もう時間がないのか?
「良くてあと半年だ…もう桜は見れないだろう」
そんなことを突然言われたらどうする?信じきれず怒るか?悲観し喚くか?…まあ,普通の奴だったらそんな風な反応をするだろう。俺も普通なら絶望してたに違いない。
だが…それを主治医に告げられた時,特別思うことなどなかった。怒りも,悲しみも,感じることはなかった。
「しかし残念だよ,折角回復したというのに…」
「いいんですよ。あと数年が半年に縮まっただけなんですから」
「それはそうだが…咲翔君を大学まで行かせてやれないのが悔やまれるよ」
「気にしないでください。どうせいつかはこの時が来るって,覚悟は十分できてましたから…。元々,あってないような命ですし」
そう言って,俺は少しだけ笑った。
俺は生まれつき,特異な病を持っていた。希少難病というやつだろうか,異常な蛋白質が中枢神経の細胞を食い荒らすという病だ。症例が少なく確実なことは言えないが,潜伏期間が非常に長く一度症状が現れたら疾患が急速に進行し死に至る為治療法すら確立されていない,という話を聞いたのは覚えている。
「あってない命,か。…君は,君自身をそう捉えているんだな」
「ええ。だからこそこうしてすぐ受け入れることができているわけですし」
「…まあいい,このことはLAのご両親にも伝えておくぞ?後は初瀬さんにも…」
「あっ,おじさんたちには…初瀬一家には,伝えないでもらえますか?」
「何故だい?彼らは今実質的な君の家族だろ?それに伝えておかないほうが色々と弊害も生まれるぞ?」
「そうかも知れないですけど…まだ,彼らには知られたくないんです。お願いします」
「……わかったよ。でも,どの道いつかは伝えなきゃいけない。それでもいいかい?」
「ありがとうございます,先生」
そうお礼を言うと,先生は「もし悪化するようになったらすぐ入院だからな」とだけ言い残して病室を去った。
俺がこの病に気づいたのは,いつ頃だっただろうか。
「…確か,まだ小学生になりたての頃だったかな」
病院の近くの公園にある,全身を紅く染めた老木にもたれかかりながら,今となっては遠い昔の記憶を,ゆっくりと呼び起こす。この老木も,ある意味は俺の仲間だな。
――初めてこの病気に罹患していると知ったときは,相当なショックだったな。長くても後十数年で,死ぬ。その時はまだはっきりとした症状がなく,自らに遠くない死が差し迫っているという状況は若干6,7歳の俺にはにわかに受け入れがたい事実だった。
若干の疾患は出るが,症状が現れない限りは入院の必要はないとのことだったので暫くの間は普通の生活を送れていた。定期的に通院する必要はあるものの,傍から見れば『持病がある程度の人間』ぐらいにしか見えないだろう。
だが,先日の定期検査で僅かながら異常が確認され,今回遂に余命宣告に至る結果となってしまった。まあ先程も言った通り,遅かれ早かれ死ぬことにはなる。それが早まったということに対し格別の驚きはないが,強いて言えば一つばかり,心残りになるかも知れない事項はあった。
「咲翔?どうしたの??」
「うわぁっ!?…って,何だよ吹雪か。驚かすんじゃねえよ」
「アンタが勝手に驚いただけじゃないの……で,どうだったの?」
「あ,ああ……別に大丈夫だったさ。変わりない」
「そっか。でも辛かったりとかしたらちゃんと言いなさいよ?これでもアンタの一番の親友なんだから」
「そういうのは吹雪がどうこうとかじゃなくて俺自身が判断するもの何だけどなぁ…」
「どっちだっていいのよ。とにかく,何かあったらすぐ言ってねってこと」
そう言って,初瀬吹雪は立ち上がり歩きだす。
吹雪は,LAに行ってしまった両親の代わりに俺の面倒を見てくれている初瀬一家の一人娘だ。彼女とは中学の頃から知り合いであり,俺の数少ない親友の一人でもあった。
最近俺がこうして通院する際は,もしものことを考慮して吹雪に迎えに来てもらっているのだが,俺も彼女もまだ高校生。当然車など出せるわけもなく徒歩で迎え――というより最早付き添いだが――になってしまう。故に俺に異常がない事を確認したらすたすたと先に歩いていってしまう。それを急いで追い,きまって帰路に有る喫茶店に寄ってから帰る…というのが俺達の常だった。
洒落たジャズが時間をせき止めているように感じる店内にて,ラテアートが描かれたカプチーノを啜る彼女。やや小さい木目調の机に肘を付き,所狭しと置かれたアンティーク品を眺めつつ,ベルガモットの上品な落ち着いた香りが匂い立つ熱々のアールグレイをゆっくりと啜る。…うん,いい味だ。やはり混ぜものなどしないストレートティーが一番だ。そうだろう?
