side【T】 「約束」(前編)
同人誌版付録のボーナストラックSS「約束」より、前半の巴視点のお話です。
執筆担当は国広仙戯さんです。
※本編エピローグの翌日譚となっておりますので、ネタバレ注意です。
私が不本意な形で新たな年を迎えて、一日。
結局、ロウから受け取った鎮痛剤と諸々の衝撃によって私は朝まで眠りこけてしまったのだが、起きたら起きたで今度こそ腹の虫がクーデターを起こしてしまい、とにもかくにも食料を腹に収めねば済まなくなった。
幸い、ロウが買い置きしてくれていた食べ物があるということで、それを摂取することになったのだが――
「何だ。俺の顔に何かついているのか」
ぐぬ。
愛想の欠片もない態度で鹿角が言う。目を合わせもしないまま。
改めて私が目覚めた時、部屋には鹿角しかいなかった。ロウは所用で出掛けているという。
「……別に。何してるのかなって思っただけよ」
テーブルについた私は、ひとまず昨晩のバナナの残りを片付け、今は菓子パンなどを口に入れている。寝起きかつガウン姿のままだが、これは着替えがないのだから仕方がない。髪もボサボサで、おそらく寝ている間ずっと風呂に入っていなかったので色々とアレだろうが、何もかもが今更だ。
「おま――巴には関係のないことだ」
ぐぬぬ。
鹿角はにべもない。一応、前に私が言ったことを覚えているようで、『お前』と言いかけたのを『巴』に修正してはいるが、態度は氷のように冷たかった。
私にあてがわれた――ほぼ軟禁状態ではあるが――スイートルームのリビングで、鹿角はソファに座って周囲に浮かべた何枚ものARスクリーンとにらめっこしている。サングラスの代わりにかけた伊達眼鏡――どう見ても度が入っていない――のレンズに、スクリーンが映り込んでいないのがARの証だ。どうも私からは見えないようブロックしているらしく、何を眺めているのかはさっぱりなのだが。
「まぁ、別にいいけど。それより、この部屋ってコーヒーか紅茶はないの?」
とはいえ、鹿角の態度が冷然としているのは今に始まったことではない。私も私で、これまで通りの態度で接する。
「それならロウが買ってきたものが冷蔵庫に入っているだろう」
「そうじゃなくて、出来れば温かいのがいいんだけど」
「インスタントでいいならそこらの机の引き出しにでも入っているはずだ。コップもそこにある。湯沸かしはそこのポットを使え。水はペットボトルのを入れればいい」
ぐぬぬぬ。
この間、鹿角はこちらを見向きもしない。完全にノールックである。耳はこちらの声を聞いているくせに、それ以外が総じてそっぽを向いているのだ。この男、ディシールの命令だから嫌々ながら私の護衛兼監視役をしているのが丸わかりであった。
はぁ、と私は溜息を吐く。
「――ロウなら淹れてくれたんだろうなぁ……」
何となくそう思ったのが、つい呟きになった。あの大男、意外にも見た目に依らず結構な紳士なのだ。だからさっきのような質問をすれば、
『お? どっちか飲みたい? じゃあお兄さんが美味しいの淹れちゃうぞ!』
などと言って、ウキウキした様子で私の前にお茶を出してくれたに違いないのだ、きっと。
「何だと?」
予想外なことに鹿角が強い反応を示した。これまで私の方など一瞥もしなかったというのに、青と赤の瞳をこちらへ向ける。
思わぬ事態ではあるが、しかしここでたじろぐような私ではない。
「別に? 鹿角くんには関係のないことよ」
先程の意趣返しである。彼の言葉をそっくりそのままお返しして、私はミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。まぁ、コーヒーや紅茶などなくとも水があれば事足りるだろう。
しかし。
「聞き捨てならんな。俺よりもあの筋肉バカがいてくれた方がよかったと、そう言っているように聞こえたんだが?」
