case3ー3.嵐の来訪(3)
エレノアが放つ凄まじい殺気に、空気がビリリと揺れた。
側近のトーマスは反射的に腰に下げていた剣に手をかけ、今にも抜きそうになっている。その手は震え、額には脂汗が滲んでいた。明らかにエレノアを恐れている反応だ。
一方のフェリクスはというと、一瞬驚いたように目を見開いた後、顔を険しくしただけだった。エレノアが殺気を放てば大抵の人間は怯えるのだが、流石は数々の死線を潜り抜けてきただけのことはある。
「お前、一体何者だ?」
低く鋭い声でフェリクスが尋ねてきたので、エレノアは殺気を消し、微笑みを返した。
「おかしなことを仰いますね。先ほど私の正体を知っていると仰ったのは、殿下ではありませんか」
「なぜお前のような立場の者が、そこまで武を極めている? お前、相当強いな? それこそ、俺を殺せる程に」
「流石にこの距離で剣を抜かれれば、私とて無傷では済まないでしょう。あなたには剣で勝てる気がしません」
エレノアが下した評価に、フェリクスは眉間のシワを深くした。
「この距離で、ということは、離れていれば負けないということか?」
「そうですね。あなたには、剣より銃のほうが相性が良さそうです」
そう言ってにこりと笑うと、今度はフェリクスが耐えられないといったように吹き出した。
「ククッ。ハハハッ! 実に面白い女だ。こんなにイイ女なら、もっと早くに会いに来ればよかったな」
「で、殿下……?」
突然笑い出した主人に、トーマスは驚いて目を白黒させていた。エレノアもフェリクスの発言を不愉快に思い、わずかに眉根を寄せる。
「フェリクス殿下。私はこの依頼を受けるつもりはありません。どうかお帰りを」
「いいだろう。今日のところは帰るとしよう」
そう言うフェリクスは、依然として口元に笑みを浮かべている。なぜか上機嫌なのが気に食わない。
エレノアが軽く睨むも、彼は全く気にする様子もなく、アメジストのような美しい瞳でこちらを見つめていた。まるで面白い玩具でも見つけたような目だ。
(よりにもよって皇太子に目をつけられるとは、ツイてない)
エレノアは心の中で思いっきり舌打ちをすると、顔を顰めたまま立ち上がった。
「出口までご案内します」
そうしてフェリクスとトーマスを店の方まで連れて行った、ちょうどその時。店の扉がゆっくりと開いた。
姿を現したのは、医者のアレン・オーウェンズだ。
「こんにちは……って、あれ、ごめん。お客さんが来てたんだね」
普段は他の客とかち合うことなど滅多にないので、アレンも驚いたらしい。彼は申し訳なさそうに眉を下げて、一度出直そうか考えている様子だった。
「大丈夫。もう帰るところだ。応接室で待っていてくれ」
「わかった」
そう頷いたアレンの視線がフェリクスに移った瞬間、彼はハッと何かに気づいたように目を見開いた。そしてすぐにフェリクスに駆け寄り、心配そうに言葉をかける。
「あの、大丈夫ですか? 随分と具合が悪そうです。貧血ではありませんか?」
彼の言葉に、アレン以外の全員が驚いた。
エレノアの観察眼は並の人間より余程優れているが、それでもフェリクスの不調には気づけなかった。それほどまでに完璧に隠されていたのだ。全く気取らせないとは、相当な胆力だ。
先ほどフェリクスは、アーレント公爵家が自分の暗殺を画策していると言っていた。もしかしたら、毒の一つでも盛られたのかもしれない。
この国の希望である皇太子フェリクスが体調を崩しているという情報は、安易に外に漏らすべきではない。隠すのは当然と言えば当然だ。フェリクスとトーマスが驚いたのは、まさか体調不良がバレるとは思わなかったからだろう。
しかしアレンは、大抵の不調を見抜いてしまう。エレノアが初めて彼と出会った時も、見事に見抜かれてしまった。
「……お前、名は?」
フェリクスが驚き顔でアレンに尋ねた。
質問に質問が返ってきたので、アレンは少し面を食らっていたが、問いに答えるべくすぐに口を開く。