「ねえ…この前言った旅行の件,どうなったの?」
「ああ,それなんだけど…できるならさ,近場で日帰りじゃなくて少し遠くに行きたいなって」
1ヶ月位前だっただろうか。年が明ける前に何処か旅行に行きたいと吹雪が持ちかけたのだが,生憎初瀬夫妻は仕事が忙しく連れて行ってやれないと言われ,仕方なく俺達二人だけ――もっとも初瀬夫妻はいつも忙しいので二人だけで出掛けることも多かったが――で行くことになった。最初は近場の景色がきれいなところにでも行こうかと思っていたのだが,先程余命を告げられてからプランを練り直すことにしたのだ。
「遠く?行きたいところでも有るの?」
「行きたいところか…有ることには有るし,冬にぴったりな場所なんだが……距離的に泊まることになるんだよな。だから…」
「泊まりかぁ…うーん,私は別にいいんだけどパパとママがOKしてくれるかどうかだけど…多分大丈夫だと思う」
「いいのか?ならすぐにでも計画を立てるが…」
「うん,お願い。…で?具体的には何処なのよ??」
スマホを取り出して地図アプリを開き,ピックがさして有る地点を拡大し彼女に見せる。
「なるほどね。たしかに冬らしい選択」
「だろ?場所はここでいいか?」
「特に行きたい場所が有るわけじゃないし,大丈夫。それに,ここならいいアイデアがが浮かびそうだし」
ニヒヒと彼女が笑う。まるで猫だ。
やや冷めてしまったカプチーノを飲み干し,机の上に広げていた大きな手帳を鞄にしまう。俺も残り僅かなアールグレイを飲み干して,席に掛けていたコートを着る。二人分の代金を払って喫茶店を出た。
沈みゆく橙の斜陽は,紅葉の帰り路を紅く照らす。哀愁というものを,やっと理解出来なような気がした。
こんな何の変化もない,平凡な日常。それすらも,そう遠くはない内に送れなくなってしまうのだろうか。
窓というものはとても素晴らしい。雑多な風景を的確に切り分けて,1枚の作品として仕立て上げる。視界的には停滞的だが実体的にも動きがない絵画とも違い,その一瞬一瞬で変化を見せる。日が変わり,月が過ぎて,季節が移ろえばその絵は全くと言っていいほど違うものになる。加えて言えば,その絵の中の動きから”枠の外”の世界を創り,飽きることのない停滞を楽しむことができる。
かつて,あの病気ではなく単純な怪我により少しだけ入院していた頃,殺風景な病室で見出した少年の遊びだった。友人たちからは「年寄りくさい」と笑われたが,吹雪だけは理解をしていてくれた。もっとも,彼女の性格柄日常的にそういうことをしているんだろうが。
「…咲翔。咲翔!」
「…ああ,どうした榛樹?」
集中しすぎて彼の声は耳に届いていなかったようだ。
「もうメシだぞ。学食行こうぜ,学食」
いつの間にか授業は終わっていたようだ。峰川榛樹――こいつも数少ない友人の一人だ――に飯の時間だといわれ,思い出したかのように腹が減ってくる。
「悪い…今日は俺弁当なんだ。行くなら他のやつとで頼む」
「そうか…じゃあ仕方ない,一緒に行くのはまた今度だな」
それだけ言うと,榛樹は教室を出ていった。
さて,屋上へ向かわないとな。
この学校は,珍しいことに屋上が開放されている。と言っても,入れるのはフェンスで囲われた一部区画のみだが。
「遅いよ!お腹ペコペコなんだから!!」
扉を開けると,待ちくたびれたのかベンチで横になっていた吹雪が腕だけをぺしぺしと叩いて俺の遅刻を叱る。
「悪い悪い,ボケっとしてたらいつの間にか授業終わっててさ」
「言い訳は聞いてない!早くご飯を!!」
