【コミカライズ】いい子にしていたって、神様はちっとも助けてくれないから
「いい、シンシア? いい子にしていたら、神様は絶対にあなたを助けてくれるからね」
幼い頃、亡くなったお母様はしきりにそう教えてくれた。
辛いこと、悲しいこと、嫌なことがあろうとも、決して笑顔を絶やさず、相手の気持を一番に考えて生きること。そうしたら、神様はどんな願いでも叶えてくれるんだって。
だけどね、お母様。
わたし、ずっといい子にしていたのに、神様なんていなかったよ。どこにも存在しなかったよ。
だって、いいことなんて一つも起きなかった。嫌なことばかりだった。
「――――ねえ、どこにいるのよ?」
空っぽの家にか細い声が虚しく響く。涙が枕を冷たく濡らす。
18歳のとき結婚した夫のレクターは、もう何日も帰ってきていない。わたしの持参金も、父から借りたお金も、すべては彼の事業の失敗のために消えていった。それ以前に、彼には他に何人も女性がいて、わたしのことを顧みてくれたことなんてなかった。
優しい人だと思ったのに。だからこそ彼と結婚したのに。
『どうして僕がシンシアに優しくしなきゃいけないんだい? 君は君で勝手に生きればいいだろう? ああ……お義父さんに融資の話はしておいてくれよ? そのために君と結婚したんだから』
『子供がほしい? 勘弁してくれ。僕は君との子供をほしいと思ったことはないよ』
『なんだい、その目。僕のすることが気に食わないっていうのか? だったらいいよ。あいにく帰る場所には困っていないからね』
屋敷の中は昼間だというのに薄暗い。レクターだけでなく、使用人もみんないなくなってしまった。
(どうしてこうなってしまったの?)
わかったよって言ったのに。
言うとおりにするって言ったのに。
ごめんねって言ったのに。
レクターはちっとも耳を傾けてくれなかった。
苦しい。もう何日もまともに食べていない。
身体が熱くて、それなのに寒気がして、どんどん力が抜けていく。段々視界も霞んできた。
(わたし、このまま死んじゃうんだろうな……)
たった一人ぼっちで。信じられないぐらいつまんない理由で。
だって、レクターはもう、ここには帰ってこないんだもの。レクターのせいでお父様に見放されてしまったから、この家には誰一人来ないんだもの。いい子にしてたって、神様は助けてなんてくれないんだもの。
こんなことなら、もっと早く実家に帰ればよかった。
お父様に泣きついて、レクターを叱ってもらえばよかった。
離婚をしていたらよかった。
レクターの本性に気づいていたらよかった。
あの人と結婚なんてしなきゃよかった。
嫌だって、ひと言そう言えたらよかった。
いい子になんてしなきゃよかったのに。
いよいよ感覚がなくなってきた。苦しくて苦しくてたまらなかったのが嘘みたいに楽になっていく。
(ああ、これがお母様が言っていた『神様からのせめてもの救い』なのかな?)
だとしたら、なんとも夢がない。空中で魂の抜け落ちた自分自身を眺めつつ、わたしはふっと自嘲してしまう。
けれどその瞬間どこからともなく【違うよ】って声が聞こえてきた。
思わず周囲を見回したところで誰もいない。次いで強い衝撃がわたしを襲った。
「うっ……」
既に止まったはずの心臓のあたりがバクバクと力強く暴れはじめる。
熱い。苦しい。痛い
あまりのことに目をつぶったら、ものすごい浮遊感に襲われた。
目の奥がチカチカと光り、ギシギシと身体が軋んだあと、ようやくいろんなことから解放される。
(――――わたし、どうなったの?)
天国か、地獄にでも着いたのだろうか?
