case3ー5.二人目の依頼人(2)
エレノアは悩んだ。
断ることは簡単だ。しかしここで断れば、オリヴィアが命がけで屋敷から抜け出してきた意味がなくなってしまう。それに、軟禁だけで済めばいいが、酷い折檻が待っていることもあり得る。
結局エレノアは、必死に救いを求めてきた彼女の手を振り払うことができなかった。
「わかりました。そのご依頼、お引き受けいたしましょう」
「本当ですか……!」
オリヴィアの瞳に確かな希望の光が灯った。フェリクスを救える道が開けたことが、余程嬉しいのだろう。
しかしエレノアは、すぐさま言葉を付け加える。
「ええ。ですが、ひとつ条件が」
「何でしょうか」
オリヴィアの表情がわずかに強張る。そんな彼女に、エレノアはひとつ息を吐いてから答えた。
「全力は尽くしますが、今の状況では、あなたの立場を守りつつ婚約破棄を成立させることは極めて難しいと考えております。最悪、父君の罪を暴くことによって婚約を白紙にする、という手段を取らせていただくかもしれません。それをお許しいただけるなら、お受けいたします」
「構いません。よろしくお願いいたします」
オリヴィアは即答した。
公爵令嬢という自らの地位を捨て去ってでも、父親を敵に回してでも、彼女は愛する男を守ろうとしている。彼女の覚悟と愛は相当なものだ。
であれば、やることはただひとつ。彼女の願いを、全力で叶えるだけだ。
エレノアは、オリヴィアに力強い視線を送った。
「お任せを」
「ありがとうございます」
オリヴィアはこの店に来て初めて、心からの笑顔を見せてくれた。ようやく安堵することができたのだろう。ずっと強張っていた肩から力が抜けている。
すると、控えていた侍女ジェシカが、オリヴィアに小声で耳打ちをした。
「お嬢様。首飾りが曲がっております」
「ああ、ありがとう、ジェシカ」
オリヴィアはそう言うと、首飾りに触れてその位置を直していた。
オリヴィアの首元には、彼女の瞳と同じ色をした、美しい大粒のエメラルドが輝いている。その周りにはダイヤモンドが散りばめられており、見るからに高そうだ。
「素敵な首飾りですね」
「ありがとうございます。十五の誕生日のお祝いに、殿下からいただいたもので。最近ずっと家に閉じ込められていたから、せっかくなのでつけて行きましょうって、ジェシカが提案してくれたのです」
オリヴィアは少し照れながらそう返すと、再びエメラルドにそっと手を触れた。その表情は、慈愛と恋慕に満ちている。
(お前を愛することはないと言っておきながら、贈り物はちゃんとするんだな)
その首飾りは、彼女のはっきりとした愛らしい顔立ちにとても良く似合っていた。適当に選んだものではなさそうだ。フェリクスが従者にでも選ばせたのかもしれない。
「オリヴィア様は、殿下のことを心から愛していらっしゃるのですね」
その言葉に、オリヴィアは顔を赤らめていた。そしてしばらく返事に困った様子を見せた後、にこりと照れ笑いを浮かべ潔くこう言った。
「はい。心よりお慕いしております」
なんとも可愛らしいお方だ。こんな素敵な女性を無下に扱うなど、フェリクスは見る目がない。
「それなのに、婚約をなかったことにしてもよろしいのですか?」
「本心を言えば、殿下と添い遂げたかったですわ。でも、わたくしの気持ちなどより、殿下の命の方がずっと大事ですから」
そう言うオリヴィアは、どこか寂しげだった。しかし別れの覚悟が決まっているからなのか、後悔のようなものは感じない。
すると彼女は沈黙を誤魔化すように、菓子に手を伸ばし頬張った。それから、紅茶を丁寧な所作で一口飲んだ、次の瞬間――。
あろうことか、オリヴィアが急に苦しみだした。
「ぐ……はっ……はぁ……」
彼女は片手で喉元を押さえ、苦しそうに呼吸している。腹が痛いのか、激しく顔を歪めてもう片方の手で腹部を押さえていた。
エレノアはすぐさま彼女の隣に行き、体を支える。
「どうされましたか、オリヴィア様!」
「お嬢様!?」
侍女のジェシカは叫び声を上げて、今にも倒れそうなほどに血の気を失っている。が、今は侍女にかまっている暇はない。
(呼吸困難、手足の震え、激しい腹痛――)
エレノアが素早く症状を確認していると、オリヴィアに突然腕を掴まれた。彼女は視点が定まっておらず、今にも意識を失いそうだ。しかしそんな状態にも関わらず、彼女は必死に声を絞り出した。
「お、ねが、い……で、んか、を……たす、けて……」
その時、ふわりと甘い果実のような香りがした。
(この香り、この症状、タリステアの根か!)
タリステアは植物の一種で、美しい桃色の花を咲かせるが、根は猛毒だ。一時間以内に解毒剤を打たなければ、確実に命を落とす。
「失礼っ」
エレノアは躊躇なく自らの指をオリヴィアの口の中に突っ込んだ。
「ゴホッ、オエッ」
まずは胃の中の物を全て吐き出させる必要がある。
エレノアはオリヴィアを吐かせながら、その場で大声で叫んだ。
「ミカエル、すぐに水を! マリアは大至急アレンを連れてきてくれ! タリステアの毒にやられた患者がいると!!」
すると、すぐに店の方から大声が返ってくる。
「わかったわ!!」
「すぐに持っていきます!!」
カランと店の扉が開き、マリアが出ていく音がした。それとほぼ同時に、ミカエルが店の裏に入り、大急ぎで二階の台所へ駆け上がっていく足音がする。
(間に合うか……)
アレンのいるオーウェンズ病院は、どんなに急いでもここから往復二十分はかかる。
もしアレンが病院にいなかったら。もし病院に解毒剤の在庫がなかったら。
最悪の未来が頭によぎりつつ、エレノアは今自分にできる最大限の処置を施そうとした。
「姉さま! 水です!」
「ありがとう」
ミカエルが持ってきてくれたグラスを受け取ると、エレノアはオリヴィアを片腕で抱き起こした。
「オリヴィア様。飲んでください」
「う……」
グラスを彼女の口に付けると、少しずつだが飲み始めてくれた。しかし、全く焦点が合っていない。そして案の定、水を飲み終わる頃には完全に意識を失ってしまった。
(意識のない状態で無理に吐かせるのは危険だな……本当は炭も飲ませたかったんだが、あいにく家に置いてない)
「姉さま、この後の処置はどうなさいますか?」
「吐瀉物が喉につまらないよう、左側を下にして寝かせる」
エレノアはオリヴィアの体をそっとソファに横たえさせた。そして、彼女の状態を確認していく。
(脈はある。呼吸は……弱いな。頼む、保ってくれ)
すでにオリヴィアの顔は死人のように真っ白になっている。先程まで可愛らしく頬を赤らめて笑っていたのに。
彼女の姿に心を痛めながら、エレノアは祈るような思いでアレンを待った。一分一秒が、永遠のように長く感じる。その間も、彼女の容態が急変しないか脈と呼吸の確認を続けた。