「はいはい,今準備するから待ってろ」
保冷バックを開け,中に入った二人分の弁当を取り出す。
何故俺が,彼女の分まで弁当を作るのか――理由は二つ有る。一つは俺が料理好きだということ。昔から両親がいない環境であった上に,将来も考えておばさん――吹雪の母だ――が早い時期から料理を教えてくれたために,今では半ば趣味のようになっている。もう一つの理由――どちらかと言うとこれが大きな理由だ――は,吹雪自身の調理技術が壊滅的ということだ。家で料理をするのは基本俺かおばさん。興味もないため仮令作らせたとしても産廃が積み上がるだけなので食材の無駄だ。
風呂敷を取り弁当箱と割り箸を取り出してその一つを吹雪に渡す。待ちきれないのか,早速蓋を開けて食べ始めたようだ。
「…ん〜♪美味い!」
「そうか。味濃かったりとかしないか?」
「そうね…特に大丈夫かな」
「…ところでさ,どこまで書き上がったんだ?そろそろ締切だっただろ??」
「んーっとね…もう八割方書き上がってはいるのよね」
俺は彼女に例の話題を振った。
――彼女,初瀬吹雪は小説家だ。高校生ながら幾つもの本を出していて,その表現力はとある評論家が認めるほどとの折り紙付きのものだ。俺は彼女が書き始めた頃からずっとその活動を見守っているのだが,実は彼女「着想を得るため」と称して結構な頻度で旅行に行っている。それに俺も保護者…?というよりは吹雪が問題を起こさないようにする為の監視役のような形で帯同している。故にあの旅行もその一環,というわけだ。
「でも何ていうかね…足りないのよ,何かが」
「足りない?そりゃまた何が??」
「それがわかんないから困ってんの!」
顔をプーっと膨らませて怒る吹雪。河豚みたいだな。
「…で,その足りないなにかの為に旅行にってわけか?」
「そ。何となくだけど分かるのよ…絶対なにか閃くって」
「あっそ…まあ,そんな理由なら取り敢えず色んな所行っていろんなことすればいい,それでいいか?」
「うん。なにか閃きそうなところで」
「…まあ善処はするさ」
…これはちょっとアイツに協力を仰がないといけない案件かもな。
それにしても,こうやって話しながらも彼女は結構なペースで弁当を平らげていく。そんなに食ってると太るぞ,なんて言いたくもなるが今ここで死にたくはないのでぐっとこらえた。
放課後,俺はとある場所へと向かっていた。
傾きかけた陽は色づく木々を経て細く差し込む。時折葉枝を軽く揺らす程度の風が吹くが,それすらも今は寒く感じる。コートのポケットに手を突っ込み,ライトサンドのブー二ーハットを深くかぶり込んで歩いた。
1時間ほど歩き続け,とある池の畔に出た。向こう岸の山際から陽が照らし,紅く輝く道を作り出す。舞い散る枯葉は,船のように水面を漂った。
暫くそれを眺めた後,俺は近くにある木の幹に寄りかかった。
―――ここは,俺のお気に入りの場所だ。ここに辿り着くにはわかりにくい山道を歩かねばならず,池そのものは対岸にある桟橋から眺めることができるためここに来る人は殆どいない。故に一人で居たい時,何か考え事をしているときなどはよくここやってきて,移り行く景色を眺めた。そんな事もあってか,ここに来ればなんだか落ち着けるような…そんな気がする。
15分もしないうちに,光は消え影が世界を包み込んだ。空は一層冷え込み,駆け抜ける風は帽子を揺らす。いよいよ本当に寒さを感じるようになって,凍えながら帰路を辿った。
もう何歩かで渡りだしてしまう。それまでには―――。
「何時振りだろうな…ここへ来るのも」