あっちが本腰を入れて切り込んできた。氷の塊を擦れ合わせるような声音で、鹿角は威圧してくる。色違いの目が細まり、剃刀のごとき眼光を閃かした。
舐めるな。
「それ以外のことを言っているように聞こえたのなら、あたしの言い方が悪かったってことよね。もしそうなら謝るけど?」
冗談ではない。あの程度の脅しで私が屈すると思ったら大間違いだ。元少年課の警官を舐めるなと言いたい。年頃の少年少女が張り巡らせる鉄条網みたいな心の壁には慣れっこなのだ。
気にせずペットボトルに口をつけて水を呷ると、
「――待っていろ。紅茶を淹れてやる」
意外も意外、鹿角が立ち上がった。言葉通り、テーブルの上にあった電気ポットを手に取り、お湯を沸かす準備を始める。
「コーヒーはロウがあまりいい顔をしない。あいつは嗅覚が鋭いからな」
聞いてもいないのに、何故コーヒーではなく紅茶をチョイスしたのかという理由まで話してくれた。
「あ、ありがとう……」
これには私も拍子抜けというか、肩透かしというか、意表を突かれてしまった。スラリとした長身が冷蔵庫に向かい、ポットに水を入れて戻ってくる。
思わぬ展開だった。てっきり、もっと怒ったり拗ねたりするものと思っていたのだが。これは、私が思う以上にロウへの対抗意識が強かったということか。それとも、彼としては最大限に気遣っていたつもりだったが、私の言葉で自らの至らなさに気付き、巻き返しを図っている――とか?
もし後者だとしたら、根は優しい青年だということになる。その場合は、ちょっと申し訳ないことをしてしまったかもしれない。
「茶葉はティーバッグだが、問題はないな?」
私の斜め向かいに座った鹿角が、初めて見るデザインのティーバッグ――外国製なのだから当然といえば当然だが――を開けながら、念のためだろう、確認を取ってくれる。私はこくりと頷いた。
今日の鹿角の格好は、気を失う前に見たものとさして変わらない。キレイめのセットアップを瀟洒に着こなしている。昨晩と大きく違う点を挙げるとすれば、耳につけたピアスと同じ色をしている、首元のストールだろうか。
「そのストール、いい色ね」
紅茶を淹れてくれるお礼というわけでもないが、私は率直な感想を述べた。シックな色合いの服に、鹿角の髪と瞳。そこに添えられた空色のピアスとストールは、何とも言えないアクセントになっている。
「これか? これは総裁からのプレゼントだ」
私の褒め言葉に、鹿角は首元のストールに手をやって、まんざらでもない反応を返した。
「ディシール……さん、から?」
ちょっと驚く。上司と部下という型にはまった関係では、どうやらないらしい。
なので、私はディシールのセンスも含めて、
「君によく似合っている」
と褒めた。
さて、鹿角はどのような反応をするか――と思えば、
「……そうか。俺も気に入っている」
肯定的な言葉とは裏腹に、何故か不機嫌そうな声が返ってきた。どうも表情を引き締めて、無表情を装っているらしい。
だが、甘い。言ったはずだ。私は元少年課の警官だったと。年頃の子供がこういう態度を取る時は、大抵は心の中で大きな波が立っているものなのだ。それを無理に我慢しているから、こんなピントのずれた反応になるのである。私はそれをよく知っている。
つまり鹿角は、本当は嬉しいくせに、それを隠そうとしているのだ。
思えば、気を失う前に会った時はストールを巻いていなかったが、あれはディシールが一緒にいたからだろう。本人のいる前では身につけないくせに、いない場所ではこうして愛用しているあたり、鹿角の気難しさが伺える。まったく、若さをこじらせているなぁ――とついつい大人目線で見てしまう私であった。
「――そういえば、巴にまだ言っていないことがあったな」
思わずニヤけてしまう口元を掌で隠していた私に、ふと思い出したように鹿角が言った。
「トシユキ・タカギの最期の言葉だ」
「え……?」
いきなりピンの抜けた手榴弾を放り投げられたような、そんな気分だった。
