5話 古い家の怪・後編
札を手にした稲田は、ねねの案内に従って次々に札を貼っていった。
二階の物置では、一番音がするという梁に札を貼る。階段では一番上と一番下の隅に。廊下は染みのついた古めかしい壁へ。擦り硝子越しに誰かが覗いているのが見えるというトイレの扉。客間は、一番太い柱へと札を貼った。
再び祖母の部屋へ向かうと、高野はねねに問いかけた。
「おばあさんのお部屋はどうしましょう。流石に貼っている所を見られてしまっては、これが何かを説明しない訳にはいきませんし……」
ねねは部屋の中の様子を探るように、耳を澄ませる仕草をした。
「多分、おばあちゃんはこの時間寝てると思う。ねねが貼って来るよ。どこら辺に貼ればいいの?」
「確か、おばあさんのお部屋は、浮き上がる人型の染みでしたよね。でしたら、それが浮き上がる辺りの床に貼って下さい」
高野は『染み抜き』と書かれた札を差し出した。
ねねは札を受け取ると、そろそろと足音を潜めて祖母の部屋に入って行った。
「……『染み抜き』って、そんな感じで良いんだ」
稲田の言葉に、高野がぷぅと頬を膨らませる。
「いいんですよぅ。要は、染みを作る何かが居なくなればいいんです。だから『染み抜き』です」
ね、と高野は三隈を見やった。三隈は若干の気まずさを感じながら、小さく頷いた。天井裏で使った札には『呻き収め』と書いてあった。かなり独特な言葉選びだ。しかし、高野がそれで効果があるというならあるのだろう。三隈は天井裏での出来事を思い返した。
──確かに〝何か〟は弾けて消えた。それで、いいのだろう。
そろそろと祖母の部屋を出てきたねねは、高野に笑顔を向けた。
「貼って来たよ。有難う、お姉ちゃん」
「はい。じゃあ、後は台所と勝手口、ですね」
そう言った時、まさに台所の方からガチャガチャという音が聞こえて来た。
「……ノブを捻る音がするのに何も居ない勝手口、だな」
呟くように三隈が言うと、ねねが小さく頷いた。目配せした稲田が、廊下を台所へと歩き出す。
ガチャガチャガチャッ。
勝手口のドアノブは、確かに誰も居ないのに激しく何度も捻られ音を立てていた。
静かに歩み寄った稲田がドアノブに札を貼ると、ふっと音が消えた。稲田は、そのままドアノブを握り、扉を押す。しかし、扉は開かなかった。
「あれ、開かん」
「そこ開かないよ」
「え、そうなの。不便じゃない?」
小首を傾げたねねは、ふるふると首を左右に振った。
「使ってないから」
「……待てよ。何も心霊現象とは限らないんじゃないか。外から捻ったってドアノブは動くんだ」
そう呟いた三隈に、稲田がハッと顔を向ける。
「そうだよ。扉の向こうに人が──行くぞ、三隈」
駆け出そうとした三隈と稲田の服を、ねねが引っ張った。
「どうした。とりあえず怪しい奴が居ないか俺達で見てくるから」
そう言う稲田に、ねねはぶんぶんと首を振る。
「外からじゃ無理だから、人じゃないよ」
「……どういうこと?」
そう訊く稲田に、ねねは勝手口を指さした。
「あの向こう、塞がってるの。昔は塞がってなかったけど、知らない人が来て塞いじゃった。それからずっと使ってないよ」
「知らない人? 建付けでも悪かったんかな」
稲田はそう言いながら、家の中を見回し、僅かに「しまった」という顔をした。確かに、この家はとても古い。何処かに深刻な傷みが出来ていてもおかしくない程に。
「俺じゃない」
ふと聞こえた男の声に、皆で目を見合わせた。暫くそうした後、稲田が三隈を見やった。
「えーと、三隈。お前喋ってないよな」
「……声で判るだろ」
そう言って廊下の方を覗くが、ねねの家族が帰って来たという訳ではなかった。この家は静寂の中に在る。
稲田は、三隈からねねに視線を移した。
「えーと、今のは? こういう心霊現象って起こるんだっけ?」
