05
気の乗らない足取りで処置室まで帰ってきて、おそるおそる扉を開けて中を覗く。治療はとうに終わったと見え、榊と高城は二人で何事かを話し合っていた。既に若い看護師の姿はない。
こっそり様子を窺っている私に気付いたのは、高城の方だった。にっこり、と満面の笑みを見せてくる。次いで、高城の様子から私に気付いた榊が、ちょいちょい、と手招きをした。
「失礼します」
私は小声で言って、室内に足を踏み入れた。とても居たたまれない気分。二人の視線が痛い。
「西尾、高城はこの後も精密検査がある。その間、付き添ってやってくれるか?」
幸いなことに、榊は先程のことには全く触れなかった。敢えてだろう、全然違う話を振ってくれる。
もっけの幸いとばかりに、私も気持ちのスイッチを切り替えた。
「はい、わかりました。大丈夫です」
返事をしながら高城に目を向けると、彼はやたらと上機嫌な様子で私を見つめていた。
「西尾さん、もしかしてさっき、ヤキモチを焼いてくれたんですか?」
あは、と心の底から嬉しそうに聞いてくる。せっかく榊が話題を避けてくれたのに、無遠慮に蒸し返してくるとは。
「違います」
自分でも、苦虫をかみつぶしたような顔をしてしまっているのがわかった。
「嬉しいですねぇ。あ、でも安心してくださいね。僕は西尾さん一筋ですから」
にぱー、とこちらの返答をまるで聞いていないような言い種に、私の堪忍袋の緒が突発的に切れた。
「ち・が・い・ま・す! だから違うって言ってるじゃないですか! どさくさに紛れて変な冗談を言うのはやめてくださいっ! ああもおっ! 心配してたんですっ! すごい大怪我をしているかもって思ったんですっ! だから無事だとわかってほっとしただけなんですっ! それだけなんですっ!」
がー、と早口で捲し立てる。若干は不完全燃焼なところがあったが、これはこれで多少の発散にはなる。
私はそのまま矛先を榊へと転じた。
「というか榊警部は知ってましたよね!? どうして言ってくれなかったんですか!?」
すると榊は意外そうに眼を瞬かせて、
「おっ? 言ってなかったか? いや俺は来る途中、車の中で言った気もするんだが」
「えっ」
思わず絶句する。
言われてみれば確かに、病院に来るまでの記憶はひどく曖昧だ。正直、ほとんど自信がない。故に、榊が話しているのに私が聞いていなかった可能性は――
「――って、なにニヤニヤしているんですか警部っ!」
なかった。そんなものはこれっぽっちもなかった。
「おおっと、こいつはしまった。失敬失敬」
わざとらしくおどけて笑う榊に、今度は私の堪忍袋そのものが破ける。
「ああもうっ! 無事なら無事ってちゃんと言ってくださいよ! どれだけ私が心配したと思っ――」
そこで唐突に、自分の失言に気付いて舌を止めた。
が、時すでに遅し。
高城が幸せそうな顔でこちらを見つめている。
「いやぁ……本当に嬉しいなぁ……西尾さんが、そんなにも僕のことを心配してくれていたなんて……」
「――~ッ……!!」
顔から火が出るほど、というのはまさにこんな時のことを言うのだろう。
「そういえば、朝のテレビの占いだと今日はラッキーデーだったんですよね。こんな怪我を負わされてラッキーも何もないと思っていたんですが、いや、まさかの僥倖ですよ。確かに今日はラッキーデーでした。占いって当たるものなんですねぇ」
何がラッキーデーなものか。私にとってはアンラッキーにも程がある。大体いい歳した大の大人が占いなんてあやふやなものを信じてどうするのだ。女子高生でもあるまいに。
高城も榊も、怪我人や上司でなければ、どちらも一発ぐらい頭をぶん殴ってやったものを。
「まぁ、冗談はほどほどにしておいて、そろそろ真面目な話をしよう。高城、何があったか話せるか?」
くつくつと笑っていた榊だったが、頃合いを見て話題を切り上げてくれた。こういった割り切りの良さは以前から尊敬に値すると思っていたが、今日ほどありがたいと思ったことはない。
