1-6、
現場は混乱を極めていた。
フードを被った怪異が三体。大気を切り裂くパチンという乾いた音と共に現れてから、凡そ二・三分程。合図を確りと聞き取った凌雅と合流してから、凡そ数十秒。怪異対策本部への緊急連絡は既に済み、残るは怪異の始末だけだった。
尚也は、落ち着いた呼吸を繰り返すと物陰から僅かに顔を出し、現場を確認する。
状況は良くない。
最初に悲鳴を上げた女性を皮切りに、状況を理解した人々が叫ぶ。その叫び声が新たな叫び声を呼び、必要以上に伝播していった。彼らは現場からなるたけ遠くに行こうと、ばらばらの方角へ向かって走っていく。逃げ惑い、時には前にいる人を押しながら駆けていく。
逃げる人々は何も悪くない。勿論、この場にいる加害者以外の人間全てが被害者であり、彼らの行動を良し悪しで判断することは、やってはいけないことである。
――どう、すべきか。
尚也は視線だけを動かして、なるたけ多くの情報を取り入れる。
厄介なのはやはり、スマートフォンを使い、現場の動画を撮る人々で間違いなかった。怪異の攻撃が届かない遠くから、そして、恐れ知らずかはたまた生き急ぎか、現場のすぐ近くからそれぞれカメラを向ける人々。現場証拠としては助かるものの、現状、一番の厄介であるといっても過言ではない。
そして、何よりも。
刃物を振り回す怪異のすぐ傍で、声を出すことも出来ずに蹲っている数人が心配だ。恐らく、腰が抜けてしまったのだろう。周りの人に手を伸ばしてもらってはいるが、そう簡単には動けない様子である。
「……先輩」
こん、こん、と指の関節でコンクリートの壁を打った凌雅が、小さく尚也を呼んだ。
「どうした」
「あいつ。俺たちから見て左奥の奴、視線の動きが変です」
怪異と群衆から目を逸らすことなく問い返せば、凌雅がそう言った。確かに、何処か違和感を持つ動きだ。その怪異の視線は、慌てふためき群れる群衆の一点を見やって離れない。他のふたりが目元までフードで隠しているからこそ、じぃっと見つめる奴の視線は余計に目立つ。
――……あ。
「……っ、!」
危ないと、そう思った瞬間だった。
件の怪異が銀色に光るナイフを振りかざしたと同時に、尚也は大地を強く蹴って走り出す。
――やっぱり、狙っていたか。
自身の置かれた状況を瞬時に把握してより一層の悲鳴をあげた女性が、掲げていたスマートフォンを落とし、そのまま地面に蹲った。
同時に、怪異が笑う。口角を僅かに上げ、開ききった瞳を細めながら、愉悦の表情を浮かべて笑う。
その間も、怪異は刃物を持った右手を止めることはしなかった。銀色の光を輝かせながら、動けない女性に振り下ろす。
悲鳴が連鎖し、現場の混乱は最高潮へと達した時。
「……っぶねぇ」
金属が弾かれる音と共に、尚也の呟きがひとつ。それから、怪異が持っていた刃物が落ちる音がひとつ。一気に静まり返った世界へ零れ落ちた。
尚也は懐から取り出した折りたたみ式のナイフを握り直して、驚愕の表情を隠さない怪異を仮面の下から睨みつける。すると、開いた唇を動かした怪異が小さく呟いた。
「全ては、大いなる始祖様のために」
――またか。
「全ては! 大いなる、始祖様のために!」
両手を空に掲げ、声を荒げ叫ぶ。ギャハハと汚い笑い声をあげ、叫ぶ、さけぶ。
「全ては、大いなる、始祖様のために、始祖様のために」
「サァ、ハ、ガブウグ、キク」
尚也は舌打ちをすると、じわりとかいた汗で滑るナイフの柄を再び握りしめた。どこか気持ち悪さを覚える洗脳じみた言葉の羅列と、聞き馴染みのない言語を耳にするのは何度目か分からない。『怪異』の中でそういった信仰があるのか、ここ最近起きた怪異による事件では、毎回この叫び声が現場に響き渡っていた。
――聞く価値もない。
怪異のナイフを弾き飛ばしてからは、わずか数秒。とはいえ、耳を塞ぎたくなるほど騒がしい奴は、抵抗する姿勢を見せなかった。狂ってしまったかのように天を仰ぎ、ただ笑う。
だから。
尚也は、左手の親指を立てて素早く左右に動かした。
そして。
息を止め、力を一点に集中させる。確証付きの『怪異』に対する迷いなど、自分達には要らない。
その瞬間。
尚也の持つ刃物が、怪異の心臓を貫いた。
場を占めていた呪文のような言葉が消え、群衆の悲鳴がより一層大きく大地を轟かせる。小さく息を吸って、大きく吐き出して、すぐ傍にいた凌雅を見やれば、彼もまた暴れていた怪異の心臓を一刺しした所だった。
怪異は、人間で言わば心臓の部分に、唯一の弱点である核をもつ。核は、人体によって守られているものの、ナイフなどの鋭利なもので一刺しすることで破壊することが出来た。
破壊されると、怪異はどうなるか。それは、至極単純である。
たった今、核を壊した怪異は消えた。凌雅の手によって壊された怪異も消えた。
その姿も、形も、着ていた服すら、肉体と共に消えた。文字通り虚無に帰ったのだ。
残るのは、核を壊したナイフに残された深紅の血液のみ。それもまたいつかは腐食し、数千度の熱で溶かされ、跡形もなくなっていく。生きていた証のひとつも、この世に残せずに。
――くだらねぇ。
尚也は血の滴るナイフを慣れた手付きで折りたたむと、新しいナイフと交換した。
現場にはまだ一人。仲間たちが処されたことに動揺したのか、訳の分からない言語で喚くだけの怪異が残っていた。
「サァ、ハ、ガブウグ、キク。シィ、ヒィ、ガッブウ、ッ、キク」
「……おい」
「はい」
「サァー、ハッ、ガブゥウグゥ、キ、クッ」
「……様子が変だ。俺がみっつ数えたら、三〇一〇(さんまるいちまる)まで走れるか」
残りの怪異が手にしたナイフは、最早ただ虚空をなぞるだけ。仲間が殺された事でおかしくなったのか、繰り返される言語の発音は著しく乱れている。しかし、フードの下から覗かせる視線だけは嫌にぎらついていて、仮面を被った尚也と凌雅をなめるように見ていた。
おそらく此方が動けば、怪異持ち前の身体能力を生かして、食いついて来ようとするだろう。
「さん」
怪異には聞こえないよう、掠れた声で凌雅と意思疎通を繰り返し、数字をカウントする。
「にぃ」
「いち」
尚也は足に力を込めると、「行け!」と叫んだ。
――逃げ切るんだ。
合図よりもコンマ数秒先に走り出した凌雅に、怪異の意識が向く。思った通りだ。良すぎる動体視力と無意識下の条件反射で、先に仕掛けた方へ身体が反応したのだろう。マントを翻しながら走り抜ける凌雅の後を、凄まじい速さで追いかけていく。
凌雅が走るべき道は、既に出来ていた。いつの間にか到着していた『怪異策本部』の部隊によって、群衆は落ち着きを取り戻していたから。だから、尚也はわずかにずれた仮面を確り直すと、怪異の視界から外れるよう真逆の方向へ走り出した。
あとはもう単純な話である。溢れた殺意のままに凌雅を追いかける怪異を、尚也が追いかけるだけ。凌雅の向かった「三〇一〇」教室は、随分と入り組んだ場所にある。そこまで追い込んで、また同じように核を壊すだけだった。




