case4ー3.面倒な人(2)
「グッ、ゲホッ」
隣で紅茶を飲んでいたアレンが盛大にむせた。フェリクスの後ろに控えているトーマスは、口を大きく開けたまま言葉を失っている。
かくいうエレノアも、皇太子の無茶苦茶な発言にしばらくの間固まった。
「……聞き間違いでしょうか。今、あり得ない話が聞こえた気がしたのですが」
「聞き間違いなどではない。俺はお前を妻に所望している」
その挑発的な瞳を、エレノアは軽く睨み返す。
目の前の男が何を考えているのか、さっぱりわからない。まさか本気で気に入ったわけでもあるまい。
すると、フェリクスはソファの背もたれに預けていた体を起こし、少し前のめりになった。
「お前のような有能な人材をこんなところに置いておくのは、この国にとって甚大なる損失だ。ぜひ皇太子妃になってくれるとありがたい」
「ご冗談でしょう? 私は爵位も持たない平民ですよ?」
「爵位などいくらでも与えられる。それにお前の経歴を考えれば、別に身分差などあってないようなものだろう」
「えっ?」
短く声を上げたのはアレンだ。彼はエレノアの過去を知らない。もちろん教えるつもりもなかった。
エレノアは額に手を当て、大きく溜息をつく。
「……殿下」
「おっと、すまない。口が滑ったな」
フェリクスは「しまった」というように口元に手を当てた。どうやらわざとではないようだ。
後で絶対にアレンに聞かれるだろうなと思うと、自然とまた溜息が漏れた。
「お断りします。むしろ私が受けると思ったのですか?」
「いいや、想定通りの反応だ。まあ、気長に口説き落とすとしよう」
上機嫌にそう言うフェリクスに、エレノアは心底げんなりした。
どこまで本気か知らないが、皇太子に付きまとわれるなんて嫌すぎる。面倒にもほどがあろう。
「そんな暇があるなら、さっさと新しい婚約者を探したらどうです?」
エレノアが呆れたようにそう言うと、フェリクスは喉の奥をクツクツと鳴らして笑った。
「お前のあけすけな話し方も良い。俺に物怖じせず、全く敬意が無いところもな」
「私が敬意を払う人間は片手ほどしかいません。残念ながら、あなたはその中に入っていない」
「ハハッ! そうか。ではその中に入れるよう努力しよう」
頼むからそんな努力はしないで欲しい。
そう思ったが、これ以上言葉を発するのも面倒で、盛大な溜息を返しておいた。
すると、ひとしきり笑い終えたフェリクスが、急に真面目な顔になる。そして、真剣な声音で問いただしてきた。
「なあ、エレノアよ。なぜ婚約破棄の代行という妙な仕事をしている?」
彼に先程までのふざけた様子はなく、少しだけ空気がピリついた。この問いは、この国を背負う者としての問いだろう。
ならばこちらも真面目に答える必要がありそうだ。そう思い、エレノアは居住まいを正した。
「ご安心ください。決してこの国を乱そうとしているわけではありません。私がこの仕事をしているのは、望まない結婚を強いられている若者を救うためです」
言葉の真偽を見極めようとしているのか、フェリクスはしばらくの間、エレノアをじっと見つめていた。
貴族同士の結婚は少なからず国内の力関係に影響を及ぼす。それを外部の人間が邪魔しようというのだから、彼が懸念するのも無理はない。
すると程なくして、フェリクスは表情を緩めた。どうやら許されたようだ。
「わかった。今はその答えで十分だ。長居して悪かったな。そろそろ帰るとしよう」
フェリクスが立ち上がったので、彼らを見送ろうとエレノアも立ち上がる。
すると彼は、応接室の扉の前で不意に振り向き、こんなことを尋ねてきた。
「そう言えばエレノア。お前、今の姓は何だ? 何と名乗っている?」
「私に姓はありません。エレノアという名前以外、全て捨てましたので」
素直にそう答えると、フェリクスはほんのわずかに目を見張った。
