1話 廃倉庫の怪
スマートフォンから顔を上げ、三隈清孝は前を歩く二人を見つめた。
用意周到に懐中電灯まで持って、辺りを照らし出している。
「うわぁ、こうして見ると結構雰囲気あるね」
「何か出そう」
「出るんだよぉ」
「あ、そっか。三隈のオカルト情報」
そう言って、男──満谷斗馬が三隈を振り返った。
「おーい、三隈。何ぼーっとしてんだ。案内してくれよ」
「……案内って、別に俺もここに来たのは初めてなんだが」
そう呟いた三隈に、「え?」と耳に手を当て満谷が訊き返した。その様子に、恋人の長嶋みひろがクスクスと笑っている。
三隈は、小さく息を吐くと二人に歩み寄った。
きっかけは、職場での再会だった。
「あれ、やっぱり三隈君だよね?」
対面に座る客がそう言ったのに、三隈は書類から目を上げた。
「え、と……?」
書類によると、名前は『長嶋みひろ』。記入の際に頭の隅で何かが一瞬だけ閃いた気がしたが、特に思い当たる節もなく、そのままにしていた。
職業柄、他人の名前を多く目にしてきた。しかも、それのひとつひとつを一定の期間ある程度の関心を持って覚えていなければならない。過去に、似たような名前を目にしたのだろう。ここには、同じ人間が二度訪れるということは滅多にないのだから。
戸惑う三隈に、探るように女が訊く。
「あの、もしかしてS小学校通ってませんでした? 二十二期生」
「え……はい、そうですが」
三隈が言うと、長嶋は、わぁと声を上げて態度を崩した。
「三隈君! 私、長嶋みひろだよ。って、その様子だと覚えてないか。ほら六年の時松下先生だったでしょ。おぅい、三隈ぃって」
長嶋は声を低くして担任教師の真似をして見せた。三隈の中に、普段は全く気を向けることのない記憶が蘇っていく。改めて長嶋の顔を見て、あぁ、と声を漏らした時、長嶋の隣に座っていた男──書類によると『満谷斗馬』が声を上げた。
「え、あのオカルト三隈? え、マジ⁉」
笑いを堪えた顔を長嶋に向け、彼女が頷くのをきっかけに堪え切れず笑い始める。
「ちょ、何でここで働いてんの。似合わねー。予想外過ぎて全然気が付かなかったわ。てか、ちゃんと見れば三隈じゃん。面影残りすぎだろ! って、みひろがこんな感じなら俺のことは覚えてる筈ねーか」
言い方からして同窓なのだろう、と満谷の顔を見た三隈は、暫く黙してから「申し訳ない」と謝った。長嶋がケラケラと笑う。
「だって斗馬は三組だったじゃん。しかも確か一回も三隈君と同じクラスになってないでしょ。というか、見た目変わり過ぎて誰も気づかないって」
長嶋は、ケラケラ笑いながら三隈に手をひらひらと振って見せた。
「斗馬は小学生の頃、ヒョロヒョロだったんだよ。今じゃこんなにガタイ良いけど」
確かに満谷は上背もあり、筋肉も鍛えたそれだった。迎え入れた時には、内心感心したものだ。
「ヒョロヒョロ……と言われればそんな奴が居たような……でも、そんなに話したことはなかったよな」
「まぁな。お前はオカルト三隈ってある意味有名だったけど」
自覚のなかった三隈が返答に困っていると、長嶋が「私のことは?」と訊いた。
「三年から卒業まで同じクラスだったじゃん。覚えてない?」
三隈は、じっくりと考えてから言った。
「粘土でうさぎを作ってた……?」
ふはっと笑った長嶋は、「もう何でそんなこと覚えてるのぉ」と言った。
「ね、ね、私は何か変わった? 変わってない?」
内心辟易しつつ、三隈は僅かに首を傾げて考える振りをした。
「……髪形?」
長嶋は楽しそうに笑い声を上げて、満谷に縋りつくようにした。
「きょ、興味なさすぎ! 私に興味なさすぎ!」
一緒に笑いながら、満谷が僅かに安堵した顔をしたのを、三隈は見逃さなかった。それに気が付かない振りをして、書類に目を落とし、薄く笑う。
「確か、長嶋さんは中学は私立だったよな。女子が泣いてたの覚えてるよ。何処かで満谷と再会して、それで?」
笑いこけていた長嶋は、照れたように笑うとそっと満谷を見上げた。僅かに潤んだ瞳は、ここでは見慣れた表情だ。