いま思い出したにしても、話の切り出し方が唐突過ぎる。不意を突かれた私は、まだ何も聞いていないのに胸を槍で貫かれたような衝撃を受けた。
高城利之。現実時間では十日以上も前に死に、社会的には行方不明ということになっているが、ずっと眠っていた私の主観では、それは昨日のことなのだ。
あの人の死によってついた傷痕は、まだ空気に触れるだけで痛いほど、真新しい。
ティーバッグをカップに入れ、私ではなく小さな駆動音を鳴らす電気ポットを見つめる鹿角は、
「遺言……かどうかはわからん。少なくとも俺には、意味のある言葉としては聞き取れなかった。だが、いくつかの単語なら拾えた」
高城に止めを刺したのは、他ならぬ鹿角だ。思い返せば、彼は美術室の石膏像みたいになった高城に耳を寄せ、彼の声を聞いているような仕種をしていた。その時に、高城の最期の言葉を聞いたのだろう。
「聞きたいのなら教えるが……どうする?」
その確認は、鹿角なりの優しさだったのだろう。だが、残念ながら功を奏しているとは言い難い。そこまで言われて、いいえ聞きません、などとは口が裂けても言えないのだから。
「ちょっとだけ、待って……」
私は手に持っていたペットボトルをテーブルに置き、両手で胸の辺りを押さえた。ゆっくり深呼吸を繰り返し、息を整える。
高城は〝ルナティック〟の過剰摂取によって、狂気に囚われていた。最期の最後まで私に対して歪んだ愛情を示し、それはもう子供じみた願望を露わにしていたものだ。
だが――そうなる前は少し間の抜けた、空気は読まないが、それなりに誠実さを併せ持っている、普通の人間だった。少なくとも、私の目にはそう映っていた。
何より、彼の最後の行動――怪物に変身する直前、その腕で抱きしめていた私を遠ざけたのは、もしかしなくとも私を巻き込まないため、だったのではなかろうか。
今となっては、彼の真意などわからない。知りようもない。
だから、そんな彼が最後にどんな言葉を残したのか。それを聞くには、私は多少の覚悟を決める必要があった。
「……OK、いいわ。教えて」
腹を括った私が頷くと、鹿角はこちらに視線を向けた。紅玉と碧玉のような美しい双眸が、じっ、と私を見つめる。美術品みたいに整った唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「約束。西尾さん。マフラーを。あなたに。プレゼント。きっと似合う。よかった。ありがとう」
淡々と、ぶつ切りの言葉を鹿角は並べていく。おそらくは、彼が聞いた順番通りに。
「――以上だ」
きっと、途切れ途切れの言葉だったろう。言うまでもなく、高城は重傷だった。いや、胸から下がなくなっていたのだ。よくも即死しなかったものである。言葉を残す余裕があったこと自体、奇跡だったのだ。意識は朦朧としていただろうし、思考は正常に回っていなかったはずだ。
なのに。
そんな状態で、最後に残した言葉が――
「――~っ……!」
私は奥歯を噛みしめて、全身を駆け巡る衝動に耐えようとした。しかし、無駄な抵抗でしかなかった。
「うっ……ぁ……!」
堪えきれない。鼻がツンと痛んだ瞬間、涙が止めどなく溢れ出てきた。
『本当ですか!? では、必ずや西尾さんに似合うマフラーをプレゼントいたしますね。今度、一緒に買いに行きましょう。約束ですよ』
あの日、なし崩しに交わした約束。私にとってはどうでもいい、むしろ迷惑の度合いが大きいまであった、あんな些細な約束を。
高城は、覚えていたのだ。
最後の最後まで。
『いやぁ、西尾さんはどんな色でも似合いそうですからね。家に帰ったら色々と調べておきますね。ご期待ください』
本当に、本当に楽しみにしていたのだろう。私と一緒にマフラーを買いに行く時を。選んだ物を私にプレゼントする瞬間を。
『いえ、そんなことはどうでもいいので、ゆっくり休んでください』
そんな風に、すげなくした私なんかの為に。
今際の際に夢見るほど。