「……そうだったのか。もし不便があれば言え。家名を与えるくらい造作もない」
「お気遣い感謝いたします、殿下。ですが、私にはそのような大層なものは不要です」
姓がなくとも日常生活で困ることはあまりない。変装して別人として過ごす時間の方が長いからだ。
すると、フェリクスが口角を上げて言った。
「そうか。だが、名を捨てなかったのは良い判断だ。お前に似合う、良い名だからな。お前は美しく輝く光そのものだ」
裏社会に身を置いているのに、光とはいかがなものだろうか。どちらかと言えば闇そのものだ。
確かにエレノアには光という意味があるが、正直自分には似つかわしくない名だと思っていた。
「殿下。そういう口説き文句は本命の相手だけにしておかなければ、あとで自分の首を締めますよ?」
「己の妃にと望む女を口説いて何が悪い?」
フェリクスはニヤリと笑うと、エレノアに近づきその顎を摘んだ。そして、無理やり上を向かされる。
自然と紫の瞳と目が合ったので、エレノアはキッと睨みつけた。視線の先の彼は、大層上機嫌に笑っている。こちらの反応を楽しんでいる様子だ。
(本当に……面倒な人に目をつけられたものだ)
さっさと手を払おうとしたところ、先にフェリクスの腕を掴んだ男がいた。アレンだ。
「フェリクス殿下、ご無礼をお許しください。ですが、相手の許可なく触れるのは、少々不躾かと」
そう言うアレンは、珍しくやや怒ったように眉を顰めていた。
対するフェリクスは、驚いたように目を丸くしている。まさか男爵が皇太子に向かってそんな指摘をしてくるとは思わなかったのだろう。
そして、フェリクスが素直にエレノアから手を離すと、それと同時にアレンもフェリクスから手を離した。
「エレノア、不快にさせたなら悪かった」
「いえ、お気になさらず」
エレノアは内心ヒヤヒヤしながら二人のやり取りを見守っていたが、どうやらフェリクスは気にしていないらしい。彼が器の小さい男だったら、不敬罪でアレンの首が飛んでいただろう。
「……だが、お前たちはそういう関係だったんだな」
アレンの言動で、フェリクスが盛大な勘違いをしてしまったらしい。エレノアはすぐさま彼の言葉を否定する。
「違います。誤解なきよう」
「そうか。では俺がお前を口説いても何ら問題ないな」
フェリクスはフッと笑ってそう言うと、アレンに視線を向けた。
「それにしても、俺にそんな口を利く男爵はお前くらいだ、オーウェンズ卿」
「ははは……できれば不敬罪には問わないでいただきたく……」
苦笑しながら頭を掻いているアレンは、既にいつもの様子に戻っていた。
その後、フェリクス一行を見送ったエレノアは、渋い顔でアレンに小言を言った。
「全く、さっきは肝が冷えたぞ。本当に心配性だな、お前は。別にあれくらい大丈夫だ」
「でも、あまり気分の良いものではなかっただろう? 医者として放っておけなくてね。そんなことよりエレノア、さっきの話だけど――」
「昔話ならしないぞ。絶対にな」
何を聞かれるか察知したエレノアは、すかさず先手を取った。
アレンがエレノアの過去を知りたがるのには理由がある。それは、エレノアの不眠症の治療のためだ。
彼は、不眠の原因は精神的なもので、過去の出来事が関係しているのではないかと考えている。そして、不眠の根本治療のためにそれを知りたがっているのだ。
これまでにも何度か昔のことを聞かれたことがあったが、毎度黙秘権を行使していた。
すると、アレンは困ったように眉を下げる。
「まだダメかい?」
「ずっとダメだ」
「わかった。いつか話してもらえるように頑張るよ」
「頑張らなくていい」
仕事熱心なのは良いことだが、その熱意が自分に向けられると厄介なものである。
エレノアはアレンを見送った後、誰も来ない文具屋の店番をするのだった。