「僕は――」
「お客様」
アレンが答える前に、エレノアがそれを遮った。そして、フェリクスに鋭い視線を送る。
「お帰りを。こちらも予定が詰まっておりますので」
「……邪魔をした。また来る」
フェリクスは何か言いたげだったが、思いの外あっさりと帰っていった。
(できれば、もう二度と来ないで欲しいものだ)
エレノアはそう思いながら、フェリクスたちの背を見送った。
そしてアレンに向き直ると、彼も彼で何やら言いたげな表情をしていた。体調不良の人物をエレノアがさっさと帰してしまったことに、物申したいようだ。
しかしエレノアは、そんな彼に強く釘を刺す。
「アレン。さっきの人物には関わるな」
「でもあの人、かなり体調が悪そうだった。医者としては見過ごせない」
アレンは案の定食い下がってきた。むっと口を尖らせて、大層不満げな様子だ。
彼はとても仕事熱心な男である。具合の悪そうな人がいれば、それが貴族だろうが浮浪者だろうが、放っておけないタチなのだ。
「忘れろ。お前の妹にも危害が加わる可能性だってある。関わればきっと、ろくなことにならないぞ」
「意地悪なこと言うね」
アレンは眉を下げながらそう言った後、少しおどけた調子でこう返してきた。
「でもエレノア。僕に何かあったら、君が守ってくれるんだろう?」
確かに以前、そう言った事がある。オーウェンズ病院の院長室で、この男の妹セレーナと言い合っていた時のことだ。
珍しく揚げ足を取られたエレノアは、片手で額を押さえながら溜息をついた。
「それは……まあ、そうなんだが……。でも、自分から厄介事に突っ込んでいく必要はないだろう」
「たとえ厄介事だとしても、医者としてやっぱり無視できない。次にあの人に会ったら、僕はきっと治療をするよ」
いつも穏やかな彼の灰色の瞳は、珍しく強い光を帯びていた。
アレンは意外と頑固者で、自分の中でこうと決めたら絶対に曲げない。この瞳の時の彼は、もはやこちらが何を言っても聞かないのだ。
エレノアは彼への説得を諦めて、やれやれというように首を横に振った。
「わかった、わかった。お前の好きにしろ。その代わり、問題が起きそうになったらすぐに言え。お前に何かあったら、またお前の妹に叱られる」
「うん、わかったよ、エレノア。ありがとう」
そう言うアレンは、にこりと人好きのする笑顔を浮かべていた。そして、エレノアの診察と薬の補充を終えたら、すぐに帰っていった。
その後、程なくして双子が帰宅すると、二人は心配そうにエレノアに駆け寄ってきた。
「お姉さま、怪我はない!?」
「揉め事は起きませんでしたか!?」
この様子からすると、どうやら買い出し中もずっと不安でいっぱいだったようだ。少し申し訳ないことをしてしまったが、あの場に二人は居ないほうが良かっただろう。
「ああ。大丈夫だよ」
エレノアが諸々の事情を説明すると、双子はようやく安心できたのか、ホッとした様子を見せていた。
そしてエレノアは、夕飯にミカエル特製ビーフシチューを堪能し、皇太子来訪に伴う気疲れを癒やしたのだった。
* * *
翌日。
店には麗しき一人の令嬢が訪れていた。
「ごきげんよう。あなたがこの店の主の方でしょうか?」
少女の声は、カナリアの歌声のように美しかった。
長く艷やかなストロベリーブロンドの髪。エメラルドのように輝く、丸くて大きな緑の瞳。まるで物語に出てくるお姫様のように愛らしい顔立ち。
気品ある振る舞いは、彼女が高位貴族であることを如実に表していた。
「左様でございます、お客様。店主のエレノアと申します。本日はどういったご要件でしょうか」
エレノアがそう尋ねると、彼女は美しい所作で一礼した。
「わたくし、アーレント公爵家のオリヴィアと申します。本日はあなたに、婚約破棄の代行を依頼したく伺いました」
訪れたのは、皇太子フェリクスが婚約を解消したい、まさにその人だった。