「あ、ぁあ……!」
申し訳なさで胸がいっぱいになる。
だけど、それ以上に悲しいのは。
「――ひとの、こころが……っ……!」
残っていたのだ。ちゃんと、あの時の高城は、最後には人間に戻っていたのだ。薬で狂ってしまう前の、彼に。
涙と嗚咽は次々に溢れてきて、もはや私は何も言えなくなってしまった。鹿角が見ている前でみっともないと思いつつも、こればかりはどうしようもなかった。両手で顔を覆って、衝動が静まるまで私はただただ身を震わせることしかできない。
しばらくして、胸の奥から尽きることなく湧いていた悲しみが収まりかけた頃。
「……鹿角くん、教えてくれて――」
ありがとう、と礼を言おうとした、その時。
「わからんな。何故、お前は泣いている?」
「――えっ?」
出し抜けに繰り出された鹿角の問いに、虚を突かれた。質問の意味が上手く汲み取れず、思わず聞き返してしまう。
涙を流している私とは対照的に、無感動な顔をした鹿角は、やはり恬淡とした声で告げる。
「理解できんな。あんな悪党のために涙を流すなど」
あまつさえ、退屈そうに溜息まで吐いた。
驚きすぎて涙が引っ込んでしまった。
「……それ、本気で言ってるの……?」
迷いに迷った挙げ句、私はそう尋ねた。すると、鹿角は『なにを当たり前なことを』という顔をして、
「俺にはお前の考えることがまったくわからない。そうやって泣くこと自体そうだが、そもそも奴を仕留める際に割って入ってきた件についても理解に苦しむ。何故だ? 何故あの時、邪魔をした?」
「じゃま、って……」
私が体を張って高城をどうにか延命しようとした行為を、鹿角は『邪魔』と断言した。高城の遺言で一度は暖かくなった心が、急速に冷却されていくのを感じる。
「実際、奴は救えなかった。それどころか、お前を人質に取ったんだぞ。結果的に何事もなく済んだからよかったものの、無駄に危険を冒したことに変わりはない。いいか、今後は二度とああいった行動は――」
控えろ、とでも言うつもりだったのだろう。だが今の私に、鹿角の小言を最後まで聞く忍耐力はなかった。
「――そんなの結果論じゃない!」
私は怒声で鹿角の声を遮った。鹿角が舌を止め、色違いの双眸をやや見開いて私を見る。しかし、いったん火の点いてしまった私は止まらない。
「救えなかったからって何よ! 何しても救えないっていうなら誰も何もしなくていいわけ!? 無慈悲に首を切り落としてハイお終いってすればよかったの!? 顔も名前も知っている相手なのに!? そんな馬鹿な話ないでしょ!」
「な……」
がーっ、と一気に大声を叩き付ける私に、鹿角はたじろいだようだった。私がこれほどの勢いで反発してくるとは予想していなかった――そう顔に書いてある。
「人の命をそんな簡単に諦めるなんて私にはできない! それにあの人は最後には人の心を取り戻していた! 正気に戻っていたの! それが手遅れだったなんて絶対に言わせない! 命が救えなくても心が救えたのなら、ちゃんと意味はあるんだから!」
全身全霊で吐き出した魂の叫びに、しかし鹿角は忌々しげに舌打ちを返した。
「チッ――それこそ結果論だ。人の心を取り戻したからなんだ? 一度でも手放したからこそ、奴は悪党に身を堕としたんだ。同情の余地などない。そもそも、奴のせいでどれほどの人間が犠牲になったと思っている」
「そんなのわかってるわよ! でも、だからって命を諦めていい理由にならないわ!」
間髪入れずに叩き返すと、徐々に鹿角のボルテージも上がってきた。柳眉を逆立て、
「その結果として他の命が失われたらどうする! 悪党の命と他の命を比べて、悪党の命が尊いというのか!」
売り言葉に買い言葉。まったく噛み合わない話に私の怒りの炎に油が注がれていく。
「そんなこと言ってないでしょ! 命は平等だって言ってるの! 悪党だろうが何だろうが死んでいい人間なんてどこにもいないわ! だから命が失われるのは悲しいことなの! だから涙が出るの! それのどこがおかしいって言うのよ!」
