case2ー2.怒れる依頼人
「僕はもう、許せなくて!」
エレノアの向かいに座っている青年は、声を荒げてそう言った。
この青年はローリー・ヘンストリッジ。今回の依頼人である。
彼はヘンストリッジ子爵家の長男で、自身の婚約について不満があり、こうして文具屋「銀の鋏」を訪ねてきたのだ。
依頼内容はこうだ。
ローリーはマイソン子爵家の長女アニーと婚約を結んでいた。
幼い頃から共に過ごし愛を育んできた二人だったが、三ヶ月後に結婚を控えた今になって、彼女の父親がこの婚約をアニーではなく、双子の妹のイリスに差し替えると申し出てきたのだ。
マイソン子爵家はここ数年で急速に力を伸ばしており、ローリーの両親はあまり強く出られる立場になかった。そもそも彼の両親からすれば、マイソン子爵家と縁を結ぶこと自体に価値があるので、自分の息子が双子のどちらと結婚するかなど、大した問題ではなかった。
そういう事情が重なり、結局ローリーは妹のイリスと婚約を結び直すことになってしまったのだ。
アニーのことを愛しているローリーは、彼女と再び婚約することを望んでいる。
「別にイリスが嫌いというわけではないんです。彼女もとてもいい子だ。でも、僕が愛しているのはアニーなんです。それなのに、今さら……」
そう言ってローリーは、悔しそうに拳を強く握りしめて俯いた。
三ヶ月後には愛する女と結婚できるはずだったのだ。彼の怒りや悔しさは相当なものだろう。
「結婚相手が急に変更になった理由について、何か心当たりはございませんか?」
エレノアがそう問うと、下を向いていたローリーは顔を跳ね上げて答えた。
「あります! それは、アニーがイリスを助けたことに起因します」
それから彼は、双子の姉妹にまつわるエピソードを話してくれた。
今から半年ほど前までは、妹のイリスにも婚約者がいたそうだ。その男は伯爵家の長男だったが、傍若無人で素行が悪く、さらには女に手を上げる、それはそれは評判の悪い男だったらしい。
マイソン子爵は伯爵家との繋がりを作るため、今から三年前、イリスが十三歳の頃にその男との婚約を取り付けた。しかし、二人の関係は案の定うまくいかなかった。
婚約者と会うたびに嫌味や叱責を浴びていたイリスは、その男との婚約を嘆き、毎日のように泣いていたそうだ。
一方、姉のアニーは、父の出世のために売られたも同然の妹が不憫でならず、何とかして救おうと画策していた。
しかし、ただの子爵家の令嬢が伯爵家との婚約を取りやめさせるなど、そう簡単にできることではない。しばらくは歯がゆい日々を送っていたそうだ。
そして、一年ほど前に好機が訪れた。アニーがイリスの婚約者と同じ学校に通うようになったのだ。
その男は学校でもかなりの問題児だったようだが、何か問題を起こすたびに親の力で揉み消していたらしい。そこでアニーはその男が起こした事件をすべて調べ上げ、証拠を集めて生徒たちの前で断罪した。
そしてアニーは妹の婚約者にこう言ったそうだ。「妹を虐める限り、私はあなたの罪を暴き続ける」と。
結果、その男は公爵家や侯爵家の子息令嬢から叱責を浴びせられ、それ以降すっかり大人しくなったという。
その後、マイソン子爵家の双子に嫌気が差した男は、半年前に妹イリスとの婚約を破棄すると申し出た。そうしてイリスは、晴れて最低な婚約者から解放されたのだ。
そこでめでたし、めでたし、といけばよかったのだが、そうはならなかった。
せっかくの伯爵家との縁談を白紙にされてしまったマイソン子爵は、婚約が破棄されるようけしかけたアニーに大激怒したのだ。
子爵はアニーを手ひどく折檻し、彼女に使用人まがいの事をさせるようになった。そして、アニーは自室を取り上げられ、物置部屋で生活させられるようになった。朝から晩まで働かされ、食事もろくに与えてもらえない。その上、暴力も振るわれ、虐待まがいの扱いを受けていたらしい。
自分のせいで姉がひどい目に遭っていると胸を痛めたイリスは、父親に何度も姉の待遇改善を求めた。しかし、そのたびにイリスは父親からぶたれていたようだ。
アニーの虐待が始まってから、ローリーは何度もマイソン子爵邸を訪れているが、何かと理由をつけられ一度も彼女に会わせてもらえていないという。
そして最近になって、マイソン子爵はとうとうアニーの婚約者であるローリーを、妹イリスに充てがった。アニーとローリーの二人が愛し合っているとわかっていながら。
要は娘への罰――いや、趣味の悪い嫌がらせである。
話を聞き終えたエレノアは、マイソン子爵のクズっぷりに思わず深い溜息を漏らした。
「マイソン子爵は昔からそんな調子なのですか?」
「はい。アニーたちが幼い頃は、母親が二人を守っていました。でも、彼女たちがまだ七歳の頃に他界してしまって……。それからは、アニーとイリスは二人で力を合わせて耐え忍んでいたようでした。これは全て使用人から聞いた話です。僕と会う時、彼女はいつも平気そうに振る舞うから……」
ローリーの表情はどこか寂しげだった。アニーに頼ってもらえないのが悲しいのかもしれない。
しかし、アニーの判断は正しかっただろう。下手にローリーが首を突っ込めば、余計に拗れていた可能性が高い。