暫く眉根を寄せていたねねは、緩く首を振った。それから、不安そうに高野を見やる。
「お姉ちゃん、早くお札貼ろう」
そう言って食器棚を指さした。食器棚は、ひとりでに開くという。
高野はひとつ頷き、稲田から受け取った札を食器棚の引き出しの端へ貼ると、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。ペンを手に、うーんと何事かを考えてから、紙にペンを走らせた。
「これで良いでしょう。今の心霊現象にも効くように」
食器棚の目立たぬ所に貼られた札を覗き見た稲田は、ふはっと笑い声を漏らした。
「『囁き禁止』って」
高野がむっと口を曲げる。
「囁かないで下さいっていう、お願いです。此処ではもう囁きは禁止なんです」
同意を求めるようにちら、と見やる高野に、三隈はピクリと唇を動かした。
「……まぁ、かなり独特ではある。黙っていようと思ったが」
「えぇ! さっきは頷いてくれたじゃないですか」
「多少の気を遣った」
「えぇー⁉」
言い合う三隈と高野を見上げていたねねが、ふいにクスクスと笑いだす。
高野がハッと口を手で押さえた。
「ごめんなさい。おばあさんがお休み中でしたね」
ねねが、ふるふると首を振る。
「ううん、大丈夫。仲いいんだね、お姉ちゃん達。これで全部終わったから、ねねの部屋でお菓子食べよ」
ねねが高野の手を握った。
「はい、じゃあ今までお札を貼った所を再確認してから戻りましょう」
三隈達は、祖母の部屋はねねに任せ、それ以外の場所の札を確認してから、ねねの部屋に戻った。
「高野さん、どう? この家、大丈夫そう?」
稲田の問いに、高野は笑顔で頷いた。
「はい。まだ全部が消えた訳ではないですけど、少しずつ良くなると思います。これで、きっと大丈夫な筈です」
その答えに、ねねが嬉しそうに笑った。
「有難う。これで安心して暮らせるね」
「ねねちゃん、ご家族達はいつ頃戻るって? 俺達、そろそろ帰らないとだけど、もし帰って来るなら最後にご挨拶していきたいんだけど」
稲田が訊くと、ねねは小首を傾げた。
「うーん、どうだろ。帰って来るかなぁ」
「旅行とか行ってる訳じゃないでしょ?」
「うん、違う。でも気にしなくていいよ。この家に起きてた心霊現象はすっかりなくなったんだし、それだけで十分だよ」
「そう? まぁ、仕方ないか。俺達もこっから数時間かかるしな。そろそろお暇しようぜ」
稲田の言葉に、三隈と高野は頷いた。窓の外はすっかり陽が陰っていた。山あいの集落では、陽が隠れるのが早い。
「あ、ご家族分の身を守る為のお札も用意してきたんです。ご家族が帰って来たら渡してあげて下さい。どう渡すかはねねちゃんにお任せします。折り紙とかにしちゃっても大丈夫ですよ」
コップや皿を盆に移していたねねは、一瞬困った顔をした。あっと高野が声を上げ、札を卓の上に置く。
「お札、此処に置いておきますね。お盆も私が片付けます」
手を差し出した高野に、ねねはふるふると首を振る。
「ううん、大丈夫。お札有難う、姫お姉ちゃん」
ねねは卓の上の札に目をやり、にっこりと微笑んだ。
眠っている筈の祖母を気遣い、静かに家を出た三隈達は、家の前でねねと向き合った。
ねねはニコニコと手を振り「来てくれて有難う」と見送る。ふいに三隈の許へ駆け寄ったねねは、小さく手招くと、屈みこんだ三隈に耳打ちした。
「またね、お兄ちゃん」
「ん……あぁ、またね。ねねちゃん」
三隈は、ひとつ頷いてから車に乗り込んだ。またね、と言ったもののもうここを訪れることはないし、ねねと会うこともないだろう。そう考えながら、ねねの家から視線を外す。
──とても、古い家だった。
山道を抜け、やっと舗装された道へと戻った時、後部座席で高野が、あっと声を上げた。
「どうしましょう。護身用のお札が一枚鞄の中に落ちてました」
「えっ、それって持ってないと駄目なんだよね。うーん、戻るか」
