ある悪役令嬢の結末
王都には、ひときわ風変わりな王太子がいた。
政務の場であれ、謁見の場であれ、舞踏会であれ、どこに行くにも彼は一匹の白猫を肩に乗せていた。淡雪のような毛並みに、琥珀色の瞳。人懐っこくも神秘的な猫で、まるで彼の一部であるかのように、いつも静かに寄り添っていた。
エリオット・アステリオ。若き王太子は、いつしか人々からこう呼ばれるようになった。
――猫の王太子。
あるいは――猫の王様、と。
初めこそ奇異の目で見られた。だが、やがて人々は彼の誠実な政務ぶりと、冷静な判断力、そして民に寄り添う姿勢に心を動かされていった。時が経つにつれ、人々はその猫と共にある王太子を、尊敬と親しみを込めてそう呼ぶようになったのだ。
***
王太子に白猫が寄り添うようになったのは、王都社交界を騒がせた“断罪劇”――今では語る者も少ない、その事件を境にしてのことだった。
その渦中にいたのが、かのクラリッサ・クレイジオ公爵令嬢だ。
クラリッサとエリオットは政略による婚約関係だった。本人の意思とは無関係に決められたものであり、彼女自身に恋心があったわけではない。ただ、貴族令嬢としての使命を受け入れ、未来の王太子妃として相応しい振る舞いを徹底していた。
礼儀作法、歴史、法、語学、政務知識。これらすべてを習得するために王宮での生活は試練の連続だったが、彼女は一つの弱音も吐かず、日々の研鑽を重ねた。いつも静かに、凛とした姿勢で机に向かい、時に王太子の代筆や政務補佐までこなしていたという。
しかし、その献身が誰にも理解されることはなかった。
無表情な顔は冷淡に見え、正論は皮肉と受け取られた。彼女が誰よりも王太子の公務を支えていたことを、当の本人であるエリオットすら気づいてはいなかった。
***
学園に通うようになったエリオットは、ある少女と出会う。
リリィ・フォルモーザ。男爵家の出自ながら、朗らかさと天真爛漫な笑顔で誰からも愛される存在だった。
エリオットはすぐに彼女に惹かれた。そして、冷たいと評判の婚約者よりも、温かな笑顔の彼女といると、完璧であることを強要される王族の肩書きを忘れ、ありのままの自分でいられるような気がした。
ある日、クラリッサが学園内でリリィに礼儀作法を指導している場面があった。
それは必要最低限の教育であったが、エリオットには「嫉妬からのいびり」に見えた。
クラリッサの指導の言葉は、丁寧すぎて鋭利だった。だが、彼女が“その場にふさわしい振る舞い”を求めたことの裏に、王太子妃としての教育的責任があったことを、誰も汲み取ろうとはしなかった。
――クラリッサは、嫉妬している。
――リリィがエリオットの心を奪ったから、意地悪している。
そんな空気が、瞬く間に広まった。
そして、エリオットは決めた。――「改心させるための措置」として、クラリッサに謹慎を言い渡す、と。
***
学園の礼拝堂に呼び出されたクラリッサは、エリオットとリリィを前に立たされた。
「クラリッサ・クレイジオ。お前の態度は、王太子妃にふさわしくない。よって、王宮の尖塔にて、謹慎を命ずる。猛省せよ。」
王太子の声は冷たく、周囲の空気は凍ったようだった。
リリィはその背に隠れ、小さく震えている。
クラリッサは、ただ一礼した。
表情は変わらない。
……けれど、手が、わずかに震えていた。
その微細な揺らぎを、誰かが気づくことはなかった。
***
王宮の尖塔にある幽閉部屋。
クラリッサは一人きりの空間で、静かに窓の外を見ていた。
高い場所から見える王都の灯り。そのどれもが、もう自分には関係のないもののように感じられた。
「……そろそろ、でしょうか」
ぽつりとつぶやいたその声は、風に吸い込まれていった。
***
数日後。
謹慎解除の日、エリオットが部屋を訪れたとき、そこにクラリッサの姿はなかった。