恐る恐る目を開けたら、そこには懐かしい景色が広がっていた。
「え……?」
おかしい。どう考えても変だ。
だってここは、わたしの――――結婚前に住んでいた生家の部屋だ。
清潔に保たれた広い部屋、華やかな調度類。なにより、明るくてとても温かい。
「わたし、実家に帰ってこれたの?」
先ほど強く願ったためだろうか? 誰かがわたしを迎えに来てくれたのかもしれない。
けれど、夫と暮らしていた家から領地まで、片道で3時間ぐらいはかかってしまう。それだけの移動時間をさっきまでのわたしが耐えられたとはとても思えない。
「一体なにが……」
呟きながら、ふと鏡を覗き込む。その瞬間、わたしは驚きに目を見開いた。
艷やかな長い髪、ハリのある肌、唇だってカサカサしていないし、色も青白くない。おまけに、何故か2年以上前に袖を通したきりの洋服――――通っていた学園の制服を身につけている。
「嘘でしょう⁉」
確かめなきゃいけないことがある――――わたしは急いでチェストの一番上の引き出しを開けた。
思ったとおり、そこには分厚い日記帳がしまわれていて、わたしはゴクリと息を呑む。
それから、栞の部分――最新の日付を確認して、思わずあっ! と声を上げた。
「やっぱり……4年前の日付になってる」
それはわたしがレクターに出会う前日のこと、学園入園前日の日付だ。
ありえない。絶対におかしい。
本来ならば存在すべき記録が消えている。わたしの思い過ごしなんかじゃ絶対にない。
だって、日記を書くのは日課だったし、学園入園の日の記録については特に詳細に書き記した。その後も、何度も何度も読み返したもの。破ったあとだってないし、一体どうして――――。
「シンシアお嬢様、そろそろ朝食の席においでください。旦那様がお待ちです」
とそのとき、部屋の外から侍女が声をかけてきた。懐かしい声だ。思わず涙を流しそうになりながらグッとこらえる。それから、大きく息を吸い込んだ。
「ね……ねえ、今日からわたしって、王立学園の生徒なのよね?」
我ながら変な質問をしている自覚はある。
自分のことなのにわからないの? って点にはじまり、そもそもわたしは20歳で、とっくに学園を卒業しているはずだし、結婚すらしているっていうのに。
けれど、侍女はクスクスと笑いながら「そうですよ」とサラリと答えた。
「お嬢様ったら、よほど楽しみにされていたのですね」
からかうような口調。そこにはためらいも戸惑いもまったく感じられない。
(間違いない。時間が巻き戻ったんだわ)
夢なのかな? ――――そう思うのに、一度は止まったはずの心臓がドクンドクンと鳴り響き、その存在を主張する。わたしはしばし呆然とその場に立ち尽くした。
***
一度状況を受け入れてしまえば、案外慣れるのは早いもの。巻き戻りから数時間後、わたしは懐かしの王立学園に立っていた。
(さて、これからどうしよう)
死の淵で願ったことはいくつかある。
もう一度人生をやり直したい。
イエスのいい子は懲り懲りだ。
誰かの救いを待つんじゃなくて、自分自身の手で幸せを掴みたい。
そのためには、前回と同じことを繰り返していてはダメだ。きちんと反省して、次に繋げなければならない。
一体どこで間違ったんだろう――――そう考えたときに、一番しっくり来るのは、レクターと出会ってしまったことだった。
(噂をすれば)
校門の入り口に誰あろうレクターの姿が見える。わたしは思わずゲンナリとしてしまった。
明るい金の髪、青い瞳、綺麗に切りそろえられた短髪に、端正な顔立ち。まるで王子様みたいだな、というのがわたしの抱いた第一印象だった。
【物腰も柔らかくて、笑顔がとても素敵だった! 優しく声をかけられて、すごくドキドキしてしまった。もっと彼のことが知りたい。お近づきになれたらいいな】
今考えると、ものすごく浅はかだし、愚かな考えだ。妙に堂々と偉そうにしているから忘れてしまうけど、あいつ、子爵令息だし。王子様とは程遠い存在だし。昔のわたしをぶん殴ってやりたい気分だ。
「――――あの、僕と同じ新入生ですよね」
と、そんなことを考えているうちに、レクターがわたしの目の前にやって来ていた。ニコニコと微笑みながら。魅惑の王子様スマイル――――以前はそんなふうに形容していたけど、今のわたしからすれば胡散臭い詐欺師の笑顔だ。
以前のわたしは「そうです! あなたもですか?」なんてしおらしく回答したんだけど、よく考えたらバカみたいだ。
「見ればわかりますよね?」
