9話 吊り橋の怪
遠く伸びる木で作られた道に、三隈は感嘆の息を吐いた。
昼間に訪れれば、遠くの景色まで見渡せて絶景なのだろうが、今は辺り一帯暗く沈んでいる。
「うーん、本当に来ちゃった」
隣で頭を抱える稲田を見やった三隈は、腕を組み、薄く笑った。
「今更何を言っているんだ。折角なんだから楽しめ」
三隈と稲田は、とある大型自然公園内にある、大吊橋を訪れていた。
渡っていると、幽霊とすれ違うという橋だ。
「ちょっと楽しそうとか思っちゃったんだよなぁ……。あの動画、許せん」
はぁ、と稲田が溜め息を吐いた。
三隈は、考え込みながら吊り橋に目を戻した。
幽霊とすれ違う橋、と長く噂されていた吊り橋だが、今この橋では、〝質問に答えてくれる霊〟というものも出るらしい。しかも、声を掛けられたら絶対に振り返ってはならない、という禁忌付きだ。
どうしてそうなったのか、幽霊の渋滞を起こしている場所とも言える。
動画では、怪しい音と、何某かの気配を感じた、背中が痛くなったという感想だけで幽霊の姿を捉えることはなかったが、動画としてはかなり上手く作られていた。三隈の横で見るともなしに動画を見ていた稲田が、ポツリと「なんか面白そーね」と途中からじっくりと見始めた程だ。
三隈はそう言った稲田を、逃さなかった。
「行くぞ。俺は明日も仕事だからな」
「へいへい。俺の休みに合わせてくれてアリガトね」
行かない、と渋る稲田を、三隈は何とか言い包めて吊り橋を訪れていた。元々多少の興味があった稲田は、何度かの駆け引きの末「お前の休日の前にする」という提案に、渋々と、しかし何処か興味を隠せない様子で承諾した。
吊り橋の上に足を乗せると、ギィと足場が軋んだ。
大型の吊り橋は、二十人程なら同時に渡ることが出来る。しかし、夜も深まった今、吊り橋を渡るのは三隈と稲田しかいない。
二人が歩く度、吊り橋はそれに合わせて軋む。
ギィ……ギィギィ……ギギィ……ギィ。
「正直暗すぎて結構怖くない?」
稲田が足場の隙間から下を覗き、身を縮めて目を上げた。
照明は吊り橋の端と端に灯っている。その灯りがぼんやりと照らしているが、吊り橋の中央に行くに連れてそれは弱まっていく。眼下の雑木林は当然暗闇に沈んでいた。
「そこまで怖いなら、待ってても良いんだぞ」
三隈の言葉に黙り込んだ稲田が、うー、と唸ってから首を振った。
「いや、待ってる方も怖いでしょ……」
「なら、歩け」
暗闇に歩いていく三隈の背を、パッと光が照らした。稲田が取り出したスマートフォンのライトだった。
三隈は、顔の前に手を翳し、眉を寄せた。
「……眩しい」
「いや、暗ぇじゃん。点けようぜ」
多少はホッとしたような顔をした稲田は、そう言って三隈の横に並んだ。強い光が吊り橋の先を照らし出す。
三隈は、稲田のスマートフォンを掲げている方の腕を掴んだ。不思議そうに見つめ返す稲田に、ニンマリと笑みを浮かべる。
「なぁ、稲田。もし俺がここでこの腕を振ったらどうなる。スマホがその手から落ちたら。その薄さなら足場の隙間から、落ちるよな」
顔を引き攣らせた稲田が、小刻みに息を吸った。
「ちょ……マジで、ゾクッとした……。手、離して。仕舞うから」
三隈が手を離すと、稲田はゆっくりとした動作でポケットにスマートフォンを仕舞った。
はぁ、と長い息を吐く。
「もぉお……お前が怖いって。悪かったよ、明るくしてさぁ」
「いや、本当に何かが起きた時にお前がスマホを取り落としそうだったから、言っただけだ。流石にここから落としたら見つからないだろうし、見つかったとしても画面が割れるか、故障するかだろうからな。それ、買い替えたばかりだろ」
腰を屈め、あー、と呻いていた稲田が「まぁね」と力なく言った。
「懐中電灯持ってくればよかった。というか、こういう時はお前が持ってくるもんじゃないの。オカルトマニアとしてさぁ」
三隈は、眼下に広がる雑木林から稲田に視線を移し、答えた。
「オカルトマニアとして、暗い中を進むことを選んだ。吊り橋は特に危険もないだろうからな。言っても、ここは管理された公園な訳だし」