「はい……と言っても、申し訳ないことに『よくわからない』としか言いようがないのですが……」
榊のおかげで室内の空気が引き締まり、私をからかって緩んでいた高城の表情も、自然と固くなった。
「西尾さんが出て行った後、すぐにアパートの大家さんが木島の部屋まで来られました」
おぼろげな記憶ながら、私が黒尽くめの男達を見つけて部屋を飛び出して行った経緯については、ここに来る車内で榊に報告してある。
「それで一緒に話をしながら部屋を調べていたのですが、突然、後頭部に衝撃を受けまして……」
「相手の顔は見たか?」
榊の質問に、高城は首を横に振った。
「それで、一度は気絶したんだと思います。次に気が付いた時には、目の前が火の海になっていました。慌てて起き上がり、大家さんの姿を探したのですが……どうやら僕と同じく、後頭部に打撃を受けたらしく……残念ですが、その時にはもう、亡くなられているようでした……」
普段はあまり寄らない高城の眉根が、深い皺を刻む。俯き、語尾がわずかに震えた。
「――で、しばらくして消防隊が入って来て、大家ともども救出されたわけだな」
「はい……と言っても、大家さんは焼死体だったのですが……」
どうも倒れた場所が悪かったのか、高城が発見した時にはもう全身に火が回っていたらしい。逆に言えば高城は運がよかった。焼かれてしまう前に意識が戻ったのだから。
榊が携帯端末を取り出し、画面を見ながら渋面を作る。
「さっき連絡があったが、火は無事に消火されたそうだ。ただ残念ながら、あそこにあった証拠品はほとんど台無しになっちまったらしい。火と水でグッチャグチャだってな」
さもありなん。あれだけ古い木造アパートだ。火の回りは早かっただろうし、そこに強烈な放水まで受けたらどうなるか。想像に難くない。
「――そういえば、押し入れで見つけたメモと薬は?」
私はふとその存在を思い出し、高城へと目を向ける。だが、高城は面目なさそうに首を振った。
「すみません、西尾さん。どうやら一緒に燃えてしまったみたいで……」
「そんな……」
折角の手がかりだったのに、とは思ったものの、高城を責めても仕方のないことだ。
「鑑識と科捜研の連中は今頃、雁首揃えて頭を抱えているだろうが……しかしま、命あっての物種だ。高城が無事で本当によかった」
榊が笑いながら言うと高城が椅子から立ち上がり、包帯の巻かれた頭を深々と下げた。
「ありがとうございます、榊警部。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「気にするな。こんな仕事だ、こういうこともある」
榊は頷きを一つ、頭を上げた高城の肩を軽く叩いた。榊は高城よりも一回り以上年齢が上で、身長でも僅かに超えている。端から見ると、叔父と甥っ子のように見えなくもない。
「よし、じゃあ次はお前だ、西尾。車の中で軽く聞いたが、今度は詳しく聞こう。どうして高城と別行動をとった?」
そういえば、高城にはまだ黒尽くめの男達の話をしていなかった。私の独断専行の煽りを喰った彼には、誰よりも聞く権利がある。
「実は……」
私は出来るだけ客観的に当時の状況を報告した。アパートの向かいの駐車場に奴らの姿を認めたこと。血気に逸って飛び出し、そのままパルクールじみた追走劇を演じたこと。とあるスーパーの屋上まで追い詰めたが、そこで取り逃してしまったこと。
しかしながら、大男に言われた忠告――警告?――については伏せるしかなく、敢えて排除した。
『君のすぐ近くにいる奴に気をつけろ、巴』
あれは誰のことを指していたのか。そして何故、奴らは私のことを知っていたのか。全ては不明だ。うまく説明ができない。
それにしても――私のすぐ近くにいる人間と言えば、榊や高城を筆頭とした捜査一課の面々である。気をつけるどころか、信頼しなければならない相手ばかりだ。当然、あんな怪しい人物の言葉など信用するに値しない――とも思うのだが、心のどこかで気にしている自分もいる。