「うん、大学の時にね。それから一応、ずっと一緒にいて、ね」
見つめ合う二人に、三隈は仕事用の顔を取り繕うと頭を下げた。
「この度はご結婚おめでとうございます」
「有難うございます」
嬉しそうに返した長嶋の横で、満谷がふっと笑った。
「それにしても、まさかオカルト三隈が結婚式場で働いてるとはなぁ。本当、予想外だわ」
後日、何処かで食事でもという誘いを断るに断れず、そして少しの好奇心を持って赴いた三隈は、酒が飲めないという満谷の車で家まで送って貰うつもりで終電を見送ったのだが、その帰り道で「心霊スポットに行ってみたい」と言った長嶋に振り回されることとなった。結婚式前の一番熱い時期であるせいか、満谷は長嶋の願いを叶えようと励む。それに、三隈はすっかり巻き込まれていた。
「うわ、暗ーい。懐中電灯使うと逆に暗さが目立つんだね」
「ほら、足元危ないからちゃんと掴まってろよ」
後ろから聞こえてくる声を聞くともなしに聞きながら、三隈は目の前の廃倉庫を見上げた。元は近隣の電気店が倉庫として使っていた建物だが、閉店と共に使われなくなって久しい。住宅街から少し離れた場所にあるせいで新しい借り手も居らず、長年放置されていた。持ち主が今何処で何をしているかは判らない。
「で、ここは何が出るわけ?」
満谷の問いに、三隈はじっくりと間を取ってから振り返り、薄く笑った。
「先に知ってしまったらつまらないだろ」
目を瞬いた満谷が、へっと笑う。
「うわー、お前が幽霊でしたってオチはないよな」
「まさか。というか、そうなるとお前達の結婚式の日取りも何も全くの白紙ということになるぞ」
三隈が肩をすくめると、長嶋が唇を尖らせた。
「えー、それは困るよぉ。もういいから、行こ。中に入れば判るんでしょ」
そう言って期待した瞳を三隈に向ける。
「ここは目撃例も多いからな。多分、見られる」
倉庫の前にはかつての残骸の他に、空き缶や煙草の吸殻が捨てられていた。落書きこそされていないが、建物前は随分と荒んでいた。三隈は僅かに眉を寄せてから倉庫の中に立ち入った。
倉庫の中は外の荒れ具合とは反して随分と綺麗だった。心霊スポットにしては、だが。
手前が事務所になっており、事務机の上に書類が残され、パーテーションの向こうには埃を被ったソファが見える。どれもこれも何世代か前の家財で、ここが忘れ去られた場所なのだということが嫌でも伝わってくる。
三隈は、湧いてくる高揚感に長い息を吐きながら口角を上げた。古い香り。終わりの香り。沈みゆく香り。……何かが、潜む香り。
「うわー、怖い」
その声に三隈は意識を引き戻された。入り口でもたついていた長嶋が、事務所に入ってきて辺りを怖々と見やる。
「埃くせぇ」
満谷が顔の前で手を振った。
「それで、何処に……あぁ、いや、〝先に知ったらつまらない〟んだったな。奥には何があんの?」
そう言って事務所から続く扉の先の暗闇を見やる。
「そっちが商品を置いてた倉庫。その先に作業室があるらしい」
「へぇ、じゃ、歩いてみるか」
歩き出そうとした満谷は、その場で立ちすくむ長嶋を見やった。
「大丈夫?」
「……うん、実際に来てみたらやっぱり怖いね。三隈君は、なんか嬉しそうだけど……」
三隈は口を引き結ぶと、誤魔化すように暗闇の先を指さした。
「行こうか」
倉庫の中は、事務所より広いせいか懐中電灯の光は自分達の周辺しか照らし出さなかった。用意周到とはいえ、物自体は安物の懐中電灯の力はその程度しかなかった。
シン、と静まり返る倉庫を歩く。
段ボールや台車が散乱していて、歩きにくい。今までにここを訪れた者達が騒いで荒らしたのだろう。三隈は心霊スポットを巡る動画のいくつかを思い浮かべ、その痕跡を発見すると忍び笑った。ちら、と後ろに気を向ければ、後ろの二人は三隈が笑っていることにも気が付かずに身を寄せ合っている。
三隈は、ふうと息を吐いた。
