case1ー8.埠頭にて(1)
アメリが埠頭に向かうために家を出る、少し前のこと。
レイクロフト伯爵家に潜入していたエレノアは、従僕のリチャードを気絶させ屋敷に隠し、何食わぬ顔で彼になりすました。
その後アメリと共にこの埠頭へと訪れ、事が起こるギリギリのところまで完璧なリチャードを演じ続けた。
そして、アメリがキャサリンに刃を突き立てようとしたその時、天に向かって発砲し、彼女の凶行を止めたのだ。
「あなた……何者なの……?」
リチャードの皮を剥いだエレノアを見て、アメリは驚いたように声を上げた。
幼い頃から共に過ごしてきたリチャードを見間違えるだなんて、夢にも思わなかったのだろう。その顔には驚愕と共に、強い警戒の念が滲んでいる。
そして、周囲の男たちもジリジリと警戒した様子でエレノアを取り囲んだ。ガタイの良い男たちの手には銃や剣が握られている。
そんな彼らを相手にすることなく、エレノアはアメリに向かって微笑みを返す。
「私はただのしがない文具屋の店主ですよ」
「ならどうしてここにいるの!? 目的は何!?」
アメリは怒ったように眉根を寄せて睨みつけてきた。
一方、彼女のそばに転がっているキャサリンは、何が起きているのかわからないというように呆然と口を開けている。こめかみから血が流れているが、意識ははっきりとしているようだ。
「あなたに初めてお会いした時、とても興味深い方だと思ったので、つい色々と調べてしまいまして」
「は……?」
アメリはエレノアの答えとも言えない回答に激しく眉を顰めていた。そんな彼女を、エレノアは目を眇めて見遣る。
「店に訪れたあなたは、随分とお綺麗でしたね。肌艶も良く髪も整っていて、目には泣き腫らした跡すらなかった。愛する婚約者を奪われた女には、到底見えなかったのですよ」
「……だから何?」
キャサリンの近くでしゃがんでいたアメリは、立ち上がってエレノアの方へと向き直ってきた。
彼女の瞳には鋭さが宿っており、店で会った時の控えめでか弱い乙女の面影は全く見当たらない。
「違和感はそれだけではありませんでした。あなたが我々の店を訪れたのは、婚約破棄されてからたった三日後。それもおかしい。まるで婚約を破棄される事が最初からわかっていたようではありませんか? あなたは婚約破棄されたらすぐさま店に行こうと、あらかじめ計画していましたね?」
エレノアがそう問いただすと、アメリはキッと眉を吊り上げた。そして、キャサリンを指さしながら反論してくる。
「ウィラード様がこの女に懸想していたのはもちろん知っていたわ。でも子爵令嬢との結婚なんて、彼のご両親が許すはずないもの。それなのに婚約を破棄されるなんて、予想できるはずがないでしょう?」
「本当にそうでしょうか」
エレノアはアメリの反論を真っ向から否定すべく続ける。
「あなたのご学友に話を伺ったところ、ウィラード卿のキャサリン嬢への陶酔っぷりに、周囲の生徒たちでさえ彼があなたに婚約破棄を突きつけるのではないかと思っていたそうです。そんな状況であるのに、聡明なあなたが予想できないはずがない」
エレノアが自分の学友と接触していたことに驚いたのか、アメリは少しばかり目を見張っていた。しかし彼女はすぐに小さく溜息をつく。
「仮に予想できたとして、婚約破棄されてすぐにあなたの店に行ったのは、婚約破棄代行業の噂を事前に知ってたからよ」
アメリの瞳に動揺は見受けられず、しっかりとした視線を返してくる。まだまだ余裕たっぷりといった様子だ。そんな彼女を追い詰めるべく、エレノアは少しずつ話を進めていく。
「たとえ知っていたとしても、普通は傷心状態でそんな発想にならないのではないでしょうか。今までの依頼人にもあなたのような境遇の方が何人かいらっしゃいましたが、婚約者を取られた絶望や悲しみが怒りに変わり、取り戻すという考えに至るまでには、どなたも少なくとも一週間以上はかかっていた。婚約者を心から愛していたというのなら、なおさらです」