だって、今日は上級生は登校していないし。制服見たら新品かそうじゃないかぐらいすぐにわかるし。……まあ、レクターの制服はくたびれているから、彼のお兄様からのおさがりなんだろうけど。
「あはは! そうなんですけど、なにか話すキッカケがほしくて。とても美しい人だと思ったから」
(あはは、じゃない! ちょっとは傷つけ、この詐欺師め。本当は『いい金づるだ』と目をつけたんでしょうに)
感情が麻痺しているんじゃなかろうか? だからこそ、わたしに冷たくしたところで心がまったく傷まなかったんだろうけど、なんだかイライラしてしまう。
「僕はレクター・コールディー。あなたの名前を教えていただけませんか?」
すると、レクターがわたしの手を握ってきた。不躾な男め。思わずウェッて声が漏れそうになった。
「……お断りします。どうせあとから知ることになるでしょうし、自ら名乗りたくありません」
手を握られたところで、まったく心がときめかない。むしろ鳥肌が立ってしまった。
そりゃ、巻き戻った以上、今のレクターとわたしが結婚したレクターは別人だって考えたほうがいいんだろうけど、前世で散々冷遇されてきた影響は大きい。嫌悪感しか抱けないし、二度と関わりたくなかった。
「そう仰らず。是非仲良くしていただきたいです。学友は一人でも多いほうがいいでしょう?」
(しつこい)
前世ではなんでもイエスで答えていたから、この男がこんなにも聞き分けがないとは知らなかった。鬱陶しい。おぞましい。
なにが一番嫌かっていうと、こんなにわたしに対してグイグイ来ていたくせに、いざ婚約、結婚ってなった途端クルリと手のひらを返されたことだ。騙されちゃいけない。この男は絶対にまた同じことを繰り返す。自分の身は自分で守らなきゃ。神様は助けてなんてくれないんだから。
「――――そこ、通り道だから。塞がないで。邪魔になってる」
とそのとき、背後からぶっきらぼうな声が聞こえてきた。
振り返り、声の主を確認する。ウェールス・ガストフルシャフト侯爵令息――――前世でわたしが苦手としていた人物だ。
赤髪の短髪に金色の瞳、どこか野性的な雰囲気の男性で、顔は整っているものの貴族らしい見た目とはいい難い。レクターとは正反対のタイプだ。
いつもズケズケとした物言いで、人が言われたくないと思うようなことを普通に言う。デリカシーに欠けるというのがわたしの考えだった。
(前回もウェールス様に会話を中断されたのよね)
過去の日記には、レクターへの賛辞に加え、ウェールス様への恨みつらみも書いていたからよく覚えている。【彼が邪魔しなかったらもっとレクター様とお話できたのに】って。
でも、冷静になって考えてみるとウェールス様の言ってることのほうがよほど正しい。よく見たらこの道を通りたそうにしている人が数人いるし、彼が邪魔だと感じたのは事実だもの。わたしに責められるいわれなんてなかった。
「ご指摘、ありがとうございます」
まあ、言い方はキツイけど。こっちが悪いってわかっていても、指摘されたら若干傷つくものだけど。助かったことには違いない。
こうして、レクターとの再会は、前回とは異なるものになった。
***
二度目の学園生活は、前よりもずっと快適だった。
これまでずっと『いい子にしてなきゃ』って気を張っていたから辛かったけど、あんな死に方をするぐらいなら自由に生きたほうがよほどいい。級友たちと出かけてみたり、頼まれごとをされないように先生と目を合わせないようにしてみたり、以前はできなかったことを色々と試してみた。
幸いレクターは別のクラスで、避けようと思えば簡単に避けることができる。前回はむしろ、わたしのほうからレクターに接触をはかろうとしていたから、状況はまったく異なる。
このまま避け続けていたら、あの男と関わることはない――――そんなふうに思っていた。
「シンシア嬢!」
けれど、絶対に逃げられないタイミングというのは存在する。
1学期の終わり、プレ社交界という名目で開かれるパーティーの席で、わたしはレクターに声をかけられてしまった。
「――――御機嫌よう」
本当はひと言も会話をしたくないけれど、今は社交の練習の場。あまり邪険に扱うわけにはいかなかった。
「久しぶりですね。入学式以来でしょうか?」
「そうですね」
「あれからずっとお会いしたいと思っていたのですが、何故かタイミングが合わなくて」
「そうでしたか」
適当に相槌を打ちながらため息をつく。空気読んでよ。さっさと違う人のところに行ってほしいのに、レクターは延々と話し続けている。
「ところで、僕と一曲踊っていただけませんか?」
(えぇ?)
