3-2、写真③
◯×
約二時間。
自身の醜態を【暁】の面々に晒してから、大体そのくらいの時間が経った頃か。
一足先に練習室を後にした俊介は、人の寄りつかない校舎に足を運んでいた。数年前に使われなくなった旧校舎であり、今では、廃材や粗大ゴミで溢れ返っている。一方で、【暁】の倉庫もこの旧校舎近くにあった。夜になったとて点灯する電気もないため、使用することは殆どないに等しい。しかし、今日のような秘密の会合にはもっていの場所だった。
俊介は外の新鮮な空気を吸い込むと、お世辞にも綺麗とは言えない壁に背を預けた。
――……結局、集中できなかった。
舞台の上から逃げて、顔を洗っても、心機一転と外を走ってみても、何をしても状況は悪くなるばかり。最終的に俊介の登場シーンは次回の練習で確認することとなってしまった。
俊介は目を固く閉じると、頭の中でぐるぐると回り続ける思考を遮断しようと意識する。
この後は、同期である二年生と話し合いだ。皆からの心配はひしひしと感じているからこそ、だからこそ、これから自分がしようとしている事が正しいのかどうかも分からなくなっていく。
同期達を、わざわざ薄汚い場所へ呼びつけてまで、思考を吐露する必要があるのかは、もう分からない。何を守りたくて、何を壊そうとしているのか、その全てが分からない。
「俊介」
静かすぎる世界の中、空気が微かに揺れて、自身の名を呼ぶ声が耳に届いた。ふと目を開くと、わずか数十センチメートル前に小松あおいの顔があった。
「わ、びっくりした」
「失礼だなぁ」
衝撃で横に飛び退けば、あおいは少々不満そうな声を漏らした。同じ顔がひとつしかない事を見ると、あおいの片割れであるみどりと、尚也は未だ練習中といったところだろうか。
「みどりと尚也なら陽光先輩に捕まってるよ。照明台本、少し直すんだって」
あおいは薄紫色の瞳を細めて、こちらを見やる。まるで全てを見透かしているかのような視線が、少しばかり痛い。
「……そっか」
僅かに間を開けて、俊介は頷いた。
すると、暫くそこらをふらふら歩いていたあおいが、すぐ隣にやってきた。同じように壁へ背を預けて、息を小さく吐き出す。
「体調、悪いの?」
小さな声で問うたあおいの双眸は、こちらを見ることはなかった。
「ううん、体調は悪くないよ。ただ……」
「……ただ?」
「一人で抱え込むには怖くって、でも、皆に相談するのはもっと怖くって」
「……うん」
俊介は、薄く捲れ上がった唇の皮を噛みながら続けていく。
「まだ、少し、迷っててさぁ」
自分の思考や感情が言の葉の形になりきれず、ただ曖昧に落ちていく。その感覚が妙に気持ち悪くて、悔しくて、俊介は拳を握りしめた。口の中に血の味がじわりと広がっていく。
「俊」
「うん?」
「大丈夫。大丈夫だよ。みんな、ちゃんと気が付いてるから」
再び名を呼ばれて、真隣にいるあおいを見やれば、彼女は小さく笑っていた。その様子は、……あおいの顔に浮かんだ笑顔は、まさしくいつも通りだった。
ふわりと、静かに笑う。
目元を細めて、長い髪の毛を揺らしながら、優しく笑う。
変わらないあおいの温かさが沁みていくと同時に脳裏へ過ぎるのは、日常に潜み込んだ違和感が一欠片。
――やっぱり、変だ。
「……ありがとね」
俊介はそう告げると、あおいから目を逸らした。
旧校舎の隙間を通り過ぎるぬるい風が、ふたりの間を通り抜けていく。
――――――――――
「悪い、待たせたな」
「ごめんごめん。思ったより修正箇所多くてさ」
俊介とあおいが世間話に花を咲かせはじめてから、おおよそ三十分ほど経った頃だろうか。
先輩達に捕まっていた尚也とみどりが、小走りでやってくる。