代わりに、机の上には一通の手紙と、空の薬瓶、そして一匹の白猫がいた。
『親愛なる王太子殿下へ
私は、貴方の選択を恨むことはありません。
けれど、努力のすべてを否定されたようで――少しだけ、悲しかった。
私はもう、わたしのままでは耐えられません。
貴方の選んだ未来が、どうか幸福でありますように。
クラリッサ・クレイジオ』
エリオットは手紙を読み終え、膝をついた。
白猫は彼をじっと見上げていた。琥珀の瞳は、言葉の代わりに何かを訴えるようだった。
***
その日から、王太子は変わった。
政務に励み、臣下の進言に耳を傾け、民の声を真摯に受け止めるようになった。かつてクラリッサが担っていた役割の重さに気づいたからだ。
白猫は常に彼の傍にいた。
彼が書き損じた書簡の上にそっと座って止めるように、また、疲れた夜には彼の膝に飛び乗り、眠気を誘うように丸くなる。
そして、時折その白猫にだけ、小さく微笑むのだった。
***
時が流れる。
“猫の王太子”と呼ばれた男は、やがて王となった。
彼は国政を安定させ、民の信を得た。
白猫はやがて年老い、いつしかその姿を消した。
エリオットは生涯、猫の名を口にすることはなかった。
ただ、一度だけ、こうつぶやいたという。
「ちゃんとわかってる、ありがとう。君がくれた未来を、無駄にはしない」
***
ある夜のこと。
風が雪を運び、辺境の領主邸にも冬の静けさが訪れていた。
厚い石壁に囲まれた暖炉のある部屋で、母と娘が並んで寝台に座っている。
「おかあさま、今日も“白猫の令嬢のおはなし”して?」
「もう眠る時間よ、お姫さま」
「でも最後まで聞かないと、眠れないの……」
母は苦笑しながら、そっと娘の髪を撫でた。
「昔むかし、とっても冷たくて、とっても努力家の悪役令嬢がいました。彼女は王太子さまの婚約者でしたが――」
物語が静かに紡がれていく。
クラリッサが猫になったこと。
白猫として王太子に寄り添い、彼が優しくなっていったこと。
――そして最後に、姿を消してしまったこと。
「……それでね、その白猫は、もう誰の前にも現れなかったの」
「ええーっ、じゃあ、クラリッサさまはどうなっちゃったの?」
娘の声は半分眠気に沈みながらも、まだ好奇心を残していた。
「そうね。実はね……」
母はくすりと笑った。
「その“猫になった”というのは、クラリッサのお父さまが仕組んだ小さな芝居だったのよ」
「えっ?」
「本当はね、猫になんてなっていないの。お父さまがこっそり助け出して、小さな芝居を打ったの。白猫と薬瓶と、一通の手紙だけを残して――王太子さまには、そう思わせたの」
「じゃあ……クラリッサさまは、どこへ行ったの?」
娘はむにゃむにゃと目を擦りながら、かすれた声でたずねる。
「幼いころ、ひと目だけ出会った辺境伯の王子さま。ほんの少しだけ恋をして、でも忘れたふりをしていた――そんな人と再会して、新しい人生を歩みはじめたのよ」
(そして今は……可愛い娘に夜ごとお話をしてあげている)
言葉を聞き届けたように、娘は小さく息を吐き、眠りの中へと沈んでいった。
***
寝台から離れ、母は窓辺に立つ。
あの頃は届かなかった灯りを、今はこうして撫でることができる。
冷たい硝子の向こうに、ぬくもりを感じながら。
かつて羽根ペンを持ち続けた指先が、今では絵本をめくるためにある。
その姿はもう、かつて“悪役令嬢”と呼ばれた少女ではない。
娘の寝息が聞こえる。静かな夜が、部屋を包んでいた。
……誰も知らない。
あの悪役令嬢の結末が、白猫の姿で消えた悲劇などではなく、役目を降り、新たな人生を選んだ一人の女性の、静かな幸福であったことを。
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