率直に言って嫌だ。レクター、ダンス下手くそだし。何回足を踏まれたかわからないもの。っていうか、そもそもこの男と関わり合いたくないんだって。
「実は、恥ずかしながら社交の類に不慣れでして、ダンスについても練習中の身なんです。どなたかにお相手いただきたいと思っていたのですが……」
「でしたら、そちらのご令嬢にお願いしてはいかがでしょう? 彼女、あなたとわたしの会話が終わるのを待っていらっしゃるご様子ですよ? わたしは謹んでご遠慮させていただきます」
言いながら左方に視線を移す。そこには、巻き戻る前にレクターの浮気相手の一人だった男爵令嬢がもじもじと佇んでいた。
(不思議だなぁ。前回は『絶対に譲りたくない』って思って、わたしのほうから無理やり会話を引き伸ばしていたのに)
そう考えると、前回のわたしは案外いい子じゃなかったのかもしれない。自嘲しつつ、わたしは静かに踵を返した。
「お待ち下さい、シンシア嬢」
唐突に腕を掴まれて、わたしは思わず眉間に皺を寄せる。
「えっ⁉ ちょっと……」
「僕はあなたと踊りたいんです。どうか、一曲お付き合いください」
呆れた。いくら物言いが優しくても、物腰が柔らかくても、ふとした行動にはその人の本質が現れるものらしい。わたしが嫌がっていることに気づきもしないし。
(本当に失礼で自分勝手な男ね!)
もう我慢できない――――言い返してやろうとしたそのとき、レクターの腕に誰かが触れる。
「失礼――――コールディー子爵令息」
ぶっきらぼうな声音。振り返れば、そこにはウェールス様がいた。
「なんでしょう、ウェールス様。……会話に割って入られるとは驚きました。それに、いきなり人の腕に触れるなんて、まさかそんなことをされるとは……」
「……いえ、あなたがまったく同じことをシンシア嬢にしているから、止めようかと。女性相手に失礼ですよ」
ドストレートな物言い。レクターの顔がカッと赤くなる。わたしは思わずガッツポーズを浮かべてしまった。
「それは……その、僕はシンシア嬢にどうしても踊っていただきたくて」
「既に丁重にお断りされていたでしょう? 引き際は見極めるべきですよ。しつこい男は嫌われますし」
素敵! もっと言ってやって! ――――なぁんて前世とは真逆のことを思いつつ、わたしはレクターをチラリと見遣る。普段のすました顔がくしゃくしゃになっていて、なんともカッコ悪かった。
「なっ! ウェールス様にそこまで言われる謂れはありません。そもそもあなたには関係ないでしょう?」
「あるわよ」
いけない、反射的に口を挟んでしまった。
だけど、わたしのせいでウェールス様が悪く言われるのはあまりにも忍びないんだもの。ぐいっと二人の間に押し入り、わたしはレクターを見上げた。
「実はわたしのほうから、ウェールス様に踊っていただきたいとお願いをしていたの。今夜お返事をいただくことになっていたから、こうして声をかけてくださったのよ」
「え? いや……けれど、それとこれとは」
「これ以上ウェールス様をお待たせしたくないし、失礼させていただきますね?」
レクターはまだゴニョゴニョとなにかを言っていたけど、もう知らない。ウェールス様に目配せをして、わたしは彼と一緒にその場を離れた。
「ありがとうございました、ウェールス様。おかげで助かりました」
完全に声が届かない位置まで来たところで、わたしはウェールス様にお礼を言う。彼は表情を変えないままコクリと小さくうなずいた。
「おせっかいかと思ったんだけど、嫌がっているように見えたから」
「おせっかいだなんてとんでもない! 本当にしつこくて迷惑していたんです」
見ていたなら、関わったら面倒くさいことになるとわかっていただろうに――――なんて優しい人なんだろう? 冷たいとか、ぶっきらぼうだなんて思って申し訳なかった。
表面上は優しいレクターとは大違い。わたしは本気で感心してしまった。
「……あの人、まだこちらを見ていますね」
ウェールス様がそっと呟く。
「本当ですか?」
顔の向きを変えぬまま、わたしはレクターのほうをそっと見遣った。
(本当だ)
男爵令嬢と会話をしながら、彼はこちらの様子をうかがっている。鬱陶しい。本気で吐き気がしてきた。
「あの、もう行ってください。わたしなら大丈夫ですから」
これ以上ウェールス様に迷惑をかける訳にはいかない。わたしは深々と頭を下げた。
「けれど、俺がいなくなったらコールディーはもう一度、あなたのところに来るんじゃ?」
「そうかもしれません。けれど、これ以上ウェールス様を巻き込むわけにはいきませんから」
わたしがほんの少し――――少しだけ我慢すれば済む話だ。どれだけ胸が軋んでも、動悸がしても、それだけで死ぬわけじゃないんだし。誰かの時間を奪うより、そっちのほうが余程いい行いのはずだから。
「……我慢、しなくていいですよ」
ウェールス様はそう言って、わたしの前へと移動する。その途端、レクターの姿が見えなくなる――――目頭が熱くなった。
(わたし、本当はものすごく嫌だったんだ。あの男の姿が見たくないほど。本当に嫌でたまらなかったんだ)
自分でも気付かなかった気持ち。どうしてウェールス様にはわかるんだろう?