稲田は顔を顰めると、もう一度息を吐いて屈めていた体を起こした。
「判った。判ったよ。行こうぜ。幽霊に遭う前に精神疲労で気絶しそう」
「……お前を抱えて吊り橋を渡るのはしんどそうだから、気絶はやめろ」
難儀そうに言った三隈を、稲田はふと見つめ、笑った。三隈が怪訝そうに見つめ返す。
「なんだ?」
「いや、なんでも。行こうぜ。幽霊に何訊こうかなー。というか、すれ違う奴も出るのかな」
稲田は、何処か足取り軽く吊り橋を歩き始める。
「お前、怖かったんじゃないのか」
そう訊く三隈に、ぐっと伸びをした稲田は、小さく笑った。
「いや、まぁ怖いけど。普通に楽しめそうな気がしてきた。──え、もしかしてお前、怖がる俺を見て楽しんでた訳?」
稲田を見やった三隈は、ついと視線を道の先に戻した。
「マジかよ、お前! 悪魔か!」
「違うけど」
その時、三隈の耳は、喚く稲田の声とは別の音を捉えた。
──足場が軋む音だ。
三隈が足を止めて後ろを振り返ると、稲田も不思議そうに足を止め、三隈の視線を追おうとして止めた。
「おい、三隈、後ろ振り返っちゃいけないんじゃなかったっけ? ──というか、何か、聞こえない?」
二人は足を止めている。それなのに、足場が軋む音が聞こえてくる。振動は、なかった。
ギッ……ギッ……ギッ……。
足音は近付いて来ている。人影は見当たらない。
「まだ声を掛けられていないから大丈夫だ。──俺達の後ろから来たということは、質問に答える方の霊か?」
後ろを見渡した三隈は、視覚の上では異常がないことを確認し、視線を道の先に戻した。
「これで一応、ただの不審者説は消えたな。恐らく、本物が居る」
稲田が顔を顰め、呻き声を上げた。
「なぁ、めっちゃ怖くなってきたんだけど」
「楽しめ」
三隈が言った時、近付いて来ていた足音がふいに止まった。
二人の背後で、何者かの気配だけがずっしりとした重みを持って佇んでいる。声を掛けてくる様子はない。
ちら、と稲田が三隈を盗み見た。三隈はそれを受け、唾を飲み込んでから口を開いた。
「質問しても、いいですか?」
答えはない。
三隈はスマートフォンを取り出すと、インカメラを起動して後ろを伺い見た。稲田が「止めろって!」と言うのを無視し、肩口に寄せる。
──何も、映っていない。
しかし、次の瞬間、三隈は息を飲んだ。稲田も目を見開き、ゆっくりと自身の肩に目を向ける。
──手、だ。
節くれだった、まるで枝のような手が、二人の肩を掴んでいた。
怯えを滲ませた稲田が、三隈に視線を向ける。
「シツモン、シテモ……イイ、デスカ」
ガサガサに乾いた声が言う。
「シツモン……シ、テモ……イイデス、カシツモンシテ、モ、イイデスカ」
繰り返しながら、それは肩に乗せた手に力を入れ、ぐぐぐと顔を二人の間に割り込ませた。
まるで、古木のような〝それ〟が、ゆっくりと間に割り込むと、互いの顔は見えなくなった。
〝それ〟の横顔がバキリと割れ、左右に開く。ギギギギという音を立てながら、半分になった顔を三隈と稲田に向けた。
木のうろのような顔の中で、目玉がぎょろぎょろと動く。
「シツモンシテモ、イイデス、カシツモンシテ──」
三隈の中で、道で〝何か〟に遭った時の感情が蘇った。肌が粟立つ。
──これは、マズいか。
「稲──」
「いや、無理!」
叫ぶような稲田の声の後、古木のようなそれは突然砕け散った。吊り橋が大きく揺れる。
稲田が、怯えた顔で札を片手に立っていた。何も居なくなった空間に視線を向け、ゆっくりと三隈に目を向ける。
「いや、無理だって。無理無理無理。マジで、無理。怖えって。無理……無理だってぇ」
そう言いながら、力が抜けたようにその場に崩れ落ちる。
「俺、なんか泣きそうなんだけど。無理過ぎて。怖えどころじゃないって、何だ今の。こっちが質問しに来たんだよ。質問していいですかって何だよ、意味判んねー。お前が答えろよ」
喚いていた稲田が、三隈を見上げ、目を眇めた。
「三隈?」
三隈は、知らぬうちに止めていた息を吐き出した。急に息苦しさに襲われ、意識的に呼吸をする。
「いや、流石に、あれは……想定してたのと違ったからな」
「え、アイツじゃないの」