稲田は道を外れて転回すると、山道に向けて車を戻した。
「すみません。ちゃんと確認すればよかったです」
「まぁ、仕方ないって」
思いがけず、すぐにねねと再会することになり、三隈は内心で笑った。しかし、その笑みはすぐに引っ込むことになる。
取って返し、ねねの家に着いた三隈達は、明かりも点さず暗く沈むその家を見上げた。出掛けたのか。だが、それであるなら山道で鉢合わせる筈だ。
それだけではない。ねねの家は、まるで数十年の時が過ぎたように劣化していた。
点けっぱなしのヘッドライトに照らされた家は、崩れる程ではないが人が住めるような様子ではない。
「あ、あれ……ねねちゃんの家って……此処、でしたよね」
高野の声に、稲田が答える。
「……間違えようがないと思うけど」
戸惑う三隈達の視界の中で、ゆらりと何かが動いた。
見れば、玄関の擦り硝子越しに何かが立っている。何処か見覚えのあるそのシルエットが、ねねのものだと気がつくのに時間は掛からなかった。
「お姉ちゃん?」
くぐもった声が訊く。
「あ、ねねちゃ──」
駆け寄ろうとした高野の腕を、稲田が引き止めた。高野は、戸惑ったように稲田と玄関を見比べる。
「お姉ちゃん。また来てくれたんだね。でも、此処はもう、ねねのものだから」
「……え?」
ねねが一歩近付く。擦り硝子越しに、ぼんやりと見える顔がニヤリと笑った。
「邪魔者が全部消えたから。お姉ちゃんが弱らせてくれたから。だから、簡単に食べちゃえたんだよ」
そう言って、ねねは嬉しそうにクスクスと笑った。ふと、笑い声が止む。
「──そっか、お姉ちゃん達が新しい家族になってくれたら、楽しいね」
ねねがゆっくりと手を掲げ、扉に手を掛ける。
稲田が、高野の手から札をひったくると、今にも開きそうな玄関扉に叩きつけた。
瞬間、まるで鍵を掛けたように扉は動かなくなった。
ねねが扉に掛けた手を、何度も揺する。
ガタガタガタガタガタ……ガタッ。
「お姉ちゃん、扉が開かないよ。何で、何で、何で。お兄ちゃんが何かしたの? ねねと遊びたくないの? 何で? さっきは遊んでくれたのに。ねぇ、もう邪魔者は居ないよ。遊ぼうよ。家族が嫌なの? ねぇ、お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん──ねぇ!」
稲田が高野の腕を引き、後部座席に押し込んだ。呆然と立ち尽くす三隈に目を向ける。
「三隈、早く車乗れ!」
三隈が助手席に滑り込むと、稲田は「落ち着け落ち着け」と口の中で呟きながら山道に車を走らせた。
「高野さん、札。お札書いて。追って来ないようにするのとかなんか俺達の身を守る奴」
「は、はい……!」
高野が鞄からメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。三隈は、サイドミラーに目をやった。
──居ない。何も。追って来ては、いない。
高野が書いた札の一枚を天井に貼り、他を三隈と稲田に差し出した。それを胸ポケットに押し込み、稲田は呼吸を整える。
「とりあえず、高速乗る。お前ら、シートベルトしたな?」
そう言いながら、稲田は自身のシートベルトを引いた。
サービスエリアまで無言のまま向かった三隈達は、食事をする気にもならず、温かい飲み物を買って机を囲んだ。気温は高い筈なのに、体の芯が冷えている。
誰からともなく、溜め息が出た。
「ご、ごめんなさい……。まさか、ねねちゃんが、その──」
「いや、まさか俺もこんなことになるとは思わなかったし……。これならまだ高野さんを狙ったやべー奴が待ち構えてた方が……いや、そっちも嫌だけど。とりあえず、此処までは戻れたんだから、よしとしよう」
稲田は、ホットココアを飲み、胸ポケットから札を取り出した。
『安心安全』
その言葉に、ふっと小さく笑う。
