第111話
狼になったライガより2回りほども大きな、腕も足も短い茶色の毛に覆われたその獣人さんは鋭い爪が光る拳を勢いよくライガ目掛けて振り落とした。ライガは横に飛んでそれをかわす。ずしんと地震のような揺れが古い石畳を伝わって私の足元も揺らした。
拳が当たった地面から土埃が舞う。床にはぴしっとヒビが入っていた。
「さすが、ベルリク!」
「やっちまえ!」
周りから歓声があがる。
「馬鹿力だな」
ライガが石畳にできた割れ目を見ながらぼやいた。
「それしか取り柄がねぇからなあ」
ベルリクさんは手をぐるぐると回すと、拳を握って構えるとにやっと笑った。
「お前をあの貴族が買ってったときよ、確か子どもの喧嘩相手にって話だったよな」
「だから?」
ライガは吐き捨てながら、助走をつけて殴りかかる。
相手はそれを避けずに正面から受け止めた。
「――っ」
ライガの腕を掴んで身体を地面に捻り倒すとベルリクさんは言葉を続けた。
「金持ちの道楽だなと思ったけどよ。こいつの家行きゃ楽できそうだって思ったね。そいつはできるだけ力の強い獣憑きが欲しいってんで、お前か俺かで迷ってたんだ。お前は知らねえだろうけど」
話しながら拳を持ち上げ、振り下ろす。その手は、さっと頭を横にずらしたライガの頬をかすった。小さく狼のうめき声が聞こえて、私は思わず胸の前で手を組んだ。
「まぁ、それでお前を買ってったわけだが、理由は俺だと『でかすぎるから』だったらしいぜ――なんだそりゃって話だよなあ!!!」
ベルリクさんは体重をかけてライガを押さえつけると、拳を持ち上げてライガの頭に狙いを定めて呟いた。
「俺の代わりに良い飯食ってんだろうって思ったらよ、お前見つけたら殴ってやりたいって思ってたんだ。まぁ売れ残っちまったからな――そのままレイヴィスの親父のところで働いたよ。今じゃこの一帯、任されてるんだぜ」
――もう祈るべき? 私はライガをじっと見た。目が合うと、ライガは首を横に振った。
どすっと重い茶色い拳が振り下ろされた。私は思わず目を瞑る。
ライガの低い声が響いた。
「――お前、あのクソ親父と繋がってんのか。いいこと聞けたぜ」
目を開けるとライガは振り下ろされたベルリクさんの拳を受け止めていた。そのまま茶色い毛に覆われたお腹を蹴上げる。ベルリクさんは蹴られた勢いで後ろによろめくと、ため息をついた。
「悪あがきが」
「うるせぇ」
ライガは立ち上がると、大きく肩で息をする。ぼたぼたと腕や顔やらから血が流れていたけど、そのまま動きを止めずに相手に殴りかかった。
――目で追うのがやっとの殴り合いが始まって、周囲の獣人さんたちの歓声がひと際大きくなる。
私は胸の前で組んだ手の力を強めた。
――ライガ、頑張って。
目を開いて、じっと台の上の二人を見つめる。
そこにあるのは、純粋な力と力のぶつかり合い。
強いものが弱いものをねじ伏せて、勝利する。
何てわかりやすいんだろう。
キアーラの神殿で目を瞑っても頭の中に大司教様の声が響くほど教えられた、光の女神様の教え――より苦しい、持たない人々が笑顔になれるように祈りましょうっていう、そんな効果のよくわからない言葉よりも、目の前で行われる力のぶつかり合いはシンプルでわかりやすい。
私は胸がどきどきと高鳴るのを感じた。
手を組んで、互いに拳を振るう壇上の2頭の獣を、瞬きを忘れて、大きく目を見開いたまま見つめて、祈った。
――ライガ――目の前の、ノアくんを攫ったその悪い人を、殴って、倒して、打ちのめして――
「おらぁ!」
ライガ吠え声が会場全体に響き渡った。
バキッと何かが折れる音が響き渡る。熊の身体が床に倒れた。ライガの銀色の毛に覆われた拳には真っ黒な液体がべっとりと絡みついていた。ライガはぐるるると牙をむいたまま、一心不乱に拳を振り下ろす。その度に赤黒い液体が飛び散った。
ゴッゴッ! 狼の拳が何度も熊の体に振り下ろされる音。その間に、ときどきバキっという、硬いものが粉砕される音が交ざる。そのたびに聴衆からは歓声が上がった。ナターシャさんも、テオドールさんもみんなが熱に浮かれたようにそれに見入っていた。
「ライガ、止めろ、殺すな!」
そのとき――大声が響いて、獣と獣の間に人が割り込んだ。
私ははっとする。ステファンの声?
