杯大きく見せようと、チャイロは全身の毛を逆立てシャーっと唸った。
「白い人間! オレッチに触るな! 引っ掻いてやるニャン! 噛み付いてやるニャン! 女定員、オレッチから手を放すんだニャン」
『そのまま【モカ】君の両腕を抑えておいてね』
女店員は、ドクターの指示の元、もがくチャイロをしっかり保定した。チャイロの力では、女店員の魔の手から逃げられない。
『うんち、おしっこはちゃんと出てるね 食欲は旺盛? 熱は平熱だね 毛並みも良いね 問題なし 爪が少し伸びてるね じゃあ、胸の音を聞こうね ..............うん 良い音だ 問題無しですね』
聴診器片手に、ドクターはチャイロの体を弄った。
「白い人間! くすぐったいニャン! 早く止めるニャン」
『目は問題なし、よいしょっと.....歯垢はまだ大丈夫だね』
「にゃにゃにゃにゃにゃ! 目をパカってするニャン! お口を無理矢理開けようとするニャン! とにかく白い人間あっちへ行ってニャン!」
完全に体を保定されているチャイロは、成す術も無くドクターの二本の魔の手に触診され続ける。
『今日は、ワクチンどうしますか?』
『お願いします』
『では、準備しますので少しお待ちください』
ドクターは、席を立つと後ろにある薬棚から、1本の注射器を取り出した。
『【モカ】君は少し痩せているから、痛いかもしれませんね。飼い主さんは、思いっきり顔をいっぱい撫でまくってください』
女店員は、ドクターの指示に従って、チャイロの顔を撫でまくった。
「にゃにゃにゃに! 白い人間、その長いのはニャン? オレッチにソレを近づけて来るんじゃにゃいニャン! やめてニャン! 止めるニャン!......にゃにゃニャーン!!!」
『【モカ】君、良く頑張りましたね』
『先生、ありがとうございます』
『お家に帰ったら、たくさん褒めてあげてくださいね』
女店員が、チャイロが入っていたバッグの口を開けると、チャイロは自らバッグの中に飛び込んだ。
完全なる敗北。チャイロは、精も魂も尽き果てていた。
自分の匂いが残っているバッグの中は、これ以上ない安全地帯のようにチャイロは感じた。
ドクターは、その様子をみてクスリと笑って言った。
『【モカ】君にとって、そのバッグはどこでもドアと一緒なんですよ』