僅かに遣りづらい。同窓とはいえ、長いこと連絡を取り合うどころか存在すら忘れていた相手だ。かつ結婚を控えた恋人同士。疎外感が半端ない上に、笑っていることを指摘されるのも億劫だ。多少の好奇心を持ってノコノコと出てきた自分に三隈は後悔したが、しかし、実際に訪れた心霊スポットは素晴らしく、恐怖する者がいるのもそれらしくていいかもしれない、と思い直した。
その時、倉庫の反対側でコンッという音が鳴った。
三人の視線が一斉に暗闇の奥に向かう。息を潜め、耳を澄ませる。
コン、コッ……コンコン、コッ……。
「何の音……?」
長嶋が潜めた声で言った。三隈はシッと指を立て、より耳を澄ませた。
ガタンッ。
「ひゃあ!」
背後で聞こえた音に、長嶋が声を上げた。懐中電灯を取り落とし、光があちこちに跳ねて、ゆっくりと床を転がっていく。
足元で止まった懐中電灯を拾おうと手を伸ばした三隈は、光のその先に目を向け、手を止めた。
──脚だ。
奇妙な格好で動きを止めた三隈を不審そうに見つめていた長嶋と満谷は、その視線を追い、息を飲んだ。
血の気を失った白い脚が、懐中電灯の弱い光の中で佇んでいる。
ふくらはぎから上は、闇の中に溶けてしまったように存在しなかった。
ただ、脚が在る。
三隈は、ゆっくりと懐中電灯を取り上げ、脚が在った辺りを改めて照らし出した。そこには、今は何もなく、土埃の溜まった床があるだけだ。
埃を払った懐中電灯を差し出すと、呆然としたままそれを受け取った長嶋が、口をパクパクとさせながら暗闇を指さした。
「い、今の脚、なに……?」
三隈は、ちらと暗闇を見やってからひとつ頷いた。
「あれは、ここで一番目撃例が多い脚だ。何の前情報も無しに見たということは、本当に居るんだな、あの脚」
「ちょ……冷静過ぎんだろ」
満谷が顔を引きつらせて言った。長嶋は満谷の腕に縋りつき、震えている。
「……帰るか? 一応、霊現象は見たことだし」
そう三隈が訊くと、二人は顔を見合わせて、しかし首を横に振った。
「もう少し、見る。怖いけど……凄いよね?」
「な、幽霊なんて初めて見たし」
恐怖に昂った顔で二人が言う。三隈は、頷くと、倉庫の先を見た。
「奥の作業室に行こう」
事務所よりもこじんまりとした作業室には、工具が散らかっていた。この部屋も、ここを訪れた者達が面白半分に弄ったせいか荒れている。
「散らかってるね……」
満谷と組んだ方の手に懐中電灯を持ち替えた長嶋が、空いた手で机の上に放置されたドライバーに触れた。ドライバーはコロンと転がり、床に落ちる。沈黙の中に、嫌に高い音が響いた。
慌てて手を引っ込めた長嶋は、不安そうに胸の前で拳を握った。
バタンッ。
遠くの方で音がする。
なに、なに、と長嶋が声にならない声で口をパクパクとさせた。
三隈はじっと耳を澄ませ、薄く笑った。
「なんで、笑って──」
言い掛けた長嶋が、ハッと息を吸い、三隈の後ろに視線を釘付けた。その視線を追った満谷が、震える指で三隈の背後を指さす。
ゆっくりと振り返った三隈は、おや、と思った。
作業室の横にある裏の通用口が開いているのが、作業室の窓から見える。扉はこちら側に向かって開いていて、外を見ることは出来ない。
扉の影から、何かが覗いている。それはゆっくりと、まるで秒針のような動きで少しずつ扉の影から姿を現わしていく。
「あ、あれ、何だよ三隈ぃ」
上擦った声で満谷が訊く。三隈は、顎に手を当てじっと考えてから答えた。
「判らない。ああいうものが出るとは聞いたことがない」
「……は?」
そうやり取りするうちに、〝それ〟は扉に手を掛けた。
「じゃ、あ、じゃあ、お祓いとかなんかおまじないとか、何かないの。詳しいんだよね、三隈君」
長嶋が言葉を噛みながら捲し立てた。三隈はゆっくりと考えてから、〝それ〟に視線を釘付けたまま、首を振った。
「お前達は勘違いをしている。俺はこうした怖い話が好きなだけで、そこにお祓いだなんだという霊を撃退するような手段の話は含まれない。勿論、視える訳でもない」
たっぷりすぎる沈黙が落ちた。その間に〝それ〟は、扉に掛けた手を頼りに、肩口まで倉庫の中へ侵入してきていた。雨が降っている訳でもないのに、長い髪からは水が滴っている。窓を隔てているのに、ポタリポタリという音が耳を障った。