「――うるせぇなああああ!」
ライガが吠えるようにステファンを殴り飛ばした。
――ライガが? ――え?
ステファンの身体が私の目の前に落ちてくる。
ライガは石畳の上で赤い水たまりの中で横たわったままのさっきまでの相手を置いて、今度はステファンに飛び掛かって馬乗りになると牙をむいていた。
周囲から歓声が上がる。――次の見世物を熱狂して待ち望むように。
私は言葉を失ってライガを見つめた。
我を失ったような狼男の、いつもは私と同じ緑の瞳は、炎が燃えるような赤みを帯びていた。
――がぁぁぁぁ
咆哮と共に、ライガがステファンの肩に噛みついた。
「痛っ……いじゃないか!」
ステファンは叫びながら、腰に差した剣を鞘ごと、さらに噛みつこうと広げられたライガの口の中へ押し込んだ。ライガの牙がそのまま鞘をかみ砕いたところで、ステファンは剣を横に引いた。「ぎゃう!」と吠え声が響いて、口が切れた狼は後ろに飛びのく。剣はその勢いでステファンの手を離れ、私の横に落ちた。
――何で、ライガがステファンを?
私は視線を泳がせて、地面に映った剣に映った自分の瞳と目が合って硬直した。
真っ赤に――瞳全体が真っ赤に染まっている。
私はさっき自分が祈ったことを思い出した。
『ライガ頑張って――相手を打ちのめして――』
――私?
――私のあの祈りがライガをこうした?
私はすとん、とその場に座りこんだ。
「――ステファン?」
「ライガ!?」
テオドールさんやナターシャさんが何かから目覚めたように叫んだ。
「――レイラ!」
肩を押さえて立ち上がったステファンが、私を呼んだ。
視線を向けると、ステファンは笑って言った。
「僕もライガも大丈夫だから、頼むよ」
それから、剣で切れて血が流れてる口を押さえながら、それでもさらに飛び掛かるような構えを取るライガに向き直る。
私は両手で頬を叩いた。
――私、私のやらないといけないことをやらないと――!
胸の前で手を組むと、瞳を強く閉じて祈る。
――ライガ、落ち着いて! ――ごめんなさい!! お願い皆、もう止めて!!!
その瞬間、しんっとあれだけ熱気に包まれていた周囲の空気が静まり返るのを感じた。
恐る恐る目を開けると、この場にいる人々がみんな呆けたように宙を仰いでいた。
――ライガとステファンは?
視線を移すと、二人とも地面に膝をついている。
駆け寄ろうとしたところで、ステファンがズボンのポケットから何かを出して、ぶんっと空中へ放り投げた。それは、空中で、ぱっと光った。
――あれは、確か、森の中で待機してる魔法使いさんたちへの合図――。
次の瞬間、青い光の筋のようなものが目の前を走って、びりっと身体が痺れた。
――これが麻痺の魔法!?
足がびりびりして、私は思わず尻餅をついた。
――それからぐるりと回りを見回すと、石畳の広場にいるほぼ全員が倒れて地面に転がっていた。
ばたばたと足音がして、ソーニャと同じデザインの黒いローブの魔法使いたちが森から駆け出してくる。
「ナターシャ!? ステファン!? 何があったんだ!?」
黒髪の魔法使い――サミュエルさんが地面に転がった私たちを見て、叫んだ。
ナターシャさんもテオドールさんも――私以外みんな麻痺魔法が効いて地面に倒れ込んでいた。




