case3ー11.皇太子の後悔
翌日。
エレノアは侍女のジェシカを引き連れ、皇城へと足を運んだ。目的はもちろん、皇太子フェリクスだ。
そして今、エレノアはオリヴィアとして、フェリクスの執務室で彼と対面していた。
最初は追い返されかけたが、急を要する案件だと言って無理を通して入れてもらったのだ。
「突然の訪問をお許し下さい、殿下」
オリヴィアに扮するエレノアが謝罪の言葉を述べるも、フェリクスはこちらを見ようともせず、ただひたすらに書類の山と向き合っていた。
フェリクスのそばには側近のトーマスも控えているが、彼も彼で忙しそうに書類のチェックをしている。
「一体何の用だ。こんな時に、よくここに来れたな」
フェリクスの声は鋭く冷たかった。
オリヴィアは、愛する男からずっとこんな扱いを受けてきたのだろうか。彼女を思うと、自然と怒りが込み上げてくる。
「ハッ。酷いお方だ。婚約者が会いに来たというのに一瞥もしないとは」
声は間違いなくオリヴィアのものだが、その発言内容は明らかに彼女のものではない。
そのことに驚いたフェリクスとトーマスは、一斉にこちらに視線を向けた。二人の表情には、困惑と警戒が滲んでいる。
「お前、誰だ?」
「文具屋の店主、と言えばわかりますでしょうか」
「……冗談を言え。だったらその姿は何だ。変装しているとでも言うのか?」
変装があまりにも精巧過ぎて信じられないのだろう。エレノアは仕方なく一度だけ声を元に戻した。
「ええ。しかしあいにく、ここで変装を解くことはできません」
「「…………!」」
エレノアの声に、フェリクスもトーマスも信じられないというように目を見張っていた。しかしフェリクスがすぐに眉根を寄せて問いただしてくる。
「何しに来た。なぜオリヴィアの姿をしている? 彼女に何かあったのか?」
フェリクスのアメジストのような美しい瞳が揺れている。声にもわずかに不安が混じっているように感じたが、その理由はわからなかった。
オリヴィアの話を聞いた限りでは、フェリクスが彼女を心配するとはあまり思えない。
「殿下。彼女は昨日、父親に毒を盛られ、今はとある病院で治療を受けています。意識は恐らくまだ戻っていません」
「なん……だと……?」
「それ以前に、彼女が父親によって軟禁されていたことはご存知でしたか?」
「……軟禁?」
フェリクスは終始ショックを受けたような表情をしていた。どうもその反応が引っかかる。まるでオリヴィアを大切に思っているかのようではないか。
エレノアは彼の反応を見るべく、あえて嘲笑を浮かべて煽った。
「ああ、殿下がご存知なはずありませんよね。あなたはオリヴィア嬢にこれっぽっちも興味がないんですから。『お前のことを愛することはない』と仰ったくらいには」
「それは……」
フェリクスは弁明の余地がないのか言葉に詰まっていた。その表情には、後悔のようなものが浮かんでいる。
やはり何かおかしい。もしかしたら、オリヴィアの認識に齟齬があるのかもしれない。あるいは、オリヴィアとフェリクスの間にすれ違いがあったか。
エレノアはそう思い、もう一歩踏み込んでみる。
「殿下。わざわざ裏の人間である私に婚約破棄の依頼を持ちかけたのは、最悪彼女を消してくれるのではないかと期待したからではありませんか? 依頼された時、手段は問わないと仰っていましたものね」
その発言に、とうとう側近のトーマスが怒り出した。彼は顔を真っ赤にしながら、エレノアに向かって怒鳴りつけてくる。
「無礼が過ぎるぞ、貴様! 殿下の事情も知らないで勝手なことばかり!」
「……少し黙っていろ、側近。次に口を挟めばこの部屋から叩き出すぞ」
うるさく大声を上げるトーマスに鋭い視線と殺気を送ると、彼は気圧されてグッと黙り込んだ。その間に、エレノアは執務机の前に座るフェリクスに近づきながら畳み掛ける。
「昨日、オリヴィア嬢は私の店に訪れ、あなたとの婚約破棄を依頼してきました。その時に彼女は言っていましたよ。自分は公爵令嬢の立場を捨ててもいいから、あなたのことを守ってくれと。本当はあなたと添い遂げたかったけれど、自分の気持ちよりあなたの命のほうがずっとずっと大事だと! 毒で倒れたときも、あなたを救ってくれと真っ先に言っていた!」
エレノアは声に怒気をはらませながら、そのままの勢いで執務机を強く叩いた。バンッと音が響いた後、続けざまに非難の言葉を浴びせる。
「自分を一途に愛し、命がけで救おうとしてくれた女に対して、あなたは死んでくれと望んだのですか!?」
そう言って鋭く睨みつけると、フェリクスの顔はみるみるうちに歪んでいった。その表情には、強い悔恨の念が滲んでいる。
そしてフェリクスはエレノアから視線を逸らし、机の上で組んでいた手に額を乗せて俯いた。
