離縁を前提に結婚してください
「離縁を前提にわたくしと結婚してくださいませんか?」
ラーニナ・エメラルドは緊張が相手に伝わらないよう、平静を装うのに必死だった。
心臓は大きく音を立て、冷や汗すらかいていたが、視線だけは相手から逸らさないように意識している。
一方でラーニナの視線の先にいる人物……ロイス・アメジストは、彼女の言葉に目を丸くしていた。
(ロイス様の驚いた表情が見られるなんて……わたくし、運が良いわ)
ラーニナは見たことのないロイスの表情に嬉々としていたが、悟られないように頬を引き締めた。
◇◇◇
ラーニナは国を支える四大公爵家の一つである、エメラルド公爵の一人娘。
桃髪翠眼の見目麗しい令嬢だが、社交界には滅多に顔を出さないことで有名だった。
普段は両親と共に自然豊かな領地で過ごしていて、領民たちと共に穏やかな日々を送っていた。
「お父様、お母様。わたくし、政略結婚ではなくロイス様と結婚したいのです!」
そのような日々に終止符を打たれることになったのは、ラーニナの決意を表した一言からだった。
両親はラーニナの言葉をすぐには理解できず、数秒固まった後に戸惑いの色を浮かべた。
「ラーニナ、何を言っているんだい?突然ロイス卿に嫁ぎたいだなんて」
「わたくしはずっとロイス様をお慕いしていました。諦めようと思っていたこともありましたが、先日、お父様とお母様がわたくしの結婚について話されているのを耳にして、いてもたってもいられず……」
ラーニナは結婚適年齢期に入っており、多くの貴族から求婚状が領地に届いていた。
中にはラーニナと会ったこともない、エメラルド公爵の財産目当ての貴族も多くいたが、両親も結婚相手について真剣に考えようとしていた。
やはり、信頼のおける人物の元にラーニナを嫁がせたい。
両親の意見は見事に一致し、結婚相手の候補が決まった時の会話を偶然ラーニナは耳にしていた。
(やっぱりわたくしはロイス様と結婚したい)
ラーニナはロイスを諦めきれず、両親に彼への恋心を打ち明けた。
「ラーニナ、わかっているの?ロイス・アメジスト様といえば、黒い噂しか聞かないわ。実の父親を手にかけて公爵家の当主の座を……」
「やめないか」
母親がひどく心配そうに話していたが、父親はそれを遮った。
ロイス・アメジストは、エメラルド公爵と同じ四大公爵家の当主。
冷酷無慈悲で人を平気で手にかけるという黒い噂の絶えない人物だ。
ロイスがアメジスト公爵家の当主になったのは最近の出来事で、前当主である父親を手にかけたのかどうかの真偽は不明だった。
(わたくしはロイス様が悪い人ではないって知っている)
ラーニナは一度、社交界デビューの時に王室主催のパーティーに参加したことがある。
しかし王宮で何者かに攫われそうになったところをロイスに助けられたのだった。
それ以来ロイスのことが忘れられず、好きになってしまったのだと自覚するのに時間はかからなかった。
「お父様、お母様。お願いします……!わたくし、このまま何もしなかったらきっと後悔してしまいます」
「……ラーニナ。まずは顔をあげなさい」
ラーニナが顔をあげると、父親は真剣な表情を浮かべていて、彼女は息を呑んだ。
(やっぱりダメなのかしら……)
今の父親は、公爵家の当主の顔つきをしていて、ラーニナは覚悟をした。
「猶予は一年だ」
「……え」
「一年以内にロイス卿と結婚できなければ、その時は諦めて私たちが決めた相手と結婚してもらう。残念だが私たちはその結婚に反対だ。手は貸せないが、ラーニナ自身で結婚まで漕ぎ着けたのであれば、その時は認めよう」
その言葉にラーニナは目を輝かせる。
「本当にそのような条件でよろしいのですか?」
「え……」
父親はラーニナが諦めると思っていたのだろう、予想外の反応に困惑している。
「ラーニナ、わかっているのか?自分でロイス卿と掛け合わないといけないのだぞ」