必死に涙をこらえつつ、わたしは大きく深呼吸をした。
「シンシア嬢は――甘えベタなんですね」
「え……?」
そうだろうか? 自覚はまったくないのだけれど。
真意を求めて、わたしはウェールス様をそっと見上げた。
「下手くそですよ。教室でも、いつも周りに合わせようとしているし、困っても自分でなんとかしようとしているでしょう?」
「それは……そうですけど」
そうすることが当たり前だと思っていた。そうしなきゃいけないと思っていた。
そうしたら幸せになれるはずだって、心のどこかで思っていたから。
「一人で対処できないことは、誰かの力を借りればいいんです。助けてもらえばいいんですよ」
ウェールス様の言葉に、わたしは思わず息をのんだ。
「けれど……」
巻き戻る前、どんなに願っても、いい子にしていても、神様は助けてなんてくれなかった。わたしの周りには誰もいなかったし、手を貸してもくれなかった。
だから、どうやったら助けてもらえるかなんて、わたしにはわからない。本当に、わからないんだもの。
「とりあえず、俺で練習してみたらいいんじゃないですか?」
「練習?」
「ええ。まずは今『助けて』って、言ってみてください」
ウェールス様からの提案に、わたしは躊躇ってしまう。
(そんな言葉、口に出してもいいものなの?)
誰かを困らせてしまうんじゃない? 迷惑をかけてしまうんじゃない?
そうして嫌われて、一人になって――――だけど、助けを求めなかったからこそ、わたしは死んでしまったんじゃないの?
「助、けて……?」
寂しいのは嫌だ。
怖いのは嫌だ。
あんなふうに一人で死ぬのはもう嫌だ。
だとしたら、たとえ誰かを困らせることになっても、救いを求めていいんじゃない?
「はい」
ウェールス様が微笑む。それから彼は、わたしの前に手を差し出してきた。
「とりあえず、コールディーに怪しまれたらいけないし、踊りましょうか? そしたら時間も潰せるし、一石二鳥でしょう? シンシア嬢が嫌じゃなければ、だけど」
それはウェールス様らしいぶっきらぼうな物言いだった。
けれど、その言葉の裏に隠れている優しさは紛れもなく本物で、心がポカポカと温かくなる。
「はい、喜んで」
その夜、わたしは生まれてはじめて一度も足を踏まれることなく、ダンスを心から楽しめたのだった。
***
ウェールス様はその後も、なにかとわたしを気にかけてくれるようになった。
教材を運んでいるとき、友人との関係で悩んでいるとき、それ以外のときにも、わたしが困っていないか声をかけてくれる。
「最近はコールディーから言い寄られていませんか?」
「ええ。ありがたいことに、上手く避けられています」
ウェールス様の牽制のかいあってか、最近ではほとんどレクターの姿を見ていない。もう二度と、わたしの前に現れないでほしい――――そう思っているから、この状況はとてもありがたいのだけど。
(前回は、今から一カ月後に婚約を結んでいるのよね)
お父様に会わせてほしいって頼まれて、わたしは彼を自宅へと招いた。
本当はものすごく冷たいくせに、物腰が柔らかくて口先ばかりうまいから、お父様はすぐにあの男を気に入って、あっという間に婚約へと進んでいった。その頃にはわたしも本気でレクターを好きになっていて、結婚できたらいいなって思っていたから、婚約が決まったときには心から喜んだものだ。
だけど、彼が優しかったのは婚約まで。以降は本性を現し、わたしへの応対はそっけなく、冷たいものへと変わっていった。
それなのに、わたしはそれでもレクターに好かれていると思っていた。愛されていると思っていた。だからこそ、結婚を望まれていると勘違いしていた。
(本当に、家名とお金だけが目当ての結婚だったんだなぁ)
なんて、今さら気づいたところでもう遅い。失われた時間は戻ってこないし、傷ついた心は完全には修復できないんだもの。
願わくば、このまますべてを忘れてしまいたい。あんな悲しい過去、なかったことにしてしまいたい。
けれど、ある日の休日のこと、自宅でくつろいでいたわたしに事件は起こった。
「お嬢様。お嬢様にお客様がお見えですよ?」
「お客様? 一体誰?」
そんな約束は誰ともしていない。アポなしで家に来るような人間とは付き合っていないのだけど。
「こんにちは、シンシア嬢」
その瞬間、全身の毛がブワリとよだつ。