故に、私はその件については敢えて口にしなかった。ほとんど直感的な判断によって。
「……そうか、今度はいきなり姿をくらましたか。いよいよもって、オカルトじみてきたな」
犯人が狼男という説は、無論のこと榊も耳にしている。そのせいか私の荒唐無稽な報告を聞いた彼は、呆れるように溜め息を吐いた。
「すみません……」
目の前にいたはずの人間二人が姿を消した――自分で言っておきながら随分な報告だと思う。容疑者を取り逃した言い訳としては愚にもつかない。子供とてもっとましな理由を考えるだろう。
「なに謝ってるんだ、西尾。別にお前の言うことを疑っちゃいねぇよ。お前が目の前で掻き消えたってんなら、間違いなく掻き消えたんだ。そこには何らかのカラクリがあるはずだ」
「……ありがとうございます」
全幅の信頼を示してくれる榊に、私は頭を下げた。未だ、あの大男と銀髪が姿を消した方法はわからない。が、いずれ必ず突き止める。私の中でその決意が新たに固まった。
「だが、かなりキナ臭くなってきたのは違いねぇ。お前達が見たっていう黒尽くめ二人だけに限らず、な」
んんっ、と榊は咳払いを一つ。これから言いにくいことを言うぞ、という間を置いてから、
「実はな、ここだけの話……署内部の情報が漏洩している可能性がある」
低く押し殺した声で告げられた内容は、驚愕に値するものだった。決して弱くない衝撃が走り、私は思わず高城と顔を見合わせる。
「何がどうってわけじゃねぇが……どうも重要な情報ばかりが『裏』に流れている節がある。ガサ入れの日時や証拠品の保管場所……場合に寄っちゃ、あるはずの書類や物品がなくなってたりしててな」
榊の言う『裏』とは、そのまま『裏社会』を指す。いわゆる『反社会的勢力』というやつだ。暴力団に限らず総会屋、詐欺集団、半グレ、カルトなどを包括してそう呼称する。
「そ……それって、」
思わず声が上擦った。情報のリークに加えて、書類が物品までなくなるということは―
「内通者がいるってことじゃないですか!」
榊は、ああ、と頷き、
「さらに言うとだ。全部が全部、関連しているかどうかわからんが……ここ最近は奇妙なことが多すぎる。俺達が追いかけている連続殺人事件もそうだが、他にも新しい薬物の噂に、行方不明者の増加……俺の気のせいならいいんだが、やけに『裏』の奴らが活発になってきている気配がある」
気配、と榊は言う。それはベテランだけが感じ取れる、長年の勘というものだろうか。具体的な根拠のある話ではなかろうが――あるなら榊は必ずそれを提示する――、熟練した刑事の直感は一笑に付せるものではない。
「極めつけは、目の前からマジックみたいに姿を消す男共に、アパートに火を点けて証拠品を全焼させる謎の野郎だ。どうにも嫌な予感がする」
ふぅ、と榊にしては珍しく重苦しい息を吐いた。
あまりのことに私は言葉を失う。もし、もしもだ。榊の直感通り、全てが繋がっているのだとしたら――
それはもはや一警察署の一部署でしかない私達の手には、余りある事象なのではなかろうか。
下手をすれば、国そのものがひっくり返るような――そんな壮絶な予感が、私の背筋を凍えさせた。
「まぁ、ここで言ってもキリがねぇが、要はそういうことだ。お前達も気にだけはしておいてくれ」
自分の手には余ることかもしれない、と榊も承知しているのだろう。不完全燃焼ながらも、そこで話を締めた。私と高城に注意だけ促したかったらしい。
私は再び高城と互いの顔を見合わせ、何とも言えない感覚を共有し合う。
「よし、じゃあ俺はまだやらなきゃならんことがあるから、いったん署へ戻る。西尾」
「は、はい?」
急に榊がこちらに振り返ったので、思わず声が詰まってしまった。
「お前はこのまま高城の付き添いをしてやってくれ。なにせ怪我人だからな、一人で行動させるわけにはいかん。それに、お前も色々と疲れたろう。今日はもう署に戻らなくていいから、ここの手続きが済んだら直帰しろ」
「……はい、わかりました」