「もちろんですわ、お父様。元々お父様のお力を借りたところで、ロイス様が結婚を受け入れてくださるとは思っていたかったので、わたくしなりに計画を立てていましたの」
ラーニナは満面の笑みで話し始め、両親は呆気に取られていた。
「そ、その計画とは無謀なものではないだろうな?」
「もちろんです。ただロイス様とお話するだけですので」
「いつロイス卿と会うというのだ」
「王室主催のパーティーの招待状、届いていましたよね?その時にお話するつもりです」
ラーニナはすでにロイスと結婚するための道筋を立てていて、あとは両親の了承をもらうだけだったのだ。
「そんな……」
「安心してください。わたくし、ロイス様と結婚できても、お心を手に入れることができなければ諦めるつもりです。その時はまたこの家に戻ってきてもいいですか?」
「そんなのもちろんよラーニナ」
「当然だ。私たちはいつでもお前の帰りを待っている」
両親の言葉に安心したように、ラーニナは笑う。
(わたくしの計画は、ロイス様のお心を手に入れなければ成功とは言えないもの)
ラーニナの計画。
それは──
◇◇◇
「突然どうされたのですか?」
王室主催のパーティーにて、ラーニナはロイスと二人きりになることに成功し、一世一代のプロポーズを終えたところだった。
ロイスは一瞬驚きの表情を浮かべていたが、すぐに多くの女性たちを魅了する柔らかな笑みへと変わる。
ネイビーの髪に深い紫眼のロイスは、息を呑むほど美しかった。
「公爵様にとっても悪い話ではないと思うのです。周囲から早く身を固めろと仰られているようですね。ですが公爵様はそれをお望みではない、と」
「少し慎重になっているだけです。アメジスト公爵家の行く末が決まるのですから」
ロイスは顔色ひとつ変えず、話し相手が安心するような優しい表情で話している。
(ああ、ロイス様の穏やかな表情も素敵ね)
ロイスはよく微笑む。
それも感情の読めない、ただただ見る者を安心させるような笑みだ。
ラーニナもロイスの感情が読めなかったが、こうして会話をできたことだけでも嬉しさが爆発しそうだった。
「でしたら尚更、エメラルド公爵家という肩書を持つわたくしが魅力的ではないでしょうか」
「では逆に、貴女は私と結婚して何を得られるのでしょうか」
「駆け落ちの準備期間でございます」
「……ほう」
ラーニナの話に初めてロイスが興味を見せた。
「わたくしには心に決めた人がいるのです。ただ、身分が違っていて、とても一緒にはなれないのです。そんな中、両親がわたくしの結婚相手を探しているのを目にしました」
ラーニナは真実と嘘を混ぜながら話す。
そうすることで信憑性が増し、ロイスにこの結婚は互いにとって利益があるものだと思わせる。
「けれどまだわたくしたちには駆け落ちのできる状態ではありません。しかし時間は迫っていく一方で……どうか一年だけ、わたくしに時間を与えてくださいませんか?」
(ここで断られたら、わたくしは両親の決めた相手と結婚することになるでしょう……)
ラーニナは心の中で祈りを込めた時、ロイスがふっと笑みをこぼした。
「愛のない結婚、ですか。それは私にとっても好都合ですね」
これは好感触だとラーニナは思った。
ロイスは女性に興味がなく、過去に女性関係で噂されたことはない。
女性嫌いだとも言われていたが、どこまでか本当かはわからなかった。
「よろしければ場所を移動して詳しく話しませんか?」
「もちろんですわ」
あくまで冷静に。
ラーニナはロイスの誘いに乗り、場所を変える。
やってきたのは、アメジスト公爵家の紋章が入った馬車の前だった。
「あの……公爵様、これは」
「今から私の屋敷に向かいましょう」
(ろ、ロイス様と二人で馬車に乗るというの⁉︎)
ロイスはラーニナの手をとり、慣れた手つきでエスコートされる。
(ロイス様の逞しい手に触れてしまっているなんて!)