「使用人たちの二人への態度は?」
「皆、マイソン子爵に思うところはあったようですが、多くの使用人は子爵に怯えて、表立っては彼女たちを守れなかったようです。唯一、昔から仕えている家令の男だけが二人の味方でした。最近はアニーの怪我がひどくて、家令がこっそり病院に連れて行っていると聞いています」
そこまで言うと、ローリーはまた怒りに火がついたようで、顔を歪ませながら語気を強めた。
「マイソン子爵は金のことしか頭にないんです! 実の子だというのに、アニーやイリスのことを出世の道具としか思っていない! 彼女たちを散々ひどい目に遭わせて、信じられない親だ!」
ほとんど怒鳴りながら一息にそう言ったローリーは、自分を落ち着かせるように何度か深呼吸を続けていた。そして、少し冷静になったのか、今度は悔しそうに拳を握りしめながら言葉を漏らす。
「……でも、彼女たちが困っているのに何もできない自分に、一番腹が立つ」
幼い頃からアニーやイリスの苦労を間近で見てきたローリーは、彼女たちに何もしてやれない自分の事が不甲斐なくて仕方がないのだろう。アニーと結婚できれば守りようもあったろうが、それも今は叶わなくなってしまった。
妹のイリスと結婚したとしても、アニーの今の扱いを考えると、彼女をマイソン子爵家から救い出すのはなかなかに難しそうだ。であれば、ローリーはやはりアニーと結婚し、その上でイリスにまともな婚約者を充てがう、というのが一番丸く収まる気がする。
「アニーから手紙を受け取ったんです。『私のことは忘れて、イリスを幸せにしてあげて』って……。アニーはあの家で耐え忍ぶつもりなんです……たったひとりで……」
ローリーは声を震わせながら話していたが、最後の方はほとんど泣いていた。
「す……すみませ……泣くつもりは……」
目を赤くして震えるローリーに、エレノアは無言でハンカチを手渡す。
親は頼りにならず、かといって他に頼れる人もいない彼は、ようやくここで全ての思いを吐き出せたのだろう。泣くなという方が無理がある。
そして、アニーはとても強い少女だ。愛する婚約者を奪われてもなお、他者を思いやり、自分よりも妹の幸福を優先した。そうそうできることではない。
「事情はわかりました。そのご依頼、お受けいたしましょう」
エレノアがそう答えると、ローリーは深々と頭を下げてきた。
「ありがとうございます……! もう、あなた方に縋るしかないんです。僕には何の力もないから……」
「そんなことはありませんよ、ローリー卿。あなたにはこの店に来る勇気があった。それこそが、二人を救う力なのですよ」
その言葉を聞いたローリーは、頭を上げてわずかに微笑んだ。彼の瞳にはもう、涙は浮かんでいなかった。
そしてローリーは少額の前金を払った後、店を去っていった。
* * *
翌朝。
エレノアは日が昇る頃に目を覚ました。
窓の外を見ると、今日も空は厚い雲に覆われている。ここ数日は曇天続きで、街は厳しい寒さに見舞われていた。数十年に一度の寒波が到来しているらしい。
そんな今日は、ローリーの依頼をこなすため、双子と手分けして情報収集をする予定だ。
質の良い羽織を肩にかけてから、エレノアは台所へと向かう。店の二階は居住スペースになっており、エレノアと双子の部屋に加え、居間や台所、風呂場などがある。
台所を覗くと、双子の兄妹が朝食の準備をしているところだった。エレノアに気づいた二人が、元気よく挨拶をしてくる。
「おはようございます、姉さま」
「おはよう! お姉さま!」
「おはよう、ミカエル、マリア。今日も食事の用意をありがとう。新聞取ってくる」
家事は分担して行っているが、食事は基本的に二人が準備してくれている。
エレノアが料理下手というわけではない。作ろうと思えば、王宮で出されるようなコース料理から庶民向けの大衆料理まで、何でも作ることができる。
ただ、致命的に食に無頓着なのだ。
胃が満たされれば何でもよく、双子を拾うまでは軍の携帯食かと思われるような物しか食べていなかった。その結果、見かねた二人から「食事は任せて」と言われてしまったのである。
一階に降りて店の入口から外に出ると、冷えた空気が肺に流れ込んできた。
「今日はまた一段と寒いな」
エレノアはぶるりと体を震わせると、新聞を取ってさっさと中に戻った。そして台所に向かいがてら、興味を引く記事がないかと新聞に視線を落とした時、エレノアは思わずその場で立ち止まった。
「は?」
朝刊の一面を見て、一瞬自分の目を疑った。もう一度落ち着いて記事に目を通すと、その内容に自然と顔が険しくなってしまう。
「……なんてことだ」
エレノアは急いで台所に戻ると、ちょうど朝食の用意を終えた双子に声をかけた。
「二人とも、今日の仕事は中止だ」
予想外の言葉だったのだろう。マリアもミカエルも心底驚いた様子でこちらを振り向いた。
「えっ!? どうして!?」
「何かあったんですか?」
「ああ。これを」
エレノアがダイニングテーブルの上に新聞を広げると、二人ともすぐさま寄ってきた。そして新聞の見出しを目にした途端、二人は口を揃えて驚きの声を上げた。
「「……マイソン子爵家の屋敷が、全焼!?」」