いえ、そんなことは――と言いたいのを我慢して、私は頷いた。榊の言葉には色々と含みがあると気付いたのだ。
怪我人だから、ではない。そも、高城と私は相棒なのだ。そんな理由などなくとも二人で行動しなければならなかったし、そうしなかったからこそ高城は怪我人になったのだ。
今日は反省して帰れ――榊はきっとそう言っているのだった。
「いいか、西尾。無理だけはするな。いいな? 無理だけはするんじゃないぞ。わかったな?」
「……はい、わかってます」
「ならいい。それじゃな」
しつこく念押しをしてから、榊は去って行った。
あれほど榊が釘を刺したのは、おそらく私の表情が原因だろう。自分でもびっくりしている。いま気付いたのだが、どうやら私はかなり気が立っているらしいのだ。
高城を襲った奴を絶対に見つけ出してブチのめしてやる――と、そんな風に息巻いている自分が心のどこかにいた。そいつは飢えた獣のように獰猛で、狭量で、偏屈で――堪え性のない奴だった。
「あの、西尾さん」
落ち着け、冷静になれ――と自制している私に、高城がおずおずと話しかけてきた。
「その、なんと言いますか……元気、出してください。僕が言うのも何なのですが」
私は目を伏せ、首を横に振った。
「いえ、高城警部補がこんな目にあったのは、私が勝手な行動をとったからです。私が一緒に行動していれば、きっとこんなことには……」
「西尾さん……」
高城の声に困惑の色が混じる。彼なりに私を気遣ってくれているのだろう。だが、今はその優しさこそが痛い。
暗い気分に沈み込む私の耳朶を、ノックの音が震わせた。
「高城さーん、お待たせしましたー」
処置室の扉が開いて顔を出したのは、先程、高城の頭に包帯を巻いていた白衣の天使である。
「これからCTを撮りますから、ちょっとこちらに来ていただけますー?」
「ええ、はい。わかりました」
高城が椅子から立ち上がり、看護師に頷いた。
「では西尾さん、申し訳ありませんが少々お待ちいただけますか?」
「もちろんです。急がなくても大丈夫ですから、ゆっくり検査してきてください」
戻ってくるまでは待合室で待たせてもらおう、と同じように部屋を出ようとした私に、高城が一歩近付いてきた。
「いいえ」
すっ、と目の前に影が差す。驚いて見上げると、これまで見たこともないような真剣な表情で、高城が私を見つめていた。
「?」
どうしたのだろうか、と首を傾げる。ふと高城の顔に違和感を覚え、いつもかけている眼鏡がないことに気付いた。襲われた際に破損したか、現場で紛失してしまったのだろう。
「急いで終わらせてきますので」
にっこり、と柔和な笑みが高城の顔に戻ってきた。遅れて、眼鏡がないため距離を詰めて私と目を合わせに来ていたのだ、と気付く。
「では、また後ほど」
そう言い置いて、高城は処置室を出て行った。
彼の背中を見送ると、途端に廊下の向こうから女性看護師の嬉しげな声が聞こえてくる。細かい内容までは聞き取れないが、ほぼ一方的に話しかけている彼女に対し、高城もまんざらでもない様子で応えているようだ。
相変わらずモテる人だ、と私は嘆息した。正直、高城は私のタイプではないので彼女や署の女性陣の気持ちなどさっぱりわからないのだが。
「……なーにが『僕は西尾さん一筋ですから』よ」
処置室を辞して待合室に向かいながら、私は小さな声で呟く。女性と話す高城はいつだって楽しそうだ。なにせ、初対面の女性を白衣の天使などと褒めそやす男である。軽妙浮薄すぎて全く信用ならない。
だが、それもむべなるかな。彼の出自を考えれば、あんな風になるのも無理はない気がする。
父親は警察組織の幹部で、母親は大病院を経営する医者。親戚には政治家も多く、一族そのものが俗に言う『上流階級』だ。また着ている服や靴からもわかる通り、かなりのお金持ちであり、学歴も身長も高く、顔も芸能人並みに整っている。まさに役満。人生というゲームにおける勝ち組。天は二物を与えずというが、何かの手違いで三物も四物も与えられた選ばれし人間だ。