普通なら憔悴しきってしばらく屋敷に閉じこもるところを、この女は三日で店にやって来た。それは明らかに普通の反応ではない。
しかし、エレノアの説明にアメリは不快そうな表情を浮かべた。
「愛していたからこそ早急に取り戻したいと思うのは自然ではなくて?」
「であればやはり矛盾が生じるんです」
「どこに矛盾があるっていうの?」
アメリは苛立っているのか、腕を組み指をトントン叩いている。そんな彼女を煽るようにエレノアは言った。
「今あなたは『愛していたからこそ早急に取り戻したい』と仰いましたね。では、取り戻すようなことになる前に、つまり婚約破棄される前に、なぜあなたは何も対策を打たなかったのでしょう。婚約破棄を言い渡されるのが予想できる状況でありながら、なぜ傍観を続けたのでしょうか」
その問いに、アメリは初めて言葉に詰まりエレノアから視線を逸らした。しかしそれもほんの一瞬で、すぐにまた鋭い視線を向けてくる。
「その時には既にウィラード様の心がこの女に向けられていて、どうしようもなかったのよ」
確かにその通りだったのだろう。彼女の学友から聞いた話とも一致する。しかし――。
「結婚というのは両家の親の承認がなくてはできません。父親であるレイクロフト伯爵に相談するなり、ジール侯爵家に訴えかけるなり、何かしら方法はあったはずです。実際、ジール侯爵は婚約破棄に至る前からウィラード卿とキャサリン嬢の関係には反対していました。その状況から考えても、キャサリン嬢を跳ね除けることはそれほど難しいことではなかったように思います」
アメリが婚約破棄を回避するためにできたことはもう一つある。
キャサリンがアメリに虐められているというのがキャサリン自身の自作自演であることは、勘の良い生徒なら皆気がついていた。それくらいキャサリンの行動は詰めが甘かったのだ。
頭の良いアメリなら、証拠を集めてキャサリンを断罪することだってできたはずだ。しかし、そうはしなかった。
「あなたはわざと静観することで、婚約破棄を誘発させたんですよ」
それを聞いたアメリはハッと乾いた笑みをこぼした。彼女からはまだ余裕が感じられる。
「どうしてわたくしがそんなことをする必要があるのよ。わたくしはあなたに大金を払って彼を取り戻したのよ? わざわざ自分から婚約破棄されるようなことをするわけがないでしょう?」
確かにアメリはウィラードを求めた。しかし、婚約破棄を回避できたのに何もしなかったということは、それを望んでいたということに他ならない。
では、その矛盾は一体何なのか。
「あなたにとっては、あえて一度婚約破棄されてから取り戻す、ということに価値があったからです」
今の言葉に、アメリの眉がほんのわずかにピクリと動いた。もちろんエレノアはその反応を見逃してはいない。じわじわと獲物を追い詰めていく感覚は、狩りに似ている。
「……価値?」
「周囲からの同情が得られる、という価値です」
アメリからハッと息を飲む音がした。その瞳は大きく見開かれ、わずかに、だが確かに動揺の色が映し出されている。
アメリの沈黙はそれほど長くはなかったが、彼女が再度口を開く前に違う女の声がした。キャサリンだ。
「ちょっと待って。そんなくだらない理由で……?」
キャサリンはエレノアが現れてから成り行きを見守るようにじっと押し黙っていたが、話の展開が気になりすぎたのかとうとう口を挟んできた。
急に喋りだした彼女にアメリは驚いたように振り返ったが、すぐにエレノアに向き直り嘲笑を浮かべる。
「確かにくだらない。もういいかしら。そろそろあなたとの会話にも飽きてきたわ」
「アメリ嬢」
エレノアは間髪入れずに呼び止めた。