「それが理解できんと言っている! お前が言っているのは現実を知らない、ただの理想論だ!」
バン! と鹿角がテーブルを叩いた。
「いいわよわかんなくて! ロウならきっとわかってくれるわ!」
ほぼ衝動的に放った言葉が、どうやらクリティカルヒットしたらしい。鹿角がその美貌を露骨にしかめる。
「ぐっ――俺とアイツを比べるな! 虫唾が走る!」
「それはこっちのセリフよ! 人の心を踏みにじるようなことを言っておいて何様のつもり!?」
気付けば私達は互いに顔を近付け、テーブルの上で怒鳴り合っていた。半ば腰を浮かせた形で。
その時だ。
突然、部屋のドアがガチャリと開いたのは。
「おんやぁ? 随分とヒートアップしてるじゃん?」
一瞬にして空気が凍るのがわかった。私も鹿角も、ここがどこかも忘れて怒鳴り合っていたし、こんな口喧嘩の間に第三者が入ってくるなど、まるで頭になかったのだ。
「ロウ……」
そう。いきなり現れたのは誰あろう、ロウだった。ヒートアップしている私達二人とはまったく違う、いつもの軽い調子で入ってきて、後ろ手に扉を閉める。
「んー? 部屋の外まで聞こえていたけど、何をそんなに熱くなってるんだい、お二人さん?」
ロウがこちらへ歩いてくると、ちょうどよく電気ポットが甲高い音を発した。お湯が沸いたのだ。
「あ……」
廊下まで響くような声を出していたことに今更ながらに気付き、私は恥じ入る。同様に、鹿角もバツが悪そうに顔をあらぬ方へと逸らした。
「ふーむ……?」
またしても買い出しに行っていたのか、紙袋を片手に持ったロウは、私と鹿角の様子を交互に見比べ、最終的に。
「こら、鹿角」
ごん、と割と大きな音が鳴る勢いで鹿角の頭に拳骨を落とした。決して小さくはなかったであろう衝撃に、鹿角の眼鏡がややズレる。
うわ、と私は口の中で声にならない声を出す。今のは明らかにまずい。虎の尾を踏む行為だ。活火山状態の鹿角が大爆発――
「……何をする」
するかと思えば、しかし不満を押し殺したような声で、鹿角が言う。
あれ? と思った。さっきまでの勢いそのまま、大きな声でどやしつけるかと思っていただけに、その反応はかなり意外だった。ズレた眼鏡を片手で直しながら、しかし鹿角はロウの方を見向きもしない。
何とも言えない鹿角の微妙な反応に対し、ロウはわかっているのかいないのか、まるで父親のような口調で、
「事情はわかんないけど、とりあえず女の子を泣かすもんじゃありません。めっ」
小さな子供を叱るように言った。めっ、とは。今日日なかなか聞かない言い回しである。
「……事情もわからないのに殴るな」
再び、内圧高めの沈黙を挟んでから鹿角が言い返した。決してロウと顔を合わせたくないらしく、ツーン、とそっぽを向いたまま。
ロウはそれすら意にも介さず、握った拳を掲げるようにして、にかっ、と笑う。
「殴るさ。鹿角にはいい男になって欲しいからね。だから事情がどうあれ、男が怒鳴って女の子が泣いているなら、俺は絶対に女の子の味方をするよ。絶対にね」
なるほど、教育的措置――つまり『愛のムチ』だったということか。ともあれ私の目に涙があるのは正確には鹿角のせいではないのだが――いや、そうでないとも言いにくいが――今はそれを言うタイミングではないように思えた。
「……勝手にしろ」
吐き捨てるように言って、鹿角は椅子から立ち上がった。不意にその横顔が、どこか傷付いた子供のようにも見え、私は胸に痛みを覚える。
流れに任せて鹿角を悪者にしてしまった――と。
しかし同時に、つい先刻はあのように血も涙もないことを言っておきながら、ロウに怒られただけでこんな表情をするのか――とも思った。
もしかしなくとも鹿角は、私が思っている以上に、傷付きやすい少年の心を持っているのかもしれない。
「気分が悪い。後はお前に任せるぞ、ロウ」