「何か、この判るようで判らない言葉も、今はなんかイイ感じだわ」
はぁ、と息を吐き、先程から黙りこくってスマートフォンに目を落としている三隈を見やった。
「で、お前はなに。動画でも見返してるの」
小さく頷いた三隈に、稲田は机に立てた手に顔を埋めた。
「そーよな。お前はそういう奴よ。んで、今回は怖くなかった訳」
「いや、結構怖かった。ただ、気になってな」
そう言って、三隈は二人に見えるようにスマートフォンを掲げた。
「確かに映したと思った天井裏の〝何か〟が消えているんだ。あと、ねねの姿が何処にも映ってない。確か、大抵高野さんと手を繋いでたと思うけど」
表情を硬くして頷く高野に、三隈は画面の中を指さし、続けた。
「この辺り、高野さんの手は何かを握っているみたいだが、何も映っていない。多分、ねねは──」
そこで言葉を止めた三隈は、暫し考え込んだ。
その時、高野のスマートフォンがピロンとメッセージの受信を告げた。稲田と高野が肩をビクつかせる。恐る恐る、といった風に画面を覗き込んだ高野は、ホッと息を吐いた。
「母からでした」
「あぁ……それはよかった」
へらりと脱力して笑い、ホットココアを飲んだ稲田は、次の瞬間、高野が「あっ」と声を上げたのに、口に含んでいたココアを飲み込んだ。激しく咽てから、高野の方を見やる。
「な、なに、どうした」
「き、消えてます。ねねちゃんからのメッセージ……!」
その言葉に、三隈は立ち上がって高野のスマートフォンを覗き込んだ。
「見間違いとかじゃなくて?」
「ち、違います。確かに此処にあったんです」
高野は、震える手で画面を指さした。
三隈は、その様子を眺めてから、ひとつ頷いた。
「やっぱり、ねねは幽霊か何かだったんだろう。邪魔者を消した……それは他の家族のこと、なのか……?」
考え込む三隈の肩に、稲田が手を乗せる。
「ちょい待って。今は聞きたくない。マジで疲れてる」
「……判った。ただ、ひとつだけ気になることがある。健康に関することだ」
「健康……? なに」
三隈は、二人の顔を交互に見てから言った。
「幽霊かそれに類する何かの場合は判らないが、これが狐狸の場合、俺達が食べたり飲んだりしたあの麦茶や煎餅は、馬ふ──」
「止めて。聞きたくない」
重い沈黙が落ちた。
確かに、想像したら気持ちが悪いどころの話ではなかった。思わず三隈が嘔吐くと「お前がえずくんかい」と、稲田の力ない手が、三隈の肩を叩いた。
後日。三隈は『配信者山中で行方不明』というニュースに目を止めた。
心霊スポットをメインに巡り、その様子を配信しているという配信者が、配信中に姿をくらましたというのだ。
そういった動画は、誰かしらが録画して保存しているものだ。しかし、動画自体は実に地味なものだったらしく、一瞬だけ話題になり忘れ去られた。
配信者が言う。
『今日向かうのは、むかーし一家惨殺事件があったという家です。家族は全部で八人。祖父、祖母、父、母、男の子が二人いて、そこに更に叔父夫婦。かなり大家族ですよね。それが、ある日ある男によって殺されてしまい、その後その家では死霊となった家族が徘徊しているとか。その犯人も家の中で自ら命を絶ったとかで、謎が残る事件ですねぇ。一番目撃例が多いのは奥の間。ここにはおばあちゃんの霊が出るんだって。その次は勝手口。天井裏。二階の物置──お、見えて来た、見えて来た』
画面に、家の外観が映し出される。
「……あぁ」
三隈は、吐息のような声を漏らしていた。
暗闇に沈み、ぼんやりと懐中電灯に照らし出されるその家は、崩れる程ではないが人が住めるような様子ではない。
──とても、古い、家だ。
『あれ、なんかお札みたいなのが貼ってある』
その声の後、ふいに動画は止まって消えた。
三隈は目蓋を閉じた。動画が止まる瞬間、確かに聞こえた──。
「お兄ちゃん」