いつの間にか真っ暗になってしまった旧校舎前。今日も今日とてひとっこひとり居ない場所とはいえ、このままここで立ち話もおかしな話である。尚也が無言でつけてくれた携帯の灯りに導かれるように、四人は静かに足を前に進めていく。向かう先は、【暁】が所有している倉庫だった。
「うわー、埃っぽい」
倉庫に着き、重たい扉を開けた瞬間、みどりが心底嫌そうな声を出した。続くように、あおいが小さな咳を繰り返す。
確かに、倉庫の中は荒れ放題だった。
使用することは全くなく、時たまに不必要になった大道具や小道具を片付けに来る程度。どうやら数年前――今の先輩達が入学するよりもずっと前まではこちらをサークル室にしていたようで、倉庫の真ん中には古びた大きな机と椅子が並んでいた。端の方から傷んではいるが、使えないことはない。
――まあ、電気がないくらいは問題ないし。
今は文明の利器がある。誰しもが当たり前に持つようになった携帯には、懐中電灯の機能がついているし、それに。こんなこともあろうかと、自宅からキャンプ用の小さなランタンを持ってきていたのだ。
俊介は鞄の中からランタンを取り出すと、机の上に置いて灯りをつけた。淡い光だが、無いよりかはましだろう。
「準備万端じゃん」
一足先に椅子へ腰掛けると、すぐ後ろを着いてきていたあおいがくすりと笑って、俊介の隣へ座った。
「俊介っていつも変なもの持ち歩いてるよね」
みどりは心中の全てを声に出しながら、あおいの対面に座る。最後には、最後尾を歩いていた尚也が無言で倉庫の扉を閉め、空いた俊介の対面へ腰をおろした。
風の音も、つい先までは聞こえていた人々の話し声も、全てが遮断された密室。少しでも動けば物音が響いて消えていく。重く、息苦しい閉鎖空間。
それを一番最初に破ったのは、みどりだった。
「……それで、話し合いって何?」
短く、端的に。その冷たさの裏に隠した緊張が、どこか滲んだ声色である。
――ここまできたら、もう逃げない。
「まずは、……この写真を見てほしい」
俊介はそう言うと、咥内へ溜まった唾液を飲み込んで、自身の携帯をおもむろに取り出した。そして二週間前に保存した写真を表示する。
「「伶さんじゃん」」
俊介の携帯を覗き込んだ双子が、ほとんど同時に口を開いた。数秒遅れて続いた尚也は、口を閉ざしたままに目を大きく開く。
「これ、あの“うわさ”の『怪異』の写真なんだ」
「「え?」」
「……え?」
「二週間前、僕の友人が、例の現場で撮ったらしい」
「……そんな」
俊介は淡々と説明をする。一言発するだけで押し潰されてしまいそうなほどに重たい空気は、写真を凝視したまま絶句した皆の息遣いで溢れていく。
「この写真を見てしまったから、かもしれないんだけどさ。……最近の伶さん、変、だよねぇ?」
はあ、と一息つくと、写真を表示していた携帯の画面を閉じた。ランタンの光だけが残った倉庫は、途端に暗くなる。周りにいるはずの皆の顔すら見えにくい中、俊介は再び口を開いた。
「例えば、笑い方……、とかさ。うん、普段と変わらないよ。何も変わらない。でも、……伶さんは、あんな大袈裟に笑うことは少なかったと思う」
誰かが下らないことを言った時。何かどうにも可笑しいことがあった時。【暁】には、賑やかな笑い声が響く。そんな在り来たりな日常の中で、ふと感じた違和感のひとつ。
――手を鳴らし、歯を見せながら笑うその様は。
“変”と感じるには、十分だった。
白石伶は、もっと静かに柔らかく笑う。
美しい顔をくしゃりと歪め、眉を下げながら、笑い声を抑えるかのようにくぐもらせて笑う。