ロイスとは向かい合って座る。
興奮を隠すように外へと視線を移した。
「お相手は平民ですか?」
「え……」
「駆け落ちのお相手です」
「は、はい。そうです」
曖昧な人物像では怪しまれてしまう。
そのため、ラーニナは実際に駆け落ち相手を用意していた。
相手には事情を話し、渋々ではあったが了承をもらっていた。
その相手とどうやって出会ったのか、仲を深めていったのかまで事実と嘘を織り交ぜながら事細かに考え、すぐに答えられるようにしていたが、ロイスから追及されることはなかった。
「それほど相手のことを想っているのですね」
(相手……わたくしにとってその相手とは、目の前にいるロイス様のこと)
ロイスの言葉に、ラーニナは深く頷いた。
「はい。心からお慕いしております」
まるで告白しているようで、ラーニナは恥ずかしさのあまり顔を赤らめる。
「私に契約結婚を持ちかけるくらいですからね」
「それで、あの……受け入れていただけるのでしょうか?」
「私の条件も呑んでいただけるのであれば、お受けしたいと思っています」
「本当ですか?良かった……」
ロイスの言葉に、ラーニナはホッと胸を撫で下ろす。
ひとまず契約結婚は成立目前まで来ていた。
「公爵様の条件とはいったい、なんでしょうか」
「簡単ですよ。貴女とお相手の子を私たちの子として後継者に立て、駆け落ちした後も離縁はせずに、貴女の名前を借りるだけです」
「……え」
ラーニナは危うく驚きの感情が顔に出そうになったが、必死でそれを押し殺す。
「正直子供を奪うのは気が引けますが、それがなければ私にとってこの結婚は意味がないも同然ですから」
「それを一年以内に……」
「ああ、受け入れてくれるのであれば期間は設定いたしません。一年以内は酷でしょうし、重圧を感じては上手くいかないことの方が多いでしょう。好きなだけいてくださって構いません」
「私の名を借りるというのは」
「貴女は病に臥せっていることにして、離縁はしないということです。そうすれば、後妻を迎える必要もありません」
ラーニナは無理だと拒否したくなったが、そうすれば結婚話がなくなってしまう。
(やはりロイス様を堕とせなければ、大人しく領地へ帰りましょう)
ここはロイスの条件を受け入れることにした。
このチャンスを逃す方がラーニナにとって痛いのだ。
「ああ、もちろん子を残さずに駆け落ちしようものなら、どんな手を使ってでも捕まえて契約違反の代償を払っていただきますのでお忘れなく」
「……もちろんですわ」
(どうしよう。わたくし、生きて帰れるかしら)
もしロイスを騙していることがバレれば、タダでは済まない。
両親にも迷惑をかけてしまうかもしれないと思うと、ラーニナには一つの選択肢しか残っていなかった。
それは……ロイス・アメジストを堕とすこと。
(弱気になってはいけない!ロイス様への想いは、生半可なものではないのだから)
ラーニナは心を強く持ち、覚悟を決めた。
◇◇◇
結婚式は大々的に行われた。
ラーニナの両親は、早速結婚に漕ぎ着けたことに驚いていたが、勝負はここから。
結婚式を終え、ラーニナはアメジスト公爵夫人として屋敷に迎えられた。
(エメラルド公爵邸とは違って、なんか……とても陰気くさいわ)
アメジスト公爵邸は、明るい昼間でも夜のように暗くて静かだった。
使用人の数も少なく、終始忙しそうに動いている。
一方でロイスは屋敷を開けている日が多く、中々顔を合わせる時間がなかった。
(屋敷では好きにしていいと言われているけれど……)
ラーニナは結婚初日の、ロイスとの会話を思い出した。
ロイスからは、屋敷にいる間は好きにして構わない、駆け落ちの資金も惜しみなく出そうと言われていて、本当に相手がいるのなら喜んでいただろう。
ロイスはこの関係の期間を設けないと話していたが、願わくば早く屋敷を出て行って欲しそうだった。
(まあわたくしは本当に好きにさせてもらうけれど)
ラーニナは早速、ロイスを堕とす第一計画を進めることにした。
それはアメジスト公爵家の使用人を抱き込むこと。
(使用人に好かれることは、わたくしを有利にさせるはず)
早速実行に移そうとするが、使用人が中々捕まらない。
みんな真面目に働いていて、付け入る隙がないのだ。
「奥様、お茶をお持ちしました」
「あら、ありがとう」
唯一接点があるのは、侍女のミリアだけ。
ミリアはラーニナと歳はあまり変わらなかったが、必要最低限の会話しかせず、侍女の仕事を全うしていた。
(ここの使用人はみんなロイス様のようにポーカーフェイスなのかしら!)