調子に乗ってしまうのも無理からぬことだろう。
そんな高城と相棒として行動を共にしているが故、当然ながら私に対する署の女性陣からのやっかみは相当なものだ。
出会いが少ない業種なのもあってか、婚期を逃すまいと目を光らせる彼女らの顔付きはまさしくハンターのそれ。これで優越感に浸れる程の余裕が私にあるのなら話は別なのだが、残念なことに、私は高城に対して一切のときめきを感じていない。
言い寄られたり口説かれたりしているような気もしないでもないのだが、彼の言葉と態度が軽すぎてつい本気を疑ってしまう。
「コーヒーは……もういいか……」
人気の少ない待合室に着いて自販機が目に入ったが、先程も飲んだことを思い出し、そのまま端っこの椅子に腰を下ろした。
「はぁ……」
無意識に溜め息を吐いてから、自分を憂鬱にさせている理由の一つを思い出す。
そういえば、先述の通り署のアイドルである高城に怪我をさせてしまったのだ。この件は瞬く間に女性陣の隅々にまで知れ渡り、あちこちで私に対する罵詈雑言、怨嗟、憎悪の声が大量生産されることだろう。
また、彼は幹部の息子――つまり『お客さん』なのだ。上層部からもバカでかい雷が落ちるに違いなく、私も榊も、始末書で済めば御の字といったところだろうか。
全部わかった上で、先程の榊は私をからかって笑っていたのだろうか。つくづく、大した人である。
榊はああ見えて――いや、見ての通りと言うべきか――ノンキャリアからの叩き上げだ。これまで扱った事件は数知れず、その頼りがいある背中で捜査一課の面々を率いてきた。今のような逆境など、日常茶飯事の人生だったに違いない。
とはいえ、捜査の達人も家庭では形無しだったらしく、最近は小学生の娘さんを間に置いて離婚調停中だとか。
「あの人に比べたら、落ち込んでいる場合じゃないか……」
奥さんと子供と別居中でも、しっかり仕事に専念している人がいるのだ。自分が落ち込むなど、甘ったれにもほどがある。
「……よし」
私は音が鳴らないよう、軽く両手で自分の頬を叩いた。そろそろ頭を切り替えろ。冷静に、落ち着いて、事件のことを考えるのだ。
†
高城が検査を終えて戻ってきたのは、小一時間ほど経った頃だった。
その頃にはもう私の精神は立ち直っていた。
逆に考えたのだ。高城は死ななかった。もしかするとアパートの大家のように殺されていたかもしれないのに、生還できた。そう考えれば、彼が生きている現状はまさに九死に一生を得た幸運ともいえる――そう考え直したのである。
「すみません、西尾さん。お待たせしました」
「いえ、全然大丈夫です」
皮肉でも強がりでもない。実際、私はずっと事件や何やらの思考に没頭して時を忘れていた。むしろ、もう戻ってきたのか、という感覚である。
「詳しい検査結果は後日になりますが、ひとまず異常は見つからないので安心していい、とのことでした」
高城の報告に、私も胸を撫で下ろした。
「それなら一安心ですね。でも、後頭部に打撃を受けて気を失ったわけですから、油断は禁物ですよ」
「はい、お医者さんからも要注意・要安静と指導されました。何かあったらすぐ言いますね、西尾さん」
「いえ、そういうことは私じゃなくて、真っ先に病院に言ってください」
私は彼の母親ではないのだ。何かあったからといって私を頼られても困る――という意味で言ったのだが、これは少々塩対応だっただろうか? とわずかに後悔していると、
「はい、そうしますね」
何故かやけに嬉しそうに高城が相好を崩した。今の返答のどこに喜ぶ要素があったのか、さっぱりわからない。
ともあれ高城が会計窓口で手続きや支払いなどを済ませている間に、私は携帯端末で榊に結果を報告した。
戻ってきた高城と共にロビーを抜け、正面玄関からエントランスへ出ると、日はとうに暮れていた。十二月も半ばを越え、冬至も間近。日暮れは加速度的に早くなっている。
