case5ー8.マリアの大冒険(1)
エレノアが退院した三日後のことである。
この日、マリアは夕飯の買い出しのため、一人で街に出かけていた。
普段は兄のミカエルと二人で買い出しをすることが多いのだが、もう二度とエレノアが危険にさらされないよう、事が落ち着くまで必ずどちらかが護衛として付いていようと、兄と約束したのだ。
もちろん姉本人には伝えていないが、勘の鋭いあの人は既に気づいているかもしれない。
「おじさま! このお肉をくださいな!」
「マリアちゃん、まいど! 今日はシチューかい?」
「ええ! お兄さまがとっておきを作ってくれるの!」
マリアが笑顔で可愛らしく答えると、肉屋の店主も「そうか、良かったなあ!」と上機嫌に笑った。マリアとミカエルは、商店街の人気者なのだ。
すると、店の奥から店主の妻が出てきた。
「マリアちゃん、良かったらこれどうぞ。ミカエルくんと一緒に」
差し出された二枚の紙を見て、マリアは金色の瞳をパッと輝かせる。それは、もうすぐ公演が始まる新作オペラのチケットだった。
十数年前までは、オペラは貴族のみが嗜むものだったらしい。しかし近年は、立ち見席や舞台から遠い安価な席なら庶民でも手が届くようになった。
今回の公演も、そのほとんどが貴族にしか買えないような高価な席だが、一部の席は庶民向けに安価に開放されるようだ。
実は以前、姉に『取引先からチケットを二枚もらったから、ミカエルとマリアの二人で行っておいで』と言われたのだが、どうせなら三人で行きたかったので断っていた。でも、これなら三人で行けるではないか。
しかも差し出されたチケットは、貴族向けの席の中でも、前方の特に高価な席である。確か姉がもらってきたチケットも同じ価格帯の席だったので、これは三人並んで間近でオペラを見られるチャンスだ。
そう思ったところで、マリアはハッとした。期待の目を隠し、申し訳無さそうに尋ねる。
「とっても嬉しいけれど、いいの? せっかく二枚あるんだから、二人で行けばいいじゃない」
「懇意にしてくださっている貴族の方にいただいたんだけど、ちょうどその日に休めない仕事が入ってしまってね」
頬に手を当て残念がる妻に、店主が言い聞かせるように言う。
「お前だけでも行ってこいって。楽しみにしてただろう?」
「でも……一枚だけ余るくらいなら、マリアちゃんとミカエルくんにあげたほうが……。それに高い席だから、ちゃんとした衣装を用意しなきゃ白い目で見られそうだし……やっぱりやめておくわ」
「お兄さまのチケットは家にあるから大丈夫! こんないい席、滅多に手に入らないから、少しでも行きたいなら行ったほうが良いわ! もしドレスコードが気になるなら、お姉さまにお願いしてドレスを貸してもらいましょう!!」
マリアが一生懸命説得すると、店主の妻はようやく決心が固まったようにひとつ頷いた。
「じゃあ、せっかくだし行こうかしら」
「ええ。それが良いと思う!」
そう言ってにこりと笑うマリアに、店主の妻は「背中を押してくれてありがとう」と言って一枚のチケットを差し出してくれた。
手を伸ばし、チケットを受け取ったその瞬間、マリアはハッと後ろを振り返った。
路地裏の方で、かすかな悲鳴が聞こえたのだ。
街の喧騒でかき消されてしまい、他の人たちは気づいていない。しかしマリアだけは、助けを呼ぶその声を聞き逃さなかった。
「おじさま、おばさま、ごめんなさい。急用ができたみたいなの。このお肉、預かっておいてくださる? お姉さまかお兄さまが来たら、『人助けに路地裏に行った』と伝えていただけると助かるわ。お願いね!」
「おい、マリアちゃん!?」
店主の制止を無視し、マリアは路地裏に向かって勢いよく走り出す。
悲鳴が聞こえた方向に近づいていくと、路地裏に入ったところで男たち数名の声が聞こえてきた。しかし、姿はまだ見えない。
足音を消しながら曲がり角まで進み、そこからそっと覗くと、口を塞がれた少女がちょうど荷馬車に押し込まれるところだった。
(お姉さまが言っていた、少女の連続誘拐事件!!)
マリアは少女を助け出そうと一歩踏み出したが、すぐにグッと思いとどまる。冷静さを失いすぐに行動に移すのはお前の悪い癖だと、姉からよく言われているのだ。
(きっと他にも被害者がいる。お姉さまならきっと、跡を追ってアジトごと潰すわ)
それに、この事件にはジョン・ラッセルが関わっている可能性があると、姉は言っていた。
(……それならなおさらね。奴は何があっても絶対に許さないわ)
ぎゅっと握りしめた拳に思わず力が入る。
姉が連れ去られたあの一件以来、マリアもミカエルも、大好きな姉を酷い目に遭わせた男を懲らしめたい気持ちでいっぱいなのだ。
マリアは結局、走り出した馬車を追いかけることに決めた。幸い相手は荷馬車で、速度がゆっくりなので、余裕でついていける。
追跡を続けながら、時折ナイフで道路に傷を付け、証跡を残しておいた。こうすれば、万が一の事があっても助けが来てくれるはずだ。
ちなみにマリアは、常日頃から護身用として拳銃やナイフを持ち歩いている。今日も十分な量の武器を持っているので、この後もし戦闘になっても、なんら問題ないだろう。
そして、荷馬車は一時間ほど走った後、ようやくその足を止めた。行き着いた先は、埠頭にある一棟の倉庫だ。
男たちは少女を荷馬車から下ろすと、バタバタと抵抗する彼女を担ぎ上げたまま倉庫に運んでいく。
扉が閉められ外に誰もいなくなってから、マリアは拳銃を片手にそっと倉庫に近づいた。耳をそばだてると、少女のすすり泣く声が聞こえてくる。それも一人ではない。少なくとも五人はいそうだ。
正面突破もいいが、中に敵が何人いるかわからない。少女たちが囚われている手前、あまり雑な真似はしない方が良さそうだ。