ミリアは微笑みひとつ見せてくれず、常に無表情。
話しかけても素っ気ない返事しかない。
「今日もいい天気ね」
「左様でございますね」
使用人との距離は中々縮まらなかったが、生活に不自由はなかった。
ゆっくりと寛げる部屋に、豪華な食事。
空いた時間は本を読んだりと、のんびりと過ごしていた。
(このままじゃいけないわ!わたくし、家ではもっと活発に動いていたのに)
ラーニナは立ち上がり、ミリアに視線を向ける。
「ミリア。わたくし、体を動かしたいわ」
このままだとロイスを堕とすどころか、怠け者になってしまう。
食べては寝てを繰り返していると、そのうち太るだろう。
エメラルド公爵家では、乗馬や剣術も嗜んでいたラーニナは、ここでも同じことをやろうと思った。
「奥様、本当によろしいのでしょうか?」
ラーニナは早速乗馬の準備をしていると、初めてミリアの表情が変わる。
不安そうな、どこか心配そうにしていた。
「わたくし、乗馬は得意なの。ミリアも一緒にどうかしら?」
「いえ、私は一介の侍女ですので……」
「貴女がやりたいかどうかを聞いているのよ」
ラーニナの両親は、あまり身分を気にしない人だった。
彼女もそれの影響を受けていて、これまで身分など関係なくたくさんの人と関わってきた。
今もミリアを侍女としてではなく、一人の女性としてそう尋ねていた。
「……私は」
「乗馬経験はあるの?」
言いにくそうにしているミリアを見て、ラーニナは質問の仕方を変える。
「はい、ある程度はできます」
「だったらミリアも一緒に乗りましょう」
ラーニナの一言で、ミリアも馬に乗る。
広大な土地を二人で走り、風を気持ちよさそうに浴びていた。
「うーん、いい気分転換になったわ」
ずっと室内で座りっぱなしだったのが体にきていたようで、乗馬が終わる頃にはスッキリしていた。
ミリアも乗馬のレベルが高く、二人は楽しそうだった。
「ありがとうミリア、わたくしに付き合ってくれて」
「いえ、お礼を言われる筋合いはありませんので」
「楽しかったからお礼を言いたいの!また一緒に走りましょう」
「……奥様のお望みであれば喜んで」
ミリアは無表情ながらも、どこか嬉しそうな雰囲気を纏っている。
ラーニナはそれを読み取り、ふっと微笑んだ。
(きっと感情を表に出すのが苦手なのね)
体を動かした後、お腹を空かせたラーニナは何か作ろうと厨房へと向かう。
領地で採れた食材を使って料理をすることもあったラーニナは、貴族にも関わらず料理が得意だった。
エメラルド公爵家では、令嬢らしからぬ姿のラーニナを反対する者は誰もおらず、むしろ日常と化していた。
しかし今いる場所はアメジスト公爵家。
周りの反応は違っていて当然……はずが、使用人の誰もが否定的ではなく、ラーニナに興味を示していて肯定的だった。
「奥様、素晴らしい腕ですね」
「子供の頃からよくお母様やメイドたちと一緒に作っていたから得意なのよ」
ラーニナはアップルパイを作り、その腕の高さにシェフをも唸らせた。
「さあ、せっかくなのでみなさんでいただきましょう」
ラーニナの一言で、使用人たちが集められる。
突然の招集に何事かと心配している人もいたが、次第に漂う甘い匂いに意識を持っていかれた。
ラーニナは紅茶を淹れ始め、全員にアップルパイと一緒に配られる。
「こちらのアップルパイはわたくしが作りました。味には自信がありますので、みなさん召し上がってください」
最初は皆、緊張した面持ちだったが、一口食べるとすぐに表情を和らげた。
誰もがアップルパイを食べ進め、あっという間に完食していた。
「奥様、とても美味しいです」
「本当?良かったわ」
最初は物静かな使用人が多いと思っていたが、アップルパイを美味しそうに食べて話している姿は、エメラルド公爵家の使用人との差はなかった。
明るい笑顔に元気な声……そこは活気に溢れていた。
「正直最初は暗い印象だったけれど、みんな明るくて良い人たちばかりね」
ティータイムを終え、ラーニナは自室へと戻る。
先程のことを思い返してミリアに話しかけていた。
「初めてかもしれません」
「うん?」
「このように使用人たちが集まって、楽しく過ごすのは……いつもは静かなので」
「じゃあ定期的に開催しましょう」
「え……」
「わたくし、料理するのが大好きだからちょうど良かった」
こうしてラーニナは使用人たちと少しずつ、けれど確実に距離を縮めていくことに成功した。
暗かった屋敷内も、いつしか明かりや花瓶、絵画などの飾りも増えていき──
「これはいったい……」
「ろ、ロイス様⁉︎」
ある日。
使用人と廊下の飾り付けについて話していると、突然ロイスが屋敷に帰ってきた。
結婚後、しばらく家を空けていたため、屋敷の変わりように一番驚いていた。
(しまった……!わたくし、本来の目的をすっかり忘れて今の生活を楽しんでしまっていたわ!)