明るく冷たく響く声。表面的な笑顔。嫌悪感のあまり、心臓が嫌な音を立てて鳴り響いている。
大きな花束を手に持ち、レクターが玄関に立っていた。
「どうして……どうしてあなたがここに?」
「実は、先日とある夜会で、シンシア嬢のお父様と知り合いになりまして。僕たちが学友であることなどをお話したところ『今度屋敷に遊びに来るように』と誘っていただいたので、こうして馳せ参じた次第です。お土産に茶菓子を持参しておりますので、一緒にお茶を飲みませんか?」
レクターはそう言ってニコリと笑う。
嫌だ。怖い。
本当に、本当に嫌だ。
時間が巻き戻っているのだし、今ここにいるレクターが、わたしを直接虐げたわけではない。
だけど、彼は紛れもなくわたしを見殺しにしたレクターだ。絶対に同一人物だ。
このままでは、わたしは前回と同じ結末をたどってしまう。たった一人で、誰にも助けてもらえずに死んでしまう。
「そんなの嫌」
「え……?」
「お帰りください。わたしはお茶なんて飲みたくない。あなたと話したくもないんです」
嫌なことは嫌って言う――――巻き戻ったときにそう決めた。レクターの言いなりになって、顔色をうかがうなんて絶対に嫌。本当に無理。
「けれど、君のお父様が僕をここに招待してくれたんだよ? つまり、シンシア嬢のお父様は僕のことを少なからず気に入ってくれていて、将来的に僕を君の結婚相手にって考えてくれている可能性もあるのに……」
レクターがわたしの顔を覗き込んでくる。
怖い。一人で死んだときの苦しさが、寂しさが襲いかかってくる。息苦しさのあまり、わたしはギュッと目をつぶった。
『一人で対処できないことは、誰かの力を借りればいいんです。助けてもらえばいいんですよ』
そのとき、頭のなかでウェールス様の声が響いた。
ハッとして顔を上げる。すると、周囲にはレクター以外にも、たくさんの人が――使用人たちがいることに気がついた。
『とりあえず、俺で練習してみたらいいんじゃないですか?』
『練習?』
『ええ。まずは今『助けて』って、言ってみてください』
あの日のやり取りが蘇ってくる。
わたしは大きく深呼吸をし、それから彼らのほうを向いた。
「――――助けて」
蚊の鳴くような小さな声。せっかくウェールス様と練習したのに上手にできない。
「さあ、シンシア嬢、行きましょう?」
「助けて!」
今度は先ほどよりも大きな声が出せた。使用人たちが顔を見合わせ、急いでわたしたちの間に入る。
「申し訳ございません、コールディー様。シンシア様は体調が優れないご様子。せっかくお越しいただきましたが、本日はこれでお帰りいただけませんでしょうか? 私たちも旦那様からなにも話を聞いておりませんし、何分急な訪問でしたから、おもてなしのご準備もございませんので……」
(言えた。わたしの声が届いた。みんなが助けてくれた)
侍女たちが「ここはお任せください」と小声でささやき、わたしをその場から遠ざけてくれる。
ウェールス様が微笑む姿が目に浮かぶような気がした。
***
「と、いうことがあったんです」
その翌日、わたしはウェールス様に事の次第を説明した。
ウェールス様は時おり相槌を打ちながらわたしの話を聞いてくれて、なんだか心が温かくなる。
「そうか……大変だったね」
「ええ。だけど、ちゃんと頼んだら、みんながわたしを助けてくれるってことがわかったんですもの。よかったと思ってます」
巻き戻る前のわたしに足りなかったもの。
それは、きちんと自分の想いを伝えること。それから、神様じゃなくて他の人を頼ること。
過去のわたしがどうして失敗したのか、今ならよく理解できる。本当に勿体ないことをしていたんだなってわかった。
「全部、ウェールス様のおかげです。ありがとうございます」
彼が助けてくれなかったら、わたしはまた、レクターを受け入れていたかもしれない。運命だから逃げられない、仕方がないことだからって諦めて、また同じことを繰り返していたかもしれない。
「別に、このぐらい当たり前だよ」
そう言いつつ、ウェールス様はほんのりと頬を染める。わたしは思わず目元を和らげた。
「実はわたし、以前はウェールス様が少し苦手だったんです」
「え? そうなの?」
