ゆうやけこやけが聞こえたら
アメンボは平面の世界しかないらしい。理科の先生がそう言っていた。どういう事だと疑問を投げかける生徒達へ、先生は続けてこう言った。アメンボには上下の世界はないんだよ、と。
それが本当かどうかはさておき、それはとても可哀想だとクラスのみんなは嘆いていた。そして自分達は人間で良かったと、安心感をにじませていた。
でも私はちっとも安心する事が出来ない。何故皆、自分達もアメンボと同じ状況かもしれないと思わないのか。私達には見えていない世界があって、さらにそこから自分達を見下ろす存在が居るのでは、と何故思わないのか。
こんな妄想は馬鹿げてる、と普通の人なら思うだろう。私もこんな疑問、意味も無い物だと分かっている。私達を見下ろす存在が居たとして、それが一体、どんな不都合があるのか。どのみち、私達はその存在を認知出来ないのだ。なら存在しないのと同じ。存在しない覗き魔に怯えているような物だ。不毛すぎる。
小学校からの帰り道、私はそんな妄想をしながら歩いていた。もっと小学生らしい妄想をしなければ。また小学生らしくないとか、隣のおばさんに言われてしまう。頑張って勉強してるだけなのに、なんか変な目で見られてしまう。あぁ、理不尽だ。私はただ学生の本分にまっすぐに生きているだけなのに。学生は学生らしく勉強に勤しんでいればいいのだ、それ以上に大切な事なんて無いのだから。
「ぁ、美海ちゃんだ」
駄菓子屋の前で近所の子供に見つかってしまった。子供と言っても私と同い年だけど。
「美海ちゃん美海ちゃん、シロクマ魔女シリーズの新しいカードが……」
「まだそんなの買ってるの? もういい歳なんだから……卒業しなさい」
「むぅ、まだ十一歳なのに」
なんだと! 私はまだ十歳なのに! コイツ、私より年上だったなんて! もう誕生日迎えたのか!
「……明美、誕生日来たの? 何で言わないのよ、お祝いしてあげたのに」
「……? だって、美海ちゃんとそんなに仲良くないもん」
その時、私の心に鋭利な刃物が刺さった。勿論、想像の世界で。それくらい傷ついたという事だ。
無邪気な子供の一言は、時に人を殺す威力を持っている。明美はそんなに悪い事を言っているつもりではない……だろうけども、私的にはショックなわけで。
「ふ、ふーん……シロクマ魔女シリーズ……いくらだっけ」
「五枚で百円」
「たっか! 五円チョコ二十枚買えるじゃない! 絶対そっちの方が贅沢気分味わえるわ!」
「美海ちゃんのブルジョワー」
ブルジョワの使い所、間違ってるぞ……という無粋なツッコミはしない。そのまま私はシロクマ魔女シリーズのカードを買い、明美へと手渡した。勿論、誕生日プレゼントとして。
「え? いいの?」
「うん。誕生日おめでとう。お母さん達には内緒よ。買い食いしたって怒られるから」
「カード食べれないよ?」
「食べれないけど、帰り道でお金使ったら怒られるでしょ」
財布の中を見ると、残り五百円玉が一枚しかなかった。我が家のおこづかいルールは、家の手伝いをすると十円貰えるルール。しかし裏技として、お爺ちゃんの肩揉みをすると、たまにお金をくれる。この五百円玉は奇跡的に貰えた大金だ。
「わー! 金のシロクマブラックだ!」
どうやらレアを引いたらしい。ヨカッタヨカッタ、と私は明美と共に駄菓子屋を離れた。そのまま家が近いのもあって、途中まで一緒に帰るのだが……そこで、いつもとは違うタイミングで「ゆうやけこやけ」が流れ始めた。
「……ん? ゆうやけこやけ? 早くない? まだ夕方の五時じゃないのに」
「……きもちわるい」