慌てて身なりを整え、ロイスに声をかける。
「ロイス様、お帰りなさいませ」
「……ああ、ただいま」
またすぐに冷静になり、柔らかな笑みを浮かべるロイス。
ラーニナは何とかして距離を縮めたかったが、すぐには方法が思いつかず、今は大人しくロイスを見つめることにした。
(はあ、今日もロイス様は美しい……久しぶりにお会いしたけれど、最後に会った時よりさらに磨きがかかっているわ)
心の中ではデレデレしつつ、顔に出ないよう作り笑いを浮かべるラーニナ。
「ラーニナ。少し私と話をしませんか?」
「ええ、もちろんです」
ロイスの誘いに乗り、ラーニナは彼の執務室へと足を運ぶ。
その時に、今日たまたま作っていたチョコレートトルテとコーヒーを持っていく。
「失礼いたします」
執務室に入ると、ロイスは休むことなく仕事をしていた。
高く積まれた書類を一つ一つ手に取り、処理していた。
「君が手に持っているのは何かな」
結婚後、ロイスはラーニナと二人きりになると口調が変わる。
敬語からタメ口へと変わり、それがまたラーニナの胸をときめかせていた。
「あ、こちらはわたくしが作ったもので……良かったら召し上がって」
「君が……?」
「あ、や、やっぱりわたくしが作ったものは気持ち悪いですよね!すぐに捨てますのでお構いなく」
「せっかく君が作ったのなら、いただこう。ちょうど何か食べたいと思っていたところなんだ」
ラーニナは躊躇いがちにロイスのテーブルへとお菓子とコーヒーを置く。
その言葉は本心なのかと不安に思っていたからだ。
「どうやらここの使用人たちと上手くやっているようだね」
「はい。みなさん、とても良くしてくださって感謝しています」
「君は私の妻だからね、当然だよ。この屋敷にいる限り、不当な扱いは受けさせないと誓おう」
「感謝いたします、ロイス様」
(いま、私の妻って言ったわよね?何という贅沢な一言かしら!)
ラーニナは貴婦人らしい上品な笑みを浮かべた。
考えていることが顔に出ないあたり、かなり手だれている。
「しかし私はどうやら、仕事があるからと言って、結婚後すぐに妻を置いて屋敷をあけてしまった妻不孝者らしい。名誉挽回するために協力してくれるかな?」
「ええ、もちろんです。わたくしは何をしたらよろしいでしょうか」
「最近は王都近くの港が栄えていると聞く。明日、そこはどうだろう」
「本当ですか?わたくし、一度行ってみたかったのです!」
つい子供らしい反応を見せるラーニナ。
今まで、ほとんど領地に籠りっきりだった彼女にとって、領地の外にたくさん憧れていた。
「では決まりだな」
「ふふっ、楽しみです。ではわたくしはこれで失礼いたします」
これ以上ボロが出ないよう、ラーニナは足早にその場を去った。
その日の夜。
ラーニナは部屋で明日のシミュレーションをし、備えようと思っていた。
しかし、部屋にミリアが入ってきて、衝撃の一言を告げられる。
「奥様、寝室へ移動しましょう」
案内された寝室には、すでにロイスの姿があった。
普段よりラフな格好は色っぽさが増していて、ラーニナは興奮のあまり声が出そうになる。
(ロッ、イス様の色気……!)
