1-8、
「――先輩。尚也先輩! 聞いてます?」
「……ん、ああ、うん、聞いてるよ」
「では、どうして俺に戦わせてくれなかったんですか。あれほどの殺意を持った怪異は、即刻仕留めないといけない、と、教えてくれたのは先輩じゃないですか」
宵の口大学、三号館。三〇一〇教室。
あたりは怪異対策本部の部隊によって人払いされているため、静まり返っていた。そんな静寂を破り続けるのは、頬をわずかに膨らませて、駄々を捏ねる子どものように拗ねる部下である。
――まあ、確かに。
凌雅の言いたいことはよく分かる。
分かるが、あの場で凌雅と怪異が対峙した際の結果は目に見えていた。
凌雅は強い。パワーもあれば、判断力も年々磨かれている。しかし、それでもまだまだ未熟だった。先の怪異もまた、強い。著しく常軌を逸した殺意を放っており、それが最も厄介であったし、何よりも。尚也は、一秒も迷わなかった。
しつこいようではあるが、怪異とは人間に成り代わることが出来る。その一方で、人間とはかけ離れた身体能力を持っていた。一般的に言わば、筋力、持久力、柔軟性。そのどれもが異様に優れているどころか、人間の思考力を使うことで最大限発揮してくるのだ。
「お前には、……」
尚也は一息つくと、教室に並んだ机へ頬杖をつく凌雅を見やった。
「……奴はまだ、殺せなかった」
ひゅうと小さく息を呑む音が、今度こそ静かになった空間に響く。
「でも、一人は仕留めた。結果として、三人仕留めた。あの状況では十分だよ」
「……はい」
先の戦闘で凌雅を守ったつもりもなければ、過小評価したつもりもない。ただその場の状況に合わせて動いただけであるからして、必要以上に慰めることはしない。落ち着いて言葉を紡げば、喉の奥から絞り出したような声が響いた。
それを聞き届けた尚也は血液に塗れたナイフをゆっくり折りたたむと、鞄から取り出した透明なビニール袋にしまった。そして、端の依れた仮面を取り外して深呼吸を繰り返す。まだ試作段階の折り畳み式仮面は、どうにも密閉度が高く息苦しい。
「こいつらは鑑識に回す。手配は済ましたから、凌雅のと合わせて渡しておいて」
袋に入ったナイフを二本。机の上に置くと、凌雅の視線がナイフに向けられた。
ナイフに残された血液だけが、怪異を追う重要な情報となるのだ。人間の姿をした怪異の出現とは、肉体に触れられ模倣されてしまった人間がいることと同義である。
彼らを特定することもまた、怪異対策本部の仕事だった。彼らが生きているかどうかは分からない。ただ怪異に触れられたのみで、実害なく暮らしている場合は何ら問題はない。しかし、そう平和ではないことも紛うことなき事実である。
怪異に成り代わられた人間は、大抵の場合がその場で殺されてしまうか、ないしは誘拐され人身売買などの犯罪に利用されてしまうことが多かった。穏やかで長閑な日常のすぐ側では怪異による犯罪が蔓延り、真っ暗な闇に包まれている。
「先輩はどうするんです?」
尚也と同じように仮面を外した凌雅は、かいた汗で張り付いた髪をいじりながら首を傾げた。
「俺はサークルに戻るよ。……ジャケットもチラシも置いてきちゃったからな。それに、このあと明日の練習もある」
「分かりました。俺も後から行った方が良いですよね?」
「んー、……うん、折角だしおいで」
尚也がそう言うと、凌雅は「はーい」と軽い返事をした。身に付けていた薄灰色のマントをいつの間にか脱ぎ、スーツに着替えた凌雅は、大きな伸びをする。その流れで机の上にあるナイフを回収すると、鞄の中にしまい込んだ。
「サークルの練習って、何するんです?」
「今日はさっきの舞台の反省会と、それを活かした練習。新入生が何人か来た時は、練習はそこそこにして皆で飯でも行こうかって話になってる」
飯、という単語に大きく反応した彼は、明らさまに目を大きく開いた。尚也はそんな様子の彼に小さく笑うと、皺になった衣服を整えながら続けて口を開く。
「お前、あんまり変なこと話すなよ」
「え゛。……まさかぁ、話しませんよ」
「本当かよ」
「任せてくださいって。俺、今日からのためにめちゃくちゃ頑張ったんですから」
えっへん、とでも言うように誇らしげな表情を見せた凌雅は、勢いよく立ち上がった。そして、教室から飛び出そうとした瞬間足を止める。
「あの」
「ん?」
「先に、俊介先輩に謝っておいて貰えませんか。俺、さっきは何も言わずにこっちへ来てしまって」
――本当、律儀なヤツ。
「分かった。話は適当に用意しとく」
そう即答すれば、「あざっす!助かります!」と大変元気の良いお返事がかえってくる。視線を向ければ、頭もしっかり下げているものだから、本当に素直で丁寧で憎むに憎めない後輩である。まあ、憎いところなんていうのは何ひとつもないけれど。
――……疲れた。
更に短い会話を交わした後に凌雅が颯爽と出ていった後、尚也はため息を吐き出した。コンクリートが打ちっぱなしの壁に背中を預け、額に浮かんだ粒のような汗を拭く。
今日という一日は、怒涛の忙しなさだった。
元より、新入生歓迎会で慌ただしくなることは分かっていた。早朝からブースの設置に追われ、昼には舞台の本番に、終わった瞬間から始まる勧誘活動。夕暮れが近付くと、広げたブースを綺麗に片付け、明日のために反省会と練習を繰り返す。決まっていた予定だけでもかなりの体力を使うにも関わらず、『怪異』まで出現とくれば、疲れるにきまっていた。
しかし、それにしても妙なタイミングである。
この宵の口大学における『怪異』の出現は、凡そ一年ぶりだった。それこそ、尚也が入学してから初めての事件だ。
――詳しく調べる価値はありそうかもな。
元々、宵の口大学はここ数年、悪い噂で持ちきりだった。敢えて例に出すのならば、三年程前。ちょうど、【暁】の三年生――黒澤陽光、赤塚兼吾、白石伶の三人が入学した頃。『怪異』による事件は、後を絶たなかった。
『怪異』の成り代わりにより、サークルやゼミ、語学や学部のクラスなどが何個も潰れた。潰れただけで済めばまだ良い方で、犠牲者は数知れず。翌年の入学者は相当に減ったものの、今年はそれなりに回復したという。大学側も様々な対策を行っているようで、その結果か、尚也の入学から今日日まで『怪異』の出現が無かった。
――……呑気なもので。
そう思うのは、非情か、はたまた職務放棄か。本来なら、人が集まるイベントは警戒態勢を高めるべきだ。今回こそ『怪異対策本部』が近くにいたからすぐに対処できたものの、いなかったと考えると恐ろしい。
世間の『怪異』に対する認識はこんなものだ。どうせ自分達には関係ない。どうせなんとかなる。そういう、お気楽で、どうしようにもないほど平和な思考で、世界は止まることなく回っている。
尚也は、ポケットの中で震える携帯を取り出した。明るい画面には、ぽんぽん、と複数のメッセージが表示されていく。そのどれもが、此方の安否を確認するものだ。
「……行こ」
やけに重たい身体を壁から引き剥がし、服の皺を伸ばす。
新歓はまだ、終わらない。