そう言い置いて、鹿角は踵を返した。後ろで結った銀髪と、首元のストールが宙を躍る。真っ直ぐ伸びた背中が『黙れ触れるな話しかけるなあっちいけ』と言っているかのようだった。
有無を言わさぬ早足で、鹿角は部屋を出て行く。
パタン、と扉が閉まるのを見送ると、はぁー、とロウがそれはもう深い溜息を吐いた。それから私の方へと向き直り、
「ごめんな、巴。あいつまだ子供なんだ。色々といけないこと言ったかもしれないけど、大目に見てあげてくれる? 後でよーっく言い聞かせておくからさ」
片手を立てて、申し訳なさそうに謝罪するロウ。そんなことを言われると、私としても強く出られなくなる。というか、こんなことを言うロウと鹿角の関係は一体何なのだろうか? 兄弟――ではないだろうし。親子――にしては似てなさ過ぎる。
ともあれ、私はガウンの袖で目尻を拭いつつ頷いた。
「……うん、わかってる。というか、私の方こそひどいこと言っちゃったから……後で謝らないと……」
さっきは、鹿角がロウに対抗心を持っているようだったので、ついロウを引き合いに出して攻撃してしまった。我ながら大人げないことをしてしまったと思う。
それにしても、だ。
最初の頃からそうだったが、やはり鹿角とは本当に馬が合わない。多分、私の立場的にそこそこ長い付き合いにはなりそうなので、どうにか折り合いをつけなければならないが――
出来るのだろうか? 彼と協調することが。
あまりにも価値観が違いすぎて、断絶感が半端ない。
というか、思い返すだに私は鹿角に嫌われている気しかしないのだが。仕事だから、任務だから――という理由で鹿角は私の近くにいるだけで、本音では顔も見たくないと思われていても、不思議ではない。
これからの前途を思うに、不安しかなかった。
と、内心で途方に暮れていた所へ。
「ところで、巴。なんか俺の名前呼んでたりしなかった? んー?」
「えっ?」
ニヤニヤと笑うロウが、私の顔を覗き込んできた。手だけはしっかりと電気ポットのスイッチを切り、ティーバッグの入ったカップにお湯を注いでいる。テーブルの状況から、お茶を淹れようとしていたところなのを察してくれたのだろう。
いや、問題はそこではなくて。
「あ……!?」
そうだったのだ。本人がいないと思って、今にしてみればひどくロウに甘えるようなことを言ってしまった。あれが廊下まで響いていたとなると、ちょっとどころではなく恥ずかしい。いや、恥ずかしすぎて穴があったら入りたい気分である。
「い、いや、その……」
ロウは湯を注いだカップを私の方へ押しやりつつ、ニヨニヨと口元を緩ませる。
「俺ならわかってくれる? 何をかなー? んー?」
「ちょっ……そこまで聞こえてたの!? やだ、もう……!」
前半はともかく、後半はほとんど聞かれていたということではないか。私は顔から火が出るほどの思いに駆られる。
我ながらどうしてしまったことか。私は高城の攻勢にもなびかなかった、鉄の女ではなかったのか。いくらロウが子供の頃の命の恩人とはいえ、少々甘えすぎなのではなかろうか。
これはいかん。そも、私は男に頼らない強い女として生きることを誓った身。これ以上、ロウに頼るような考え方をするわけにはいかない。次からは極力、鹿角の前ではロウの名前を出さないようにしよう――
などと、そんな誓いを胸の奥で立てながら、私は必死にロウを煙に巻くため言葉を尽くしたのだった。
いただいた感想で、巴の考えていることがいまいち理解されてないような気配でしたので、思い切って公開としました。
警察官である前に、人としての心の在り方といいますか。
確かに悪人ではあったけれど、「彼」を巴がそんな簡単に切り捨てられるかなぁ…?
切り捨てちゃってもいいのかなぁ……というか…
後半は鹿角視点で、この続きとなります。
仲が良いのか悪いのか。ロウとの関係はいかに。
公開はまたいずれ、日を改めて。お楽しみに。(^^)/




