case3ー2.嵐の来訪(2)
フェリクス・ヘイスティングス。
現皇帝の第一子で、皇太子の男。年齢は二十一歳。
眉目秀麗、頭脳明晰、おまけに剣の腕は国内随一。その実力は、一人で一個小隊を余裕で全滅させる程だという。
戦争では弱冠十四歳で初陣を飾り、これまでに数々の功績を収めている。オルガルム帝国がここ数年でさらに領土を拡大したのは、彼のおかげだと言っていいだろう。戦場に出れば負け知らずの、まさに戦神だ。
フェリクスの一番の功績は、三年ほど前に起きた、隣国ベルガー王国との戦争である。知将としても知られる彼は、その戦略により、敵に一切気づかれることなくベルガー王国の中心部にまでたどり着き、見事、無血開城を成し遂げたのだ。
おかげで両国とも人的被害は最小限で済み、オルガルム帝国はベルガー王国の領土を民ごと飲み込んだ。元々悪政に困り果てていたベルガー王国の民は、オルガルム帝国に吸収されてからのほうが豊かな生活を送れているそうだ。
そして、戦もさることながら、政治手腕も見事なもので、彼が次期皇帝になるのならこの国は安泰だと言われている。
「貴方様はこの国の至宝ですから。後ろの方は存じ上げませんが」
「こいつは俺の側近のトーマス・ウィリアムズだ」
フェリクスはそう答えると、さっさと要件を伝えてきた。
「お前に頼みたいことはただひとつ。アーレント公爵家長女、オリヴィアとの婚約を解消できるよう動いて欲しい。手段は問わない」
アーレント公爵家は、この国の五大公爵家のうちのひとつだ。
いくら皇族とはいえ、その娘との婚約を蔑ろにすることはできないのだろう。アーレント公爵家との関係悪化を避けたいがために、彼は婚約を一方的に破棄するのではなく、双方合意の元で解消したいようだ。
現在オリヴィアは十五歳。来年には結婚できる年齢になってしまうので、早々に何とかしたいらしい。
「婚約を解消したい理由を伺っても?」
「お前に言う必要はない」
尊大な態度で素っ気なく即答してくるフェリクスに、エレノアは大きな溜息を返した。
「それでは依頼の受けようがございません。理由次第で作戦も大きく変わってきますので」
フェリクスは顰め面で思いっきり舌打ちをし、しばらくどう言葉を返すか逡巡していた。そしてようやく口を開いたかと思ったら、衝撃の事実を告げられる。
「アーレント公爵家が俺の暗殺を画策している。それだけ言えば十分だろう」
流石のエレノアも、この事実には眉を跳ね上げた。これは思った以上に厄介な話だ。
先ほどフェリクスが「手段を問わない」と言っていたのは、最悪オリヴィアの命を奪うことも厭わない、という意味なのかもしれない。
オリヴィアが暗殺されれば、当たり前だが婚約の話は無くなる。フェリクスが責められることもなく、表面上は公爵家との関係を保てるだろう。
(わざわざ裏の人間である私に頼んできたのは……何か問題が発生した時に、全ての罪を私に擦り付けるつもりだからか)
娘が次期皇帝に嫁ぐというのに、フェリクスの命を狙うアーレント公爵家の目的がわからないが、これ以上首を突っ込むのはリスクが高い。
「謹んで、お断りいたします」
「断れる立場だとでも?」
フェリクスは鋭い眼光でこちらを睨みつけてきた。
彼の瞳には、全ての人間を黙らせる凄みがある。二十一歳とは思えない風格だ。並の臣下であれば震え上がっているところだろう。
しかし、エレノアは全く動じず、穏やかに返した。
「そんな言葉では、私は動きませんよ」
すると、後ろに控えていたトーマスが不快そうに眉を顰めた。一貫して皇太子への敬意が感じられないエレノアのことが気に食わないようだ。
一方のフェリクスは、目を眇めながらニヤリと笑った。
「いいのか? 俺はお前の正体を知っている。それがバレたら、困るのはお前ではないか?」
その返しに、エレノアは思わず目を見開いた。
自分の正体を知られていたことに驚いたのもあるが、それだけではない。よりにもよってこの男が、よりにもよってこの私にそんな事を言って脅してくるのが、あまりにも可笑しいのだ。
じわじわと笑いが込み上げてきて、エレノアはとうとう吹き出してしまった。
「クッ。ハハッ。アハハッ! アハハハハッ!!」
「おい! いい加減にしろ! 不敬だぞ!」
とうとうトーマスの怒りが沸点を越えたようで、こめかみに青筋を浮かべながら大声で怒鳴った。フェリクスも突然笑い出したエレノアに、怪訝そうな表情を向けている。
しかしエレノアはしばらくの間、笑いが止まらなかった。まるで皮肉の効いた喜劇を鑑賞しているかのように面白い。こんなに笑ったのは久しぶりだ。
そしてようやく笑いを収めると、目に浮かんだ涙を指で拭いながら言った。
「いや失礼。でもまさか、そんなことで私を脅せると思っているなんて。それも、よりにもよって、あなたが」
その言葉に、フェリクスもトーマスも眉根を寄せた。どうやら何を言われているのか、完全には理解できていないようだ。
エレノアは冷ややかな笑みを浮かべて、言葉を付け足した。
「私を責められる人間などこの世にもう存在しないことは、あなたが一番よくご存知のはずでしょう? ねえ、フェリクス殿下」
二人はようやく言葉の意味を理解したのか、苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
そして、トーマスが忌々しげに吐き捨てるように言う。
「お前がそう仕向けたんだろう……! この、売国奴が……!」
「酷い言い草だ。それで莫大な利益を得たのはあなた方のほうでしょうに」
エレノアはトーマスの蔑みの言葉を意にも介さず、嘲笑を浮かべながらそう言った。
彼らがどこまでこちらの過去を知っているかは知らないが、そんなことは正直どうでもいい。
「別に私の正体をバラしていただいても構いませんよ。この国から出て行くだけなので」
エレノアがこの国に移住して来たのは、全てミカエルとマリアのためだ。
大国オルガルム帝国は治安も安定しており、他国からの侵略を受ける可能性も低い。双子が長年住み続けるには適した場所だと判断したから居るだけだ。
別に絶対にこの国でなければならないという、強いこだわりはない。居づらくなったら出ていくまでだ。
(しかし、なるほど。私に依頼してきたのは、問題が起きたら店ごと私を潰すつもりだからか。彼の立場から考えれば、そうするのも頷ける。彼にとっては私の存在は確かに邪魔だろう)
エレノアがそんなことを考えていると、フェリクスはニヤリと片側の口角を上げながら言った。
「そうか。お前が断ると言うのなら仕方ない。先程いた、あの双子に依頼することにしよう。彼らもこの店の者なのだろう?」
その瞬間、エレノアの心がざわりと大きく揺れた。怒りで頭に血が上る。
しかし、その怒りの波をすぐに押し込め、また凪を取り戻す。冷静さを欠いては、何事も仕損じる。
エレノアはひとつ小さく息を吐くと、フェリクスに向かって強い殺気を放った。
「あの子達を引き合いに出すなら、私はあなたと戦争をしなければならなくなります、殿下」