「え、視えない? じゃあ、アレは……?」
「判らない。視えない筈の者が視る場合、それは霊側の方が強くそれを──」
「ま、待って。今はそんなことどうでもいいよ。どうする、の。どうすればいいの」
長嶋の問いに、三隈は一歩扉へ退いた。
「駄目元で般若心経でも唱えよう。あとは──」
そう言って、目線を〝それ〟に釘付けながら、三隈は二人を作業室の外に追いやった。
「──走って逃げる。それしかない」
三隈は二人の背を押しながら事務所目掛けて走り出した。般若心経を呟きながら走る三隈を振り返った満谷が、「来てる、来てる!」と繰り返す。
肩口に振り返った三隈は、成る程、と思った。
扉の影から覗いていた〝それ〟は薄汚れた格好で、棚の影を、段ボールの隙間を、ただ何も言わずにこちらを向いて立っていた。暗闇の中でぼんやりとその姿が近付いて来ている。
満谷が強く手を引き先頭に追いやって背を押していた長嶋が、事務所を抜け、外に飛び出した所でぎゃあと悲鳴を上げた。一瞬の眩い灯りに目が眩む。
おい、と声を上げた満谷を押しのけ事務所に入って来た人影が、ちらとすれ違いざまに三隈を見てから開けっ放しだった事務所の扉を閉めた。バンという音を立てて扉に何かを叩きつける。
ううう、と呻いていた扉の向こうの〝それ〟は、次第に呻くのを止めた。事務所に沈黙が落ちる。ふいに空気が軽くなった気がした。
「遅かったな、稲田」
三隈の声に、人影が振り返る。
「遅くねぇって。見て判んだろ、こっちは仕事帰りに超特急で来てやったってのに! 何だよ、地図だけ貼って『ここに居るヘルプ』って」
額の汗をワイシャツで拭いながら、稲田卓也が言った。事務所の入り口で硬直している二人を見やり、三隈に向かって追い出すように手を振る。
「ひとまず此処出ようぜ。別にこの札はアレをどうにか出来るようなもんでもねぇみたいだし」
稲田は念を押すように扉に張り付けた札を擦った。
三隈が頷いて外へ出ると、長嶋と満谷が不安そうに三隈と稲田を見比べた。
「あ、俺、三隈の高校時代の同級生で、稲田っす。何でまたこんな所に来ようと思ったんですか、お二人さん?」
廃倉庫へと至る道に停めた車の方へ誘導しながら、稲田が訊いた。恐怖と戸惑いに上手く答えることの出来ない二人の代わりに三隈が事情を話すと、稲田は口を曲げて呆れた目を三隈に向けた。
満谷の車を前に、稲田はポケットから札を何枚か取り出した。
「本当は俺の車に乗ってって言いたいところだけど、もうここには来たくないだろうし、頑張って運転してね、満谷君。とりあえず一人一枚この札持って、あと──」
稲田は自身の車から塩の袋を取り出すと、中身を三人の背に投げ掛けた。次いで三隈に袋を渡し、自身の背中を指さす。
「あ、あの……稲田、さんは、除霊師さんとかですか?」
長嶋の問いに、ふはっと笑って稲田は手を振った。
「ないない。全然詳しくないもん、俺。札だってばあちゃんの友達の知り合いって人から貰ったものだし。というか、さっきも言ったけど、あの札だって霊的なものをなんとかするもんじゃないし、今は早いところ此処を離れた方が良いかも」
稲田の言葉に、長嶋と満谷が背筋を伸ばした。
「ほら、三隈は俺の車乗れ」
「あぁ」
三隈は慣れた様子で助手席に乗り込んだ。稲田が窓を開け、満谷に手を振る。
「満谷君、慎重に俺の後について来て。落ち着きたいだろうし、近くのファミレスにでも行きましょ」
満谷が手を上げ返したのを見てから、稲田は車を発進させた。
ルームミラーで満谷の車がついて来ているのを確認してから、稲田は溜息を吐いた。
「つか、何で心霊スポットなんかに居た訳。普段から『心霊スポットは気軽に立ち入る場所じゃない』云々言ってたくせに。不法侵入がなんちゃらーともさ」
三隈は窓の外を眺めながら、答えた。
「成り行きで。あとは、〝心霊スポットは気軽に立ち入る場所じゃない〟からだ」
「なら、止めろよ」
稲田のツッコミを、三隈は鼻で笑い飛ばす。
「いや、一度は痛い目を見ないと判らないだろうからな」
そう言った三隈の頭を、稲田の平手が叩いた。