一方でロイスはラーニナに視線を向けるなり、ニコッと穏やかな笑みを浮かべた。
「契約相手と一緒の部屋にいるのは抵抗があると思うが、これも完璧な夫婦を演じるためだ。せめて同じ寝室で夜は過ごそう」
「ロイス様の仰る通りですわ。わたくしはソファで寝ますので、ロイス様はベッドをお使いになってくださいませ」
ロイスと同じ部屋で過ごすなど、ラーニナにとって緊急事態に等しかった。
普段よりもプライベートが垣間見えるロイスと共に過ごすのは、色々とリスクがあった。
(近くにロイス様が……もしかしてロイス様の寝顔が見られるかもしれない⁉︎)
逃げるようにソファで横になろうとしたが、それをロイスが制する。
「君は料理が得意なのだな」
「……え」
「ティータイムにいただいたお菓子、とても美味しかったよ」
(ロイス様がわたくしの作ったお菓子を召し上がってくれたなんて……!美味しいとのお言葉までいただけて、ありがたき幸せ……)
まさか食べてくれるとは思っていなかったラーニナは、ロイスの言葉がサプライズのように感じた。
「ロイス様のお口にあって良かったです」
ラーニナは今の感情を全てこの一言に詰める。
お菓子を食べてくれた上に感想まで丁寧に伝えてくれたロイスに対し、誠実な方なのだなと思った。
◇◇◇
ロイスとラーニナが馬車で二人になるのは、結婚式以来だった。
「まだ出発したばかりなのに、随分と楽しそうだね。それほど行きたかったのかな」
「申し訳ありません、大人げないですよね……」
「君の年齢を考えると年相応に見えるけれど、公爵夫人の自覚は持って欲しいな」
ロイスの言葉が胸にグサリと刺さり、再び謝罪するラーニナ。
「別に責めているわけではないよ。君は今のところ、公爵夫人の役割を十分全うしてくれている」
「恐れ入ります」
「さすがはエメラルド公爵家の娘なだけあるようだ」
ロイスの声に感情は篭っていない。
形だけの褒め言葉だったが、それでもラーニナは内心嬉しかった。
「ロイス様の顔に泥を塗るわけにはいきませんから」
しばらくして港に到着した。
たくさんの人が行き交っていて、栄えているのがわかる。
馬車が到着して降りると、二人は注目の的だった。
アメジスト公爵家の紋章が入った馬車から出てきたのは二人の男女。
近くにいた人たちは皆、アメジスト公爵夫妻だと認識し、一目見ようとその場で足を止めた。
「私たちは仲睦まじい夫婦を演じなければならない。ラーニナ、私の腕を掴むといい」
「お安い御用ですわ」
ラーニナはすぐにロイスの腕をそっと掴み、微笑みかける。
ロイスも笑みを返し、二人は歩き始めた。
(ああ、わたくしはなんて幸せなのかしら。堂々とロイス様に触れられる日が訪れるなんて!)
周りの目など一切気にしていないラーニナは、ロイスとのデートを堪能していた。
演技と評して隠す必要のない好意を全開にし、ロイスもそれを受け入れる。
側から見れば互いに愛し合っている仲の良い夫婦。
しかし実際はどちらも演技……という体だ。
ラーニナは演技など一切していないのだが、彼女にとって今の状況は好都合だった。
それから二人は店をまわったり、演劇を見たり、船に乗って海を眺めたり……と、長い時間をそこで過ごした。
すっかり日は暮れ、帰る時間は迫っていた。
「ラーニナ、疲れてない?」
「お気遣いありがとうございます。わたくしは平気です。ロイス様こそ、仕事で疲れているのではないですか?」
「今日を楽しみに頑張っていたのだから私も平気さ」
サラッと嘘を吐くロイスは狡い男だ。
過去に何度、この甘い言葉で女性たちを虜にしてきたことだろう。
(まったく、ロイス様って罪深い殿方なのだから……)
ロイスの言葉に頬を赤らめていたラーニナは、慌てて顔を隠そうとした時、近くで悲鳴がした。
「泥棒よ!誰か捕まえて!」
二人は同じタイミングで悲鳴の方へと視線を向ける。
年配の女性が倒れ込んでいて、手を震わせながらも伸ばし、必死に叫んでいた。
その先には帽子を深く被った男が走っていて、偶然にもラーニナたちの方へと向かってきていた。
「怪我したくなかったら退け!」
あっという間に距離が縮まり、男の標的にラーニナが入ってしまう。
男は短剣を持っていて、誰も近づけないよう振り回しながら逃げていたが、その短剣がラーニナの元へ向けられる。