目を丸くする稲田に、三隈は手を差し出した。
「お前、凄いところに座ってるぞ。度胸試ししてるのか」
稲田は足場の端の、ワイヤーが剥き出しになっている箇所に半分乗り出すようにして座り込んでいた。ぎょっと目を剥いた稲田は、しかしはぁと息を吐いてから三隈の手を取った。
互いの手が随分と冷えているのが判る。
「はぁ、なんかもう怖すぎて怖くねぇ。怖すぎて怖がることも出来ねぇ。怖くねぇ。……何言ってんだ、俺」
ふっと思わず笑った稲田が、再び長い息を吐く。ちらと後ろを見やった。
「で、本来はアレじゃなかった訳ね。質問もしなけりゃ、すれ違ってもないし」
「あぁ、あんな怪物みたいな奴が出る予定じゃなかった。なんだ、アレ」
「お前が知らねーなら、俺はもっと判んねぇよ」
二人はどちらからともなく歩き出した。
「正直……相当怖かったな、アレ。道で遭ったアレを思い出した」
あー、と声を上げた稲田が、怠そうに答える。
「アレねぇ。というか、お前がそんだけ怖いんだから、今の俺の気持ち判るでしょ。多分、寿命十年くらい縮んだわ」
「……助かった」
三隈の言葉に、稲田はニヤリと笑う。
「お前が『ヘルプ』って言う前に、札使ってやったもんね。まぁ……お前の声に反応したというか、俺の恐怖の限界がきただけだけど」
溜息混じりに言う稲田に、三隈は片眉を上げた。
「いや、アレは逃げるぞって言おうとしたんだ」
「へ?」
一瞬だけ足を止めた稲田が、暫く歩いてから、あぁ、と唸った。
「そーね、お前はそういう奴なんだった。そうだった。というか、アレから走って逃げるって無理でしょ。絶対札使って正解だわ」
「まぁ、そうだな……」
三隈は、後ろを振り返り、小さく息を吐いた。
「じゃあ帰るかぁ。こっちの駐車場に車停めておいて良かったな」
吊り橋を渡り終えた稲田が、安堵した顔で言った。
此処には、本来遭う予定だった霊が、あと二体は居る筈なのだ。何やらと会話を続けていたが、吊り橋を渡り終えるまでは、まだ他の霊が出る可能性があり、二人は何処かで警戒をしながら進んでいた。強い恐怖を感じた後で、二人とも精神的に酷く疲れていた。
二か所ある駐車場のうち、ゴールとなる吊り橋のこちら側に車を停めていたお陰で、行きは公園内の散策道を通り多少時間は掛かったが、帰りは随分と楽だ。
「帰りにコンビニ寄るかー。何か若干腹減ったし」
「お兄ちゃん、さっき振り向いたでしょ」
突然聞こえた幼い声に、三隈と稲田は目を見合わせた。思わず顔を後ろに向けようとした稲田の頬を押し返し、前を向かせる。三隈も横を向いていた体をゆっくりと前に向けた。
灯りに照らされた吊り橋には、誰も居なかった筈だ。何より、この時間に子供が居る筈がない。
「お兄ちゃん振り向いたでしょ」
幼い声が言う。
問うような視線を向ける稲田を見やってから、三隈は答えた。
「振り向いてない」
「ううん、振り向いたよ」
「それは、声を掛けられる前だ」
後ろの気配が、僅かに沸き立った。
「お兄ちゃん、振り向いたよね」
平坦な声が言う。
「振り向いてない」
「嘘だよ。振り返った所、見たよ」
「振り向いてない」
「嘘だよ! 見たもん!」
「しつこいな、振り向いてないと言ってるだろ」
三隈の声に、稲田が焦った顔をする。
「お、おい、喧嘩しかけんなって」
そう言う稲田を、三隈は視線で制した。稲田は口を曲げ、不安そうに眉を寄せる。
「声を掛けていない。質問にも答えていない。それで、勝手に振り返った所を見てたと難癖をつけて、俺達をどうするつもりだ」
背後の気配が、クスリと笑う。
「質問、だね」
三隈が舌打ちをする。背後の気配は、クスクスと笑いを含んだ声で答えた。
「それはね──僕を怒らせた人は、殺しちゃうんだよ」
「お前は何を言っているんだ?」
三隈の苛立った声に、気配は黙った。
「お前は〝質問に答える幽霊〟だろう? お前はまず声を掛け、質問に答え、そして〝振り返ってはならない〟というルールを破った者を殺すんだろう。それなら俺達に対して順序がぐちゃぐちゃだ。判定もこじつけに近い。お前は自分の決めたルールに従わず俺達を殺すのか? 正直、こっちはさっき遭った奇妙な存在のせいで疲れてる。改めて質問する気力もない。振り向く元気もない」