「お前が言うな。何目線だよ。というか、お前の考えの方が怖ぇよ」
そう言って稲田が長い息を吐く。
「まぁ、ともかく無事で良かったわ。お前達が何を見たのかは判んねぇけど。マジであの呻き声怖かったわ、何だアレ」
「……あんなのが出るとは聞いたことがない」
神妙な顔で言った三隈を見やり、稲田は唇を噛んで眉間に皺を寄せた。
「それってさぁ……アレを見た奴らは皆死んでるってことじゃないの」
たっぷりの沈黙の後、三隈はゆっくりと稲田を見た。
「十分気を付けて運転しろよ」
「──俺は見てねぇもん。見てなかったらセーフだろ、多分」
後日、喫茶店でメロンソーダフロートを飲んでいた稲田が、そういえばと顔を上げた。
「貰っちゃった、招待状。なんかすげぇ可愛い招待状なの」
そう言ってスマートフォンを掲げて見せる。画面には手作りと思しき結婚式の招待状が映し出されていた。色紙で作られたうさぎが躍る。
「あぁ、長嶋さんは昔から手先が器用だったからな」
あの日以来、随分と時間が経つが、誰も死ぬどころか病気や怪我もせず、至って健康のまま時は過ぎていった。稲田の〝アレを見たら皆死ぬ〟説の可能性が暫くの間頭の片隅にあった三隈も、それについて考えるのを止めて久しい。
自身のスマートフォンに目を戻した三隈に、何見てんのぉと稲田が絡む。
「心霊スポット巡りのブログ」
三隈の手からスマートフォンを取り上げた稲田は、画面の字を追うと、うへぇと口を曲げた。
「本当に好きね、こういうの。怖いって」
「まぁな。そういうお前も怖い怖い言いながら、好きだろ」
三隈の手にスマートフォンを戻した稲田は、メロンソーダフロートのアイスクリームをストローで突いた。
「まぁ、ね。怖いけど。正直、この間の心霊スポットのことも思い出すだけで若干怖いまである。斗馬君にも聞いたけどさー、結構なのが出たみたいじゃん」
知らぬ間に距離を縮めていたことに内心驚きつつも、三隈は頷いた。
「楽しかったな。意外と実際に心霊スポットに行ってみるのもいいかもしれない」
頬杖を突いた稲田が、呆れたように眉を寄せた。
「それなら、自分を守る手段くらいは持っておいた方がいいんじゃないの。お経とかお札とか呪文とかさ。毎度走って逃げる訳にもいかないだろ」
顎に手を当て考え込んだ三隈は、首を傾げた。
「とりあえずこの間のアレに般若心経は効かなかった。まぁ、何かあったらお前を呼ぶからいいだろ」
その言葉に、稲田はブンブンと顔の前で手を振る。
「いや、何言ってんだよ。行かねぇよ」
三隈は聞こえない振りをして手元に目を落とした。幽霊とすれ違う橋か……。場所は少しばかり遠い。
「稲田、この橋まで車でどのくらい掛か──」
「行かないって!」
稲田は、テーブルの上に頭を伏せて首を振った。
「怖ぇって。嫌だって。お前も今までと変わらず家で動画見たりブログ読んで満足してろよ」
イヤイヤと首を振る稲田を見ながら、三隈は珈琲を飲んだ。
「まぁ、そうだな。その方が多く見られるし」
そうそう、と頷いた稲田は、はぁと息を吐いた。
「というか、いいなぁ結婚。俺もしたい」
「彼女とすればいいだろ」
「別れたよ、先々週」
「……そうか」
再び手元に視線を落とした三隈に、稲田は唇を尖らせた。しかし、すぐにニヤッと笑みを作った。
「いや、それにしても結婚式楽しみだなぁ。二人の晴れ舞台も楽しみだけど、お前の仕事姿も見られるしなぁ。超真面目に働いてるんでしょ、オカルト三隈」
プッと噴き出した稲田は、暫く小さな笑い声を立てた。
友人として招待したい、と長嶋と満谷から誘われていた三隈だったが、担当として当日は裏から二人を支えるのだと伝えると、二人は大げさに感動して見せた。心霊スポットでの体験は二人の間により強い愛を、三隈や稲田に対しては特別な友情を生じさせたようだった。
「お前の席だけ抹消しておくからな」
「いやいや、駄目でしょそれは」
ケーキも食べちゃおうかな、とメニューを引っ張り出した稲田を見やりながら、三隈は心霊スポットの香りを思い返し、そっと息を吐いた。