「……それは、ちょっと思ってた。ちょうど昨日、あおいとも話してんだよね」
少しの間の沈黙を破ったのは、またしても、みどりだった。あおいも、みどりの言葉に小さく「うん」と頷いている。
俊介は目を閉じ息を吸うと、もう一つの疑問を口に出す。
「あと、さ。これは断言するけれど、返事や演技がワンテンポ遅い。日常の言動すべてが、一呼吸遅れている、っていうのかな」
「多分……、うぅん。わたしもそう思う」
今度は、あおいが口を開いた。首を横に振りながら話すものだからか、その声は震えている。
「ここ最近の伶さんは、演技で指導されることが多かったよね。それだけなら、調子が悪いで片付くけれど、でも。……でも、伶さんは、兼吾さんや陽光先輩の指導に対して、歯向かうことなんてしない人だと思っていたから……」
途切れ途切れでも最後まで言い切ったあおいは、ふぅと息を吐き出した。どうにも落ち着かないのか、机の上にのせた両手をひっきりなしに動かしている。
――皆も、薄々気が付いていたのか。
反応を見るに、みどりとあおいは最近、尚也は少し前から、この違和感に気が付いていたようだ。
伶さんをはじめとした先輩達と一年かけて噛み合い始めた歯車が、少しずつ狂い始めていた。この数週間で一瞬にして錆びてしまったかのように、嫌な音を鳴らしながらゆっくりと崩れていく。
俊介は、一度閉じた携帯を開く。
再びあらわれた画像の一部を拡大して机に置くと、皆の顔を順繰りに見回した。
「あとさ、僕。あれから、……この写真を見てから、しっかり調べてみたんだよ」
膝の上にのせた鞄から一冊の本を取り出して、付箋を貼った頁を開く。六つの視線がこちらを向いて、その一挙手一投足を見守られるのは、どうにもむず痒いものだ。
「照らそうか」
「ああ、うん、ありがとう」
皆が見えるよう本の位置を調整していれば、尚也が手にしていた携帯で机上を照らしてくれる。
「怪異ってさ、触れた人間に成り代わることが出来る、と言っても色々な制限があるそうでね。その中でも気になったのが、衣服に関してなんだ。
ここ、皆も少し読んでほしい。怪異は、最初に触れた際にその相手が着ていた服しか模倣することが出来ないらしい」
事前に蛍光ペンで線を引いた部分を指せば、皆は静かに視線を向けた。皆が読み終わったのを確認して、俊介は続ける。
――これが一番、伝えたいことだ。
「……なのに、だけど。今の伶さんは、いつも通り、毎日色々な服を着ているだろう?」
「でも、それなら……、伶さんが二人いるとも言えない? 『怪異』の伶さんと、人間の伶さん。今日会った伶さんが、どちらかなんて……、知りたくもないけど」
斜向かいの翡翠の瞳が遠慮がちに揺れて、こちらを見やった。俊介は首を振ると、今度は携帯の画像に指を這わす。
「……うん。でもね、この写真に映っているコレ。これね、このイヤリング」
雫型の、大きな、おおきなイヤリング。
「これ、僕が去年の秋公演で、伶さんに作ってあげたものなんだ」
「は?」
驚いた声を上げた尚也に視線を向ければ、彼は「続けて」というかのように空いた手で促した。
「僕が覚えている限りだと、伶さんはあの劇の時にしかつけていない。少なくとも、大学につけてきたことは一度も無いね。数公演だけつける予定だったし、大きさも大きさだから、耐久性はそんなに高くないんだ」
人生で初めて人のために作ったアクセサリーだ。忘れることなんて、今後一生ないだろう。あの時、完成品を手にした白石伶の嬉しそうな表情をみたあの瞬間は、まさに幸福そのものであった。
ものを作る人間として、一人の後輩として、嬉しくて仕方がなかった。それなのに――。