小高い丘の上にあるこの病院では、植え込みにある枯れた木々の隙間から遠く街の灯が認められた。綺麗な風景だと最初は思ったが、あのどこかに殺人鬼が潜んでいるのかと思うと、急に空恐ろしくなってくる。
肌を突き刺す夜風の中、私達はタクシーの発着場へと向かう。その途上でのことだった。
「大丈夫ですよ、西尾さん。きっと何とかなりますから」
「えっ?」
出し抜けの言葉に、私は隣を歩く高城に視線を向ける。口から白い呼気をこぼす彼は急に立ち止まり、つられて私も足を止めた。
高城は私に向き直り、いきなり深々と頭を下げる。洒脱な髪型があっという間に下へ降りて、
「申し訳ありません」
唐突の謝罪に、私は虚を突かれた。
「え、え? ちょ、ちょっとどうしたんですか、警部補? やめてください」
慌てて面を上げてもらおうとするも、
「いいえ、今回の件について僕はあなたに謝罪しなければいけません。本当に申し訳ありませんでした」
「そ、そんな、謝るのは私の方で……! だって、私が離れたばっかりに――」
そうだ。私の方こそ、彼に謝らなければならなかったのだ。成り行きで後回しになっていたが、今がその時だった。
私も姿勢を正し、深く頭を下げる。
「すみませんでした、高城警部補。私の身勝手があなたを危険に晒してしまいました。許してください」
「西尾さん……」
困ったような高城の囁き声。お互いに頭を下げ合っている私達の姿は、端からすればさぞ滑稽に見えたことだろう。だが、気にしてなどいられなかった。
「……わかりました。顔を上げてください、西尾さん。僕もそうしますから」
恐る恐る面を上げると、いつもの眼鏡をかけていない高城がしかし、いつものように微笑んでいた。
「でも、これだけは言わせてください。今回の件は僕の責任でもあるんです。僕がもっと周囲に気を配っていれば……西尾さんのようにしっかりしていれば、こんなことにはなりませんでした。……犠牲者が増えることも、きっとなかったんです」
彼の微笑には悲しみが滲んでいた。犠牲者というのは、アパートの大家のことだろう。高城からしてみれば、みすみす目の前で死なせてしまったのだ。悔いが残るに決まっていた。
「それは……気負いすぎです、警部補。榊警部も言っていたじゃないですか。こんな仕事です、色んなことがあるんですよ。どうしようもないことだって……」
半ば自分に言い聞かせるように、私は言った。高城の懺悔はそのまま私にも突き刺さる。あの時、私が独断で黒尽くめの男達を追わなければ、アパートの大家も死なずに済んだのではないか――と。
高城は、うん、と頷きを一つ。
「――ですから、ここから頑張りましょう。きっと何とかなりますよ……いえ、何とかしてみましょう、絶対に」
両の拳を握り、高城は決意を固める。そして、私の方を見て、にこ、と微笑んだ。
おそらくだがこれが普通の女性であれば、ここで〝落ちていた〟のだろうと私は思った。落ち込んでいるところをこのような笑顔で励まされたら、世の女性の大半がイチコロに違いない。そう思うほど、この時の高城の微笑は確かに魅力的だった。彼が女性にモテる理由の一端を垣間見た気がする。
「……そうですね」
つられて、私も微苦笑を浮かべた。
まったく、普段は驚くほど空気を読まずに行動するくせに、どうしてこういう時ばかりダイレクトに胸に響く言動ができるのか。
「では、高城警部補。そこまで言ったからには、明日から今まで以上に頑張ってもらいますよ。色々と厳しくいきますから、覚悟してくださいね?」
「うっ……は、はい、頑張ります……!」
私が努めて明るい声で、しかし厳しいことを告げると、高城は一瞬だけ後悔するような顔を見せつつも首を縦に振った。
「はい、頑張りましょう」
私も頷きを返すと、どちらからともなく歩みは再開された。
ほどなくしてタクシーの発着場に到着し、私達は客待ちをしていた一台へと乗り込んだ。
「西尾さん、今日は送りますね」
後部シートに座って開口一番、そう言った高城に驚く。