「ええ。あなたは正直すぎるというか……言いづらいこともズバッと口にするところがあるでしょう? 邪魔だとか間違ってるとか……そういうこと。以前のわたしにはノーという概念がなかったから、言われたことをそのまま文字どおりに受け取るだけで、いちいち傷ついていたんです」
わたしの告白にウェールス様は少々バツの悪そうな表情を浮かべる。わたしは首を横に振った。
「けれど、あなたの言葉の裏には優しさがある。『邪魔だ』と口にしたのは、道を塞がれて困っている他の誰かがいたから。『間違っている』と伝えたのは早く過ちに気付かせるため――――そんなふうに、ウェールス様は他の誰かのために悪者になったり、相手のためを思って厳しい言葉を言える人なんだって、今ならちゃんとわかります」
言いづらいことを伝えるのって、想像以上に勇気が必要だった。もちろん、性格的なものもあるだろうけど、ウェールス様だって毎回好き好んで誰かに指摘をしているわけじゃないだろうし。
「じゃあ、今は苦手じゃない?」
「ええ。とても尊敬していますし、一緒にいて落ち着きます」
ウェールス様の前でなら、わたしは遠慮なく本音を言える。なりたかった自分に近づけているような気がする。
なにかあってもすぐに「助けて」と甘えられるし、彼に何かあれば助けたいとそう思う。
「よかった」
ウェールス様はそう言って、ため息をつきながらうなだれる。珍しい仕草に、わたしはついつい首を傾げた。
「なにがです?」
「いや……その…………」
「……?」
どうしたんだろう? いつも正直すぎるぐらいなのに、珍しく歯切れが悪い。
そのまま見つめ続けていたら、彼はふいと顔をそらした。
「言っとくけど俺、誰に対しても親身にしているわけじゃないよ」
ボソリと、蚊の鳴くような声でウェールス様が呟く。
「え?」
いつだってストレートなウェールス様の含みのある言葉。噛み砕いて、逡巡して、身体がボンッと熱くなる。
(ウェールス様はわたしに対してとても親身になってくださっている。だけどそれは、誰に対しても同じというわけじゃない。つまり、特別ってことになる……)
どうしよう。わたしの解釈が間違ってないとしたら、とても――――とても嬉しい。
「ごめん……ちょっと風に当たってくる」
そう口にしたウェールス様は真っ赤だった。わたしもつられて赤くなる。胸がドキドキと高鳴った。
「――――ああ、ようやくいなくなってくれた」
けれどそのとき、背後から大嫌いな声が聞こえてくる。振り返るまでもない、そこにいたのはレクターだった。
「なにしに来たの?」
あんなにハッキリと拒絶の意志を示したのに――――。険しい表情のわたしとは逆に、レクターは穏やかに瞳を細めた。
「いや、昨日の件で確信したよ。シンシア――――君は巻き戻る前の記憶があるんだろう?」
ドクン! その瞬間、心臓が一際大きく跳ねた。
「え……?」
巻き戻る前の記憶? 一体どういうこと?
あのとき、時間が戻ったのはわたしだけだと思っていたのに――――違っていたというの?
「気づいたら学園入学前日に戻ってるんだもんな、びっくりしたよ。まあ、前の人生は成功とは言い難かったし、正直言ってありがたいと思ったよ。前回の失敗を学んでいるから、どの事業に金をつぎ込めばいいかわかるし、いろんなことが効率よくこなせる。今回の僕は借金どころか億万長者にだってなれると思うんだ。――――それなのに、シンシアが前回どおりに動いてくれないんだ。君がいなければ、僕はスタートラインにすら立てないっていうのに、ひどい話だよ」
レクターは至極優しい声音でそんなことを説明する。身体がブルリと震え上がった。
「わたしが……! 巻き戻る直前、わたしがどんな想いでいたと思って……」
「知らないよ。というより、済んだことを気にしたって仕方ないだろう? せっかくリセットされたんだから、前回のことは水に流しなよ」
「なっ! 流せるはずがないでしょう! あなたのせいで、わたしは……わたしは…………」
ひどい。
レクターはわたしが一人ぼっちで死んでしまったことも、どれほど悲しく、辛い思いをしていたかも、なにも知らない。知ろうともしない。
だけど、今さら知ってほしくもない。だって、許せるはずがないんだもの。
ずっと帰ってこなかったくせに。
わたしのことなんて忘れていたくせに。
巻き戻ったから、リセットされたからわたしのところに来たんだなんて、あまりにも最低だ!