「質問し──」
「しない。俺達は帰る。──帰るぞ」
そう言って三隈は歩き出した。稲田は、黙ったままそれに従った。
暫く歩いて駐車場が見えた頃、稲田が言った。
「お前……幽霊に説教すんなよ」
「いや、幽霊としてルールは守るべきだろ。独自のルールがあるなら尚更な」
稲田が、呆れたように息を吐いた。後ろを振り返ろうとして、すぐに目を戻す。
「なぁ、今の何。〝質問に答える幽霊〟って男の子なのね」
「都市伝説のさとる君かと予想してたが、違う……みたいだな」
「さとる君? 何だっけ……確か、公衆電話から電話を掛けるとなんでも答えてくれるやつだっけ。今はスマホからでもいけるやつでしょ」
稲田が首を捻りながら言った。
「そうだ。ここの心霊現象の話をまとめると、さとる君が手法を変えたのかとも思ったが……あれは、さとる君ではないのか」
「違うよ」
幼い声が答えた。
三隈は舌打ちをしてから、稲田の腕を掴んだ。
「逃げるぞ、稲田」
「え、マジ⁉ 走って⁉」
駐車場に出ると、稲田が慌ててポケットに手を突っ込み、間抜けな音がして車の鍵が開いた。
二人して車の中に滑り込み、扉を閉める。天井には、高野の『無事帰る』の札が貼られたままだ。
「あ、あれ……さとる君じゃないって、言ってたよな? じゃあ何なの⁉」
「……判らん。話にないことばかりだ。さとる君じゃないとしても、何で吊り橋から出て来てるんだ。吊り橋で質問に答えるんだろ。ルールを守れよ」
その時、車の天井がバンッと鳴った。稲田が、うへぇと声を上げる。
音は、天井をゆっくりとボンネットの方へ進む。
ペタ……とフロントガラスに手形が付いた。
ペタ……ペタペタペタ……。
手形が増えていく。
「なんだ、このオールドタイプの霊現象は。やっぱり……さとる君か⁉」
思わず身を乗り出した三隈に、稲田は顔を顰めた。
「もー、やだ。なんだよこれ、どうすんだよ。怖い筈なのに、怖いかどうかももうよく判んねぇよ」
稲田がハンドルに額を当てて項垂れた。
ペタ……ペタペタ……と手形は増える。ふいに、全ての現象が止まった。
ちらとルームミラーを見た三隈は、何気ない風を装って胸ポケットに手を伸ばした。腕の隙間からそれを見やっていた稲田が、不思議そうにする。
三隈は、胸ポケットから高野の札を取り出すと、振り向きざまにそれを叩きつけた。僅かな抵抗があって、後部座席に座っていたぼんやりとした人影が消滅する。
わっ、と驚いた稲田が体を起こし、後ろを振り返った。車が大きく揺れる。
「な、なんだよ。何やってんの⁉」
「いや、さとる君らしきものが後部座席に乗ってるのが見えたから」
「は⁉」
稲田が体を引いた拍子に、クラクションが鳴った。きょろきょろと視線を彷徨わせた稲田は、「乗ってたの? マジ?」と呻いてから背もたれに深くもたれた。
「ルームミラーに映ってたんだ。映像には映らないのに、こういうのには映るんだな。……鏡だからか」
「感心してる場合じゃねぇって! やっぱ怖ぇわ……お前が」
「怖いのは好きだろ」
三隈の言葉に、稲田が溜め息を吐く。ちらと三隈を見て、不本意そうに言った。
「まぁ、そうだけど。でも、暫くはいーや。あのよく判んない化け物だけで十分怖かったってのに、さとる君もどきも現れるし、もう俺の感情はよく判んねぇよ。本当にさとる君もどき、もう居ないんだろうな?」
ちらとルームミラーを見た稲田が訊いた。
「居ない。帰れって願ったからな」
そう言って、三隈は高野の札をひらひらと振った。
稲田は、少しだけ安心したようにはぁと息を吐いた。
「こりゃ、明日は洗車だな」
フロントガラスに付いた手形を見て、稲田は言う。
「あぁ、そうだ。今度は例のトンネル行ってみるか」
三隈の言葉に、稲田は三隈の肩を叩いた。
「あぁ、そうだ。──じゃねぇよ。行かねぇって。お前、剛毛心臓かよ」
「あそこは車がないと難しいんだよな。助かる」
「無視かよ! 行かねぇって! もう腹いっぱいだって」
稲田の呆れた声に、三隈は薄く笑った。