「ラーニナ、危ないから下がって」
ロイスは近くに控えていた剣を抜き取り、ラーニナを庇うように男へかざそうとする。
しかしその前に、桃色の髪が靡いた……とほぼ同時に、男の呻き声が聞こえてきた。
「弱い者を狙って傷つけるなど、恥を知りなさい」
ラーニナは武器を使わず、生身で男を倒してみせた。
彼女は剣術や馬術の他に、エメランド公爵直伝の体術も習得していたのだ。
それが護身術として活かされていた。
すぐに警備隊が到着し、男の身柄を確保。
無事に襲われた老婦の元に盗まれた鞄が戻っていた。
警備隊はロイスが犯人を捕獲したと思っていたが、多くの人たちがラーニナのことを目撃している。
バレるのも時間の問題だろう。
ラーニナはすぐに「ロイス様、怖かったですわ」と渾身の涙演技を披露したが、それで騙せる人間などいないに等しい。
「申し訳ありませんでした……アメジスト公爵家に多大なるご迷惑を」
「君に怪我がなくて良かった。それよりどうして前に出たの?」
「それは……」
(ロイス様はあの男を殺すつもりだっただろう。悪人に死の制裁を加えることに、なんの躊躇いもない人だから)
ラーニナがロイスに助けられた時もそうだった。互いに男の血飛沫を浴び、彼女は人が死ぬのを前にして恐怖で震えていた。
(悪人を捌いているだけなのに、平気で人を殺める姿が人々に恐怖を与えてしまっている)
「人が死ぬのを見たくなかった?私が殺そうとしたから」
「……っ」
全てを見透かしているような目を向けられ、ラーニナは肩をビクッと震わせる。
「悪人には死を持って制裁を、これが私の正義なんだ。君はこんな簡単に人を殺めてしまう私が怖いだろう」
「いいえ。怖くありません。わたくしはロイス様が心優しいお方だと知っております」
あの日。
ロイスは自身の上着をラーニナの肩にかけ、もう大丈夫ですと微笑みながら安心させてくれた。
その優しさに、ラーニナは心を落ち着かせることができた。
「私が優しい……?」
「はい。だって先ほどもわたくしを守ろうとしてくださったのでしょう?ただ、今回の一件でロイス様の悪評がさらに広まってしまうと思うと、いてもたってもいられなかったのです」
ロイスは自身の正義を貫いているだけ。
そこには悪を許さぬという強い意志が感じられる。
「悪評にやられるほど、アメジスト公爵家は弱くないよ」
「単にわたくしが嫌だったのです。ロイス様の妻として、貴方の味方でいさせてください」
「……君が、私の味方?」
「ええ。わたくしはロイス様の味方です」
ラーニナはニコッと優しく笑む。
その姿にロイスは少し驚いた様子だったが、こうしてデートは幕を閉じた。
それ以降、二人の時間は増えていった。
一緒に食事をとったり、寝る前に言葉を交わしたり。
夫婦らしいことは何一つなかったが、ラーニナはロイスと過ごす時間が幸せで堪らなかった。
「ラーニナ。そこで何をしているんだい?」
「あっ、ロイス様!」
アメジスト公爵家の庭園に興味を持ったラーニナは、庭師の指導を受けながら庭の手入れをしていた。
ロイスが屋敷にいる時も今までと変わらず、自由気ままな生活を送っていたラーニナ。
その姿を屋敷の窓から眺めていたロイスが、彼女に声をかけたのだった。
「今は庭の手入れを体験していますの。こちらの庭園が魅力的で、庭師の手腕が気になりまして……」
「では今から一緒に庭園でお茶でもどうかな?」
「まあっ、嬉しいですわ。すぐに用意して参ります」
ラーニナはとてもお茶をできる格好ではなかったため、急いでドレスに着替える。
すでにロイスが待っていて、ラーニナは慌てた様子で声をかけた。
「お待たせして申し訳ありません」
「構わないよ。それより、先ほどの姿とは似ても似つかないね」
(うっ……さすがに好き勝手やりすぎたかしら。ロイス様の誘いに浮かれていたけれど、明らかにロイス様の機嫌が良くない……でも今日も美しいわ)
ロイスの棘のある言い方に、ラーニナは苦笑する。
「この間は馬の世話をしたり、騎士団の鍛錬にも参加していたらしいね?」
「はい!とても楽しかったですわ」
「お菓子作りもまだ続けていると?」
「ええ……あの、ロイス様?」