「一体なにが不満なんだい? 以前のシンシアは僕のことが大好きでたまらなかっただろう? どんなに浮気をされても、冷たくされても、僕の帰りを待ち続けるほどにさ」
もうダメ。この人は本当に救いようがない。
腕を振り上げようとしたそのとき、逆に手首を掴まれた。
「……ああ、今回の人生で子供がほしいって言うなら応じるよ。君は僕のことが大好きだものね。二人で前回と似て非なる道を歩こう。大丈夫、今度は失敗しないよ。僕たちはこれからなにが起きるか知っている。間違えるはずがないんだから」
「嫌よ!」
絶対に、なにがあっても――――たとえ今回も失敗するとしたって、レクターと一緒の人生なんて絶対に嫌! 死んでもゴメンだ!
「助けて! 助けて!」
「…………ふっ! シンシアは未だにそんな迷信めいた教えを信じているのかい? たしか、亡くなった母親に教えてもらったんだっけ? でもさ、助けを求めたところで無駄だったんだろう? だからこそ、巻き戻る前の僕を恨んでいるんだろう?」
レクターがわたしを嘲笑う。わたしは必死に抵抗を続けた。
「今回だって同じだよ。君の言う神様ってやつは存在しない。……いや、神様はいるか。だけど、神様は僕の味方なんだよ。だって、僕にもう一度やり直すチャンスをくれたんだもの。それに、シンシアと僕は結ばれる運命なんだから――――」
「バカを言うな」
そのとき、ゴッと大きな音がして腕がようやく解放される。レクターが尻もちをついて天を仰ぐ。わたしは思わず視線を上げた。
「ウェールス様……」
安心のあまり涙があふれてくる。彼はレクターからわたしを遠ざけ、宥めるように肩を抱いた。
「助けてくれてありがとう……!」
ああ、ようやく声が届いた。助けてもらえた。
ウェールス様にはそんなつもりはないってわかっているけど、巻き戻る前のわたしも、今のわたしも、全部ひっくるめて救ってもらえたような気がする。
レクターに対して言ってやりたかったことも全部伝えられたし、とても晴れやかな気分だ。
「シンシア!」
レクターが叫ぶ。痛みで未だに動けないのか、地面に座り込んだままだ。かっこ悪い――――心からいい気味だと思った。
「いいのか? 本当にいいのか? ――――後悔するぞ? 僕の手を取らなかったこと。僕と一緒にいれば、約束された未来を手に入れられるのに」
「そんなもの、いらない。絶対に後悔なんてしない。父に掛け合ったところで無駄よ。どんなことがあっても、わたしがあなたと結婚をすることはありません」
きっぱりとそう宣言し、前を向く。それからわたしはウェールス様と顔を見合わせ、手を取りあって歩きはじめた。
***
それから数年の月日が経った。
レクターのその後なんて知りたくない。だけど、風のうわさで聞いたことがほんの少しだけ。
彼はあれから、巻き戻る前の人生を焼き直していったらしい。前回の事業で失敗したものには手を出さず、それとは逆に他人が成功を収めていた事業に多額の資金を注ぎ込んだ。
けれど、些細な変化はやがて大きな変化へと変貌するものだもの。
わたしとレクターが巻き戻ったことで、社会の歯車が大きく動いたのだろう。彼は前回よりもずっと大きな借金を背負うことになった。絶対に上手くいくと踏んでいたものだから、たちの悪い組織なんかからもお金を借りてもいたらしい。現在では消息不明となっている。
そして、わたしのほうはというと――――
「おかえりなさい、お父様!」
赤髪の女の子――今年4歳になる娘がウェールスに勢いよく抱きつく。愛らしい笑顔。可愛くて、愛しくて、胸がいっぱいになってしまう。
ウェールスとわたしは、ゆっくり、ゆっくりと関係を深めていった。
正直者のウェールスが、わたしに対しては素直になりきれないのがもどかしくて。けれど、耳当たりのいい言葉で、形だけの愛を囁かれるよりも、ずっとずっと嬉しくて。辛くてたまらなかった過去が嘘みたいに、わたしはほしかったものをすべて手にしている。
「ただいま。いい子にしていたかい?」
ウェールスはそう言って、娘と、わたしを交互に撫でる。
「もちろん! だって、いい子にしていたら神様が助けてくれるんでしょう?」
娘が尋ねる。
わたしとウェールスは顔を見合わせながら「そうだよ!」と言って笑うのだった。