「お前は……ひとつ勘違いをしている。俺は、オリヴィアの死を願ったことなど一度もない」
絞り出したような彼の声は、ひどく掠れていた。
「オリヴィアに素っ気なくしていたのは、いずれアーレント公爵家と軋轢が生じるとわかっていたからだ。そうなれば、板挟みになって苦しむのは彼女だ。せめて彼女だけは巻き込まないよう、遠ざけたつもりだったのに」
(……全く、不器用な男だ)
フェリクスは昔から、アーレント公爵と政治方針の違いで反りが合わず、頻繁に衝突していた。もしかしたら彼は、店に来るよりもずっと前から、オリヴィアとの婚約を解消しようとしていたのかもしれない。彼女を争いに巻き込まないために。
エレノアはやれやれと溜息をつきながら言った。
「守り方を間違えましたね、殿下」
「……返す言葉もない。彼女のことは、妹のように思っていた。守れなかったのは俺の責任だ。本当に、すまないことをした」
「それは直接オリヴィア嬢に伝えてください」
その言葉にフェリクスはハッと顔を上げた。そして焦りを滲ませながら、早口で問いただしてくる。
「彼女は今どこにいる? 教えてくれ」
「今はお教えできません。彼女に会わせるのは、全てが片付いてからです」
「片付く……? まさか、アーレント公爵を捕らえるとでも言うのか?」
フェリクスはすぐにエレノアの意図を読み取ったようだ。
しかし、彼は怪訝そうに眉を顰めている。自分たちが総力を挙げて捕らえられなかったのに一体どうやって、とでも言いたげだ。
エレノアはアーレント公爵のことを思い浮かべる。実の娘をあっさり殺そうとした、あの外道のことを。
「殿下、私はね、自分の子供を道具としてしか見ていないクソみたいな親が、この世で一等我慢ならんのですよ」
エレノアの声も表情も、自然と冷たいものになっていた。
エレノアは、ああいう親に虐げられた子を救うために、この仕事をしている。
「あなたが取れる選択肢は二つ。自分を愛してくれた彼女をあのクソ親から救い出すか、そんな彼女を見捨てるクソ野郎になるかです。どうなさいますか?」
エレノアが静かにそう問いかけると、フェリクスは即答した。
「前者に決まっている」
彼の瞳には強い怒りが宿っていた。彼もアーレント公爵には内心腸が煮えくり返っているのだろう。己を殺そうとし、婚約者をも殺そうとしたのだから当然だ。
「良い返事です。さあ、殿下。いい加減、アーレント公爵と決着を付けましょう」
エレノアが勝ちを確信したようにそう言ったので、フェリクスは驚いた様子を見せていた。大人しく黙っていたトーマスも目を見張っている。
「何か策があるのか?」
「私は昨日から、オリヴィア嬢としてアーレント公爵家に潜入しています。昨晩、屋敷中を探し回りましたが、証拠が出てくる気配は全くありませんでした。恐らく過去の事件でアーレント公爵を立件するのは難しいでしょう」
皇帝が総力を挙げて調べさせてもダメ。
裏社会の支配者であるウェストゲート卿が調べ上げてもダメ。
内部に潜入して調べてもダメ。
今夜ブレデル侯爵家を調べるつもりはしているが、恐らく何も出てこないだろう。
過去の事件ではアーレント公爵を裁くのは無理だと判断し、エレノアは早々に別の作戦に切り替えるつもりをしていた。
「であれば、どうする?」
フェリクスに問われたエレノアは、目を眇めてニヤリと笑ってみせた。
「証拠がなければ作るまで。殿下には囮になっていただきます」
それからエレノアは、アーレント公爵を捕らえるための作戦を説明した。
作戦内容はフェリクスが少々危険に晒されるものだったため、側近のトーマスは渋い顔をしていたが、当のフェリクスは進んで囮役を引き受けてくれた。
諸々の話が終わった後、フェリクスは苦笑して言った。
「しかし、お前は本当に何者なんだ?」
「フフッ。おかしなことを仰いますね、殿下。あなたは私の正体をご存知なのでしょう?」
「俺が知っているのはごく一部のようだ。お前は本当に底が知れない」
どうやらフェリクスが知っているのはエレノアの素性だけで、どういう過去を持っているかまでは詳しく知らないらしい。
そんな彼に、エレノアはクスクスと笑い返す。
「私のような者の底など、知らないほうがよろしいですよ」
「秘密のある女は魅力的だな。いつかこの手で暴いてみたいものだ」
ニヤリと笑うフェリクスの瞳は、こちらを鋭く射抜いていた。初めて店を訪れたときと同じ、まるで面白い玩具を見つけたような目をしている。
これ以上興味を持たれては面倒なので、エレノアは早々に会話を切り上げた。
「それでは私はこれで。一週間後の生誕祭で会いましょう。そちらも首尾よくやってくださいね」
そう言い残し、エレノアは皇城を去るのだった。