(やっぱり怒っていらっしゃる……⁉︎早く駆け落ちする準備や子を作れとかって思っているのかしら)
ラーニナは深読みしてしまい、落ち込んでしまいそうになったが、隙を見せないよう気を引き締める。
「怪我でもしたらどうするんだい?もう少し自分の体を大切にしないと」
「え、あっ……そ、そうですわね!わたくしの悪い癖かもしれません」
心配そうに見つめられ、ラーニナの胸が高鳴った。
その表情に騙されてはいけないのに、本心かもしれないと信じたくなった。
「今後は私も同行しよう。ミリア、ラーニナが何かする時はすぐに報告してくれ」
「えっ」
「かしこまりました」
「そんな、ロイス様の時間を割いていただくわけには」
「ラーニナ。私たちは夫婦としてもっと一緒に過ごすべきだと思わないか?お互いのことを知っていこう」
どこか熱い視線に耐えられず、ラーニナは思わず俯いた。
(これが演技だなんて、さすがロイス様……恐ろしいほど魅力的な方……危うくその瞳に吸い込まれそうになったわ)
早く返事をしなくてはと思い、気を取り直して顔を上げる。
「わたくしもそう思います」
「では決まりだね。じゃあ早速、私から君に聞きたいことがあるんだ」
「わたくしに、ですか?」
「君の愛する人の名前、教えてくれないか?」
想定外の質問にラーニナは目を丸くする。
しかしロイスには何か裏があってこの質問をしたのだろうと思い、理由を探ろうとした。
「突然どうなさいましたか?」
「ずっと知りたかったんだ。私は子を奪う側として、その責任はしっかりと負いたい。だから君の相手のことも知っておきたくて……叶うなら、相手とも一度話してみたいな」
(わたくしの愛する人の名前はロイス様ですと言えたら、どれだけ良かっただろう……けれど、それは許されない)
ラーニナは結婚後も、怪しまれないよう嘘の駆け落ち相手と何度か会っていた。
そのおかげで信憑性が増し、責任を負うと言ってくれているのかと彼女は思った。
「相手の名前はマイケル・ダドリですわ」
(まあ、偽名だし身分も偽ってくれているのだけれど)
ここで答えなければ返って怪しまれるかもしれないと、ラーニナは素直に相手の名前を伝えた。
「そうか、教えてくれてありがとう」
ロイスの満足そうな笑みを見て、ラーニナは胸が締め付けられるように苦しくなった。
◇◇◇
その日の夜。
ロイスより先にラーニナが眠りにつくと、部屋に医者が入ってきた。
女性の医師は恐る恐るラーニナの体に触れたり、脈拍をとったりしていた。
しばらくして、診断が終わった医師がベッドのそばで座っているロイスの前で跪く。
「身籠っている可能性は極めて低いでしょう」
「そうか、ならいい」
医者は褒美を受け取り、部屋を後にする。
ロイスはラーニナの寝顔を見つめ、愛おしそうに微笑んだ。
「お呼びでしょうか」
医者と入れ替わるように部屋へ入ってきたのは、アメジスト騎士団の団長だった。
「ああ、そなたに頼みたいことがあってね」
ロイスはラーニナの髪を撫で、言葉を続ける。
「人を探して欲しい。マイケル・ダドリという平民の男だ」
「承知いたしました。見つけたらいかがなさいますか」
「その場で殺せ、もちろん内密に。跡形もなく片付けるんだ」
団長が去った後、そばに控えていたミリアが口を開いた。
「本当によろしいのですか。もし奥様に伝わってしまえば……」
「君の主人はいったい誰だ?彼女ではなくこの私だろう。相当肩入れしているようだね」
「……申し訳ありません。ですが」
「そうだなあ。マイケル・ダドリは他の女性と浮気していて、その女性と駆け落ちしたことにしようか。目撃証言もあって信憑性は極めて高く、それを知ったラーニナはひどく悲しむだろう」
困惑気味のミリアだったが、彼女ではロイスを止められず、大人しく受け入れるしかなかった。
「傷ついた彼女に私は寄り添い、支える。相手のことなんてすぐに忘れさせてあげるよ。弱みに付け込むことで、早く彼女を手に入れられると思わないか?」
狂気じみたロイスを前に、ミリアは口を開くことすら躊躇われた。
「私をこうさせたのはラーニナだよ」
深い眠りについているラーニナは、すでにロイスが自分に堕ちていると気づくことはなかった。
こうして、両片想いのすれ違いが幕を開けたのだった。




