case3.プロローグ
「トーマス。あの件は、例の文具屋に任せることにする」
大国オルガルム帝国の皇太子、フェリクス・ヘイスティングスは、自らの側近に向かってそう言った。
ここは皇城にあるフェリクスの執務室だ。こうして会話をしている間も、フェリクスは机に山積みになっている大量の書類を黙々と片付けていく。
「フェリクス殿下、本気ですか!?」
側近であるトーマス・ウィリアムズの大声が頭に響き、フェリクスは思わず顔を顰めた。
トーマスは熱くなると、よく声が大きくなる。普段は慣れているので気にならないのだが、今やたらとうるさく聞こえるのは、ここしばらく体調が優れないせいだ。
「少し声を抑えてくれ」
フェリクスが一瞥もせず窘めると、トーマスはハッとしたように声を絞る。
「も、申し訳ございません。しかし、あのような女に依頼をするなど……! どうかお考え直しを」
「もう決めたことだ。とやかく言うな」
「ですが……!」
なおも食い下がってくるトーマスに、フェリクスは溜息をついて一度ペンを置いた。
机に頬杖を付き、何気なく窓の外を見遣る。空は晴れ渡っており、この季節にしては温かな陽光が降り注いでいた。どうやら春が近づいて来ているようだ。
しかし、その穏やかな天候とは裏腹に、フェリクスの心は沈んでいる。
「ようやくノスキアの内紛が終わったというのに、問題は次から次へと降って湧いてくる。困ったものだ」
ここ数ヶ月の間、皇城の役人たちは、隣国ノスキアから流れてきた難民の対応に追われていた。内紛終結と共にやっと落ち着いたと思った矢先、まさかあのような事件に巻き込まれるとは。
フェリクスが現状を憂いていると、トーマスが心配と不安の入り混じった表情で言葉をかけてくる。
「フェリクス殿下、まだ本調子ではないのですから、少しお休みになってください。改めて調査部隊を編成し、すぐに証拠を挙げますので。どうか、もうしばらくのご辛抱を」
「そうやって何度失敗した? 相手はかなり用心深い。並の諜報員では歯が立たん」
フェリクスは窓の外から視線を戻し、トーマスを見据える。
「そんな事をするよりも、さっさとオリヴィアとの婚約を解消して、別の女と結婚してしまった方が早い。世継ぎが生まれてしまえば、こっちのものだ」
「それは……そうかも知れませんが……」
オリヴィアはアーレント公爵家の長女であり、フェリクスの婚約者である女だ。
とある事情から彼女との婚約を解消したいのだが、アーレント家は五大公爵家に名を連ねる名門貴族であり、皇族とも付き合いが古い一族だ。話はそう簡単ではなく、こちらから一方的に破棄することは難しい状況だった。
だから、例の文具屋を頼ることにした。
銀の鋏――。
最近、若い令息令嬢の間で、まことしやかに噂されている店だ。
表向きはただの文具屋だが、裏では婚約破棄代行業を営んでおり、ここ一年ほどで何組もの婚約を破棄、あるいは解消させたという。
噂を知る者の中には、あの店を危険視している人間もいる。貴族同士の結婚は、それだけで国内のパワーバランスに影響をもたらすものだ。婚約破棄の代行などという行いは、そのバランスを崩しかねないものだった。
かくいうフェリクス自身も、文具屋を危険視する人間のひとりだ。貴族間の婚姻に介入する存在を看過できないのももちろんだが、何より、店主の目的がわからない。
噂によると、依頼の代金は少額であることがほとんどで、金儲けのためでないのは明らかだった。過去の仕事内容を調べてみても、国内のパワーバランスを意図的に崩そうとしているようにも見えなかった。
それならなぜ、婚約破棄の代行などを生業としているのか。店主の思惑が全く読めないのが、とても不気味で、気持ち悪くて仕方がなかった。
だからこそ今回、その文具屋を頼ることにしたのだ。
そしてフェリクスは、目を眇めてトーマスに言う。
「それに後ろ暗い事をさせるなら、裏の人間の方が適している。そうだろう?」
もし何か問題が起きれば、全ての罪を擦り付けて店ごと消せばいい。それがあの女店主――エレノアなら、なおさら好都合だ。