小学生か中学生の頃は学校が休みの日はよく,榛樹の家へ通っていた。
あいつの父は,自動車整備工場を経営している。会社自体は大きいものではないがそこそこ人がいて,丁度俺たちが小学生になる頃に自宅併設のガレージから別のところに工場のみ移転したため家の方のガレージは榛樹の父の許可もあって俺たちの格好の遊び場となっていた。
「榛樹,いるよな?…って,またお前やってんのかよ…」
ガレージには車用のジャッキが2台あるのだがそのうち一台が高く上げられ,その側で何やら作業をしている男が一人。
「…咲翔?どうしたんだお前,来てたのか」
「ああ…んで,何をやってんだ?」
「これか?まあちょっとした整備だよ,整備。愛車は定期的に診てやらないとな」
「お前まだ運転できる年齢じゃねえだろ…」
「前も言ったろ?こいつは古いやつなんだ,運転できるようになるまでしっかり俺が面倒見てやんなくちゃいけねえんだよ」
彼の車はランクル60系のHJ61V後期モデル。俺は車に関して詳しくないでのあまり良くわからないのだが,榛樹曰く30年以上前のそれなりに古い車種で,中古として買った際に既にガタが来ている状態だったらしく定期的に整備しなきゃ走れなくなる,らしい。ちなみにだがアイツはこれ以外にももう一台,ピックアップトラックの方のランクルを所有している。高校生で車2台持ってるとか普通ありえないよな…そんなこと思いながら暫し彼の作業を眺めていた。
「…んで?今日は何の用で来たんだ?」
ランクルの整備を終えてから暫く。オイルで汚れた作業着から着替え,おおよそ秋には似合わない寒そうな格好で登場した榛樹。その格好に驚きつつも,そういえばこいつは暑がりだったと思いだして納得した。
「ちょっと頼み事があってだな。聞いてくれるか?」
「ん〜…内容によってだな。俺だって暇なわけじゃない…とりあえずはどんなことなんだ?」
「お前というか,お前の親父さんに何だが…駅まででいい,車を出してほしいんだ」
そう告げると彼は一瞬「?」のような表情になったが直後に理解したのか,やや顔をニヤつかせた。
「ほ〜,そういうことか…。また吹雪との案件,ってことだな?」
一瞬で理由まで当ててくるこいつ何なんだよ。心が読めるのかよ。
「まあそんなところだ。で,出してくれるのか?」
「それは親父に聞かねえとわからないけど…あれだろ?荷物」
「そうだ。一応旅行ってことになったんでね。流石に結構な荷物持っての駅まではキツい」
「頼んでみるよ。まあ親父のことだしまたOKしてくれるだろうがね」
過去にも何度か,吹雪関係で榛樹の親父さんに協力してもらったことがある。あのときも結構問題なくと言うか何なら乗り気だったので,今回も大丈夫だろう。
「んでもねえ……高校生の男女が二人だけで旅行ってのは――不純だな?」
いや何も不純じゃないぞ?吹雪のネタ探し以外に変な目的はないしやましい目的なんか無いぞ??
「んなもんは無ぇよ。ネタ探しだ,それ以上でもそれ以下でもない」
因みにだが,吹雪が小説家だということは榛樹も知っている。
「冗談さ冗談。送るだけなら問題ねえし,親父に言っとくよ」
「頼んだぞ。アイツに苦労はかけたくないからな」
「ハハハ,なんだかんだ言ってお前もアイツ想いってことか」
「はあ?どういうことだよそれ??」
ちょっと意図が汲み取れないような発言をした榛樹。なんだってんだ?
兎も角,榛樹の協力は取り付けられたんだ。良しとしよう。
さてと…まだ,岸は見えていない。
―――まだ見る訳にはいかないんだ。