アメリはこの会話から逃げようとしている。それは彼女を追い詰められている証拠だが、ここで逃がすわけにはいかない。
「あなたはもう、ウィラード卿を愛してはいない」
「まだ続ける気? わたくしは彼を心から愛しているわ。先程あなたもリチャードに扮している時に聞いたはずよ」
堂々とした彼女の言い分を、エレノアは真っ向から否定する。
「いいえ、アメリ嬢。あなたは愛しているとは言っていない。愛していた、と言ったんです」
エレノアの指摘に、アメリは一瞬焦ったように目を見開くと、すぐに眉を顰めた。
「……そんなの、言葉の綾よ」
「無意識に本心が出てしまったのでしょうね。あなたは確かにウィラード卿を愛していたが、彼が心移りをしてからは違った。そうでしょう?」
「違うっ! わたくしは今でも彼を愛しているわ!」
アメリがとうとう声を荒げた。彼女の瞳はより一層険しさを増し、エレノアのことをギロリと睨みつけている。先程より彼女が動揺していることは明らかだ。
エレノアはひとつ息を吐いてから話を続ける。
「アメリ嬢。あなたの事を知れば知るほど、私の中で違和感が大きくなっていきました。ご学友から聞くあなたと、店に来たあなたが、あまりにも違いすぎていたから」
アメリの学友は、みな口を揃えて彼女への同情の言葉を並べていた。学友たちが抱くアメリ・レイクロフトへの印象は、どこまでいっても「愛する婚約者を奪われた哀れな令嬢」だったのだ。
しかし、店に来た彼女は到底そうは見えなかった。
「ではどちらが本当のあなたなのか。そう考えた時、ウィラード卿の心が離れた時点であなたは彼を愛することをやめ、『婚約者にどんな仕打ちをされても愛を貫き通した女』を演じていたとすると、全ての辻褄が合うのです」
その説明に、キャサリンがアメリに向かって馬鹿にしたような笑いを飛ばした。
「アハハッ! やっぱりね! あんた、どうせ侯爵家夫人の地位しか見てなかったんでしょう?!」
「お黙りなさい!!!」
額に青筋を浮かべたアメリは、怒りのままにキャサリンの腹を蹴った。うるさく口を挟む彼女に相当いらついたらしい。蹴られたキャサリンは痛そうに背を丸めながら小さくうめいている。
その光景に、エレノアはやれやれと溜息をついた。
「キャサリン嬢。ご自分の身を案じるなら、この状況でそういった発言はお控えになったほうがよろしいかと」
アメリはキャサリンを蹴って気が晴れたのか、落ち着きを取り戻して再びエレノアと対峙している。そんな彼女に向かって、エレノアは話を再開させた。
「ジール侯爵がキャサリン嬢との結婚を許すはずがないとわかっていたあなたは、婚約を破棄されてもウィラード卿を取り戻せると確信していたのでしょう。あなたは思惑通り婚約破棄され、見事に悲劇のヒロインを演じきった。そして周囲の人間に『愛する婚約者を奪われた哀れな令嬢』という印象を植え付けた」
そう言われたアメリは、肩をすくめながら両手を広げ、呆れたようにハッと鼻で笑った。
「それで? わたくしは皆から同情されたいがためにわざわざ婚約破棄をされたって? この女も言ったけど、そんなくだらない理由で婚約破棄されたい女がどこにいるっていうのよ!」
彼女の反論に、エレノアはゆっくりと首を横に振る。
「あなたにとっては全くくだらなくないんですよ。一度婚約を破棄されてもなおウィラード卿との結婚を望むほど彼への愛が深いと、あなたは周囲に知らしめる必要があった」
すると、蹴られた痛みが引いたのか、キャサリンがまた懲りずに口を挟んでくる。
「その理由は……?」
そう言って彼女はゴクリと唾を飲んだ。刹那、周囲はシンと静まり返り、エレノアを取り囲んでいる男たちでさえその答えをただじっと待っている。
エレノアは真っ直ぐにアメリの瞳を見据え、はっきりと告げた。
「ウィラード卿を殺害した時に、自分に疑いの目が向けられる可能性を限りなく低くしておくためです」