気持ち悪い? 確かにタイミングが早いと……まあ気持ち悪いな。なんかこう、いつもは早起きしてこないお父さんが、私より早く起きてリビングに居たら気持ち悪いみたいな。
「……ねえ、美海ちゃん……気持ち悪い」
「え? 何、吐きそうなの? 大丈夫?」
「気持ち悪い……」
そのまま明美は座り込んでしまった。しかしそこは思いっきり車道……ではないけど、田んぼから出てきたトラクターが通る道だ。微妙に危なそうだから、私は明美のランドセルを代わりに持ちつつ、なんとか近くの神社付近まで歩かせた。そして、その境内へと続く階段へと、明美を座らせる。
「ちょっと待ってて、明美のお母さん呼んでくるから」
「……やだ、美海ちゃん居て……」
「いや、寂しいのは分かるけど……」
「……居て……お願い」
ええい、寂しがり屋め! しかし埒があかん。こんな時、家の固定電話の小さい版とかあれば便利なのに。そう、携帯する電話……略して携帯電話。
「……美海ちゃん、手……」
「ん? 手?」
「繋いで……」
ええい、あまえんぼうめ! と、私はギュ……と明美の手を握りしめながら、隣に座りつつ背中をさする。ゆうやけこやけの歌は、終わりそうだった。そういえば……これが流れてからだ、突然、明美が体調を崩したのは。いつもと違うタイミングのゆうやけこやけ。役所のミスだろうか。
そしてゆうやけこやけは終わり、しばらくすると神主さんが私達に気付いたのか、階段を降りてやってきた。
「大丈夫? どうしたの」
「ちょっといきなり気分悪くなったみたいで……」
「おや、そりゃ大変。おんぶしてあげるよ。家に帰ろう」
神主さんは明美をおんぶすると、そのまま家まで送ってくれた。
私も明美のランドセルを持ちながら、後ろからついていく。するとその時、再び「ゆうやけこやけ」が流れ始めた。
「……また? 何回流すのよ……」
「え? 何が?」
「これ、ゆうやけこやけ。さっきいつもより早く流れたじゃないですか」
「……え? そう? 気づかなかったなぁ。それはきのせいだよ」
きのせい……きのせい? んなわけあるか、確かにさっき……それに、それを聞いて明美は気分悪くなって……
「気にしちゃ駄目だよ。気にしなきゃ、別に何でもないんだから」
「……? はい……」
よく分からん……。
※
そのまま神主さんに明美を届けて貰い、私も家まで送ってもらった。別れ際、神主さんへとお礼を言うと
「君は賢いね。だから目を付けられやすいのかな」
ちょっと待て、何の話だ。意味深な事言い残して去らないで欲しい。
結局、その時は意味も分からず首を傾げていたが……
それから数年後、私と明美は高校生になり、同じ名門私立へと入学した。正直、明美も同じ高校に来るとは信じられなかった。普段はフワフワ系可愛い女子のくせに……お前、こんなに勉強出来たんかい、許せん。
しかし明美とは、私は親友にまで昇格する事が出来た。あんまり仲良くないもん、とか言われた時はショック死しそうになったが、まあ、今では大の仲良しだ。
「そういえば、美海ちゃんと小学生の頃、一緒に帰った時……私、気持ち悪くなった時あったじゃん」
「あぁ、あったあった。ランドセル持たされたわ」
「実はあれ、仮病だったんだー」
あ?
「何、それ」
「だって……美海ちゃん……違う子と手繋いでたから。こりゃあかんって思いまして」
あの時、明美には見えていたという。
私が違う小学生と手を繋いで歩いているのが。ゆうやけこやけは、実は明美には聞こえてなかった。あれは私にしか聞こえてなかったのだ。その、違う小学生と手を繋いでいたから、聞こえていたのだろうか。
もし明美が居なかったら……私は一体、どこに帰っていたのだろうか。
私はその時、アメンボと同じだったのだろうか。