「え? いえ、そんな。警部補は怪我人なんですから、今日は私が」
「いいえ、これは男の役割です。僕の怪我に責任を感じておられるなら、今日は黙って送られてください」
にっこりと笑いながら、高城はなかなか痛いところを突いてきた。
「……わかりました。それでは、お言葉に甘えて……」
ああ言われてしまったら、断ることなど出来ないではないか。私は渋々、了承した。
運転手に最初の行き先として、私の住むマンションの住所を伝える。
やがて走り出したタクシーの中、情報漏洩を防ぐため、仕事内容については話せない。それ故、私が無言でいると、
「いやぁ……それにしても、先程の西尾さんは可愛かったですね」
突然、ふふふ、と高城が思い出し笑いを始めた。すぐさま、処置室で再会した時のことだと思い当たり、私は体に熱を感じる。
「……やめてください」
タクシーの運転手に聞こえないよう、小さな声で制止する。が、しかし。
「僕の無事を知って、へたり込んでしまうなんて……それほど心配していただけたとは、僕は本当に幸せ者です」
聞いちゃいない。高城は陶酔するように目を閉じて、口元をニヤつかせていた。
だが、馬鹿なことをしてしまったという自覚のある私は、強く言い返せない。
「忘れてください、本当に」
「いいえ、絶対に忘れません。今日は記念日です。来年には一周年をお祝いします」
「もう、勝手にしてください」
よほど嬉しかったのか、はたまた日頃の意趣返しなのか。高城は私をからかう発言ばかり繰り返し、今日ばかりは怒るわけにもいかない私は、ただ顔を覆って恥ずかしさに耐えるしかなかった。
「おや? そういえば西尾さん、いつものマフラーはどうされたのですか?」
「え? あ……」
高城の指摘に私は面を上げ、反射的に首元に手をやった。それから、自分でもマフラーを紛失していたことを思い出す。
「ああ、急いでいたので、どこかで落としてしまったみたいです。でも、他にも持っていますから―」
「もしかして、僕のせいですか?」
喰い気味に高城が身を乗り出してきた。顔が近い。狭い車内なので、逃げる空間がない。私はやや身を仰け反らしつつ、
「いえ、単に自分の不手際ですので――」
「弁償します。弁償させてください。お願いします」
「え、え、えっ?」
ぐいぐい来る。とうに私の背中は車のドアに当たっており、これ以上は逃げられない。
眼鏡をかけていない高城が、ひどく真剣な表情で私を見つめている。運転席を一瞥すると、バックミラー越しにこちらの様子を窺っているタクシーの運転手とバッチリ目があってしまった。途端、ぱっ、と視線を外される。
ひどく気まずい。
「わかりました。わかりましたから、その、離れてください」
私は降参を示すように両手を上げると、どうどう、と高城を押し戻した。このまま不毛な問答を続けて、タクシーの運転手に痴話げんかなどと思われたくない。ここはとっとと切り上げて、また今度どうにかすればいいだけの話だ。
「本当ですか!? では、必ずや西尾さんに似合うマフラーをプレゼントいたしますね。今度、一緒に買いに行きましょう。約束ですよ」
向日葵の花が咲くように高城が破顔一笑する。そのまま無事に自分のシートへ戻ってくれたが、もしかしなくとも、どさくさに紛れてデートの約束を取り付けられてしまったのではなかろうか。
次に会った時にでも丁重にお断りさせていただこう――と、安堵の息を我慢しながら思う。
非番の日に二人で出かけようものなら、またぞろ署の女性陣が激発しかねない。現時点では陰口だけで済んでいるものの、これ以上の刺激を与えると余計なトラブルに発展する可能性だってある。
「いやぁ、西尾さんはどんな色でも似合いそうですからね。家に帰ったら色々と調べておきますね。ご期待ください」
ほくほくした様子で、高城は早くも購入するもののリストアップを脳内で始めたようだ。だが、これに対しては流石に、
「いえ、そんなことはどうでもいいので、ゆっくり休んでください」
きっぱりと却下したのだった。