side【UNKNOWN】後編
番外編の続きです。
※本編のネタバレを含みまので、本編読了後を推奨します。
※殺人やそれに関する描写が入ります。苦手な方はご注意ください。
冴え冴えとした光が周囲を照らしている。
真円を描いてそこだけ夜空から切り取ったような、ぽっかりと浮かんだ満月だった。
くっきりとした影ができるほどに明るい夜だった。しかし、今はこの場には二人しか居なかった。
息急ききってほうほうの体といった具合で走る男と、それを追う、人ならざるもの。
逃げるものを追うのは本能だ。
耳の側では風が唸っていた。
地面をほんの一蹴りしただけで、身体は高く跳躍する。
一瞬で距離を詰めて、その背に食らいつく。
空を斬るのは、五指の先から異様に伸びた分厚い爪だ。それが、さっくりと獲物の体に刺さり、その身を裂く。
耳障りな悲鳴を上げる暇を与えず、もう片方の手で頭を鷲掴み、一気にねじ切った。
血飛沫を上げて崩れ落ちる身体から素早く離れ、ついでに手にしていた頭を投げ捨てる。
今夜はこれで二匹目。与えていた餌について、以前から不満を抱えているような素振りをしていた連中だった。その上、自分達をコントロールしようなどと考えて、強請もかけてきた。身の程知らずもいいところだ。
馬鹿な奴らだ、と〈彼〉はぼんやり思った。だからこんな死に方をするのだ、とも思った。
そうでなくとも、今までに散々他人を恐喝し、暴力をふるい、金品を巻き上げてきたあくどい奴らだった。自分が手を下さなくとも、いずれは誰かに始末されていただろう。
連中の末路に関心はなかったが、そんな輩がのうのうと世に蔓延って、我が物顔でのし歩いているのが〈彼〉は許せなかった。
ただし、その思考は深い泥濘の底からゆっくりと顔を出す小さな泡のような些細なものだった上、同じように音もなくあっさりと弾けて消え去った。
今の〈彼〉を満たすのは、狙いどおりに獲物を仕留めた悦び――そして、全ての煩わしいものから解放された喜びだった。
身体中の皮膚が、筋肉が、この内を駆け巡る血管、神経、そして骨組織までもがその歓喜に震えている。
内腑を焦がすかのような灼熱めいたものが体内を駆け巡っている。
衝動のまま、〈彼〉は大きく息を吸うと、喉を反らせて歓喜の声をあげた。
およそ人とは思えぬ声色と声量だった。
それだけではない、その姿も、もはや人と形容するのも憚られるものになっていた。
傍目にもわかる体格の良さ。隆々とした筋肉は、しかしその表面を黒く長い毛が覆いつくしていた。
そして、その顔もまた、人ならざるものへとすっかり変化していた。
伸びた口吻からは、ぞろりと並ぶ鋭い牙が覗いている。頭頂部には一対の大きな尖った耳があった。
赤く血走った目はギラギラとした光を放っている。だが、それは月光を反射してのものではない。
それは体内を廻るものによって、内側から発している光だった。
禍々しい輝きは、明度を変化させながら脈打つような様子を見せた。
――否、脈打つような、ではない。まさしく脈打っているのだ。心臓の鼓動と共に体内を駆け巡る血潮、それに混じった『もの』が、赤黒い奇妙な輝きをもって、彼の四肢を、内臓を、そして脳までも充たしていた。
だがそれを不快に思う思考は、今の〈彼〉にはなかった。
これこそが本当の自分なのだという思いがあった。
ずっと長いこと押し込められていた本能が、本性が、解き放たれたのだと正しく理解していた。
だが、その悦びは長くは続かなかった。
「グ……ぅ、あ……!」
黒い獣毛がはらはらと抜け落ち、皮膚が外気に晒される。同時にあれだけ盛り上がっていた筋肉が、みるみる萎んでいった。
メキメキという音が身体中から、そして頭蓋の内でも響いている。体内を猛烈な勢いで駆け巡っていたものが、急激な細胞の変化を、尋常ではない速度で進めているのだ。
それは通常ではありえない骨組織の変化と、骨格の変形にも一役買っていた。
長かった口吻が引っ込み、元の形に戻っていく。同時に、ズラリと並んでいた牙が全て抜け落ち、その下から新たな歯が生えてきた。分厚い爪も全て剥がれ落ち、その後からあり得ない早さで綺麗なものが形成される。
身体中の成分を急激な変身のために吸い付くし、使い切った。終わった頃には、彼は――高城はくたくたに疲れていた。
体内を廻っていたものが、まだ名残惜しそうに皮膚の下で微かな光を放つ。
高城がこれを己の体内に注入したのはつい最近のことだが、驚くほど自然にそれは高城の身体に馴染んだ。
嫌ではなかった。
むしろすっきりしていた。
思い切り体を動かして運動をした後のような爽快感さえあった。
ただし、肉体そのものは劇的な変化に追い付いてはいなかった。
急な気温変化に、くしゃみが出た。そうして、高城は自分が素っ裸で堤防脇の草むらに膝を突いて座り込んでいることに思い至った。
筋肉が本来の肉体の倍以上に膨れたせいで、それまで着ていた服はみな裂けて、また激しく動き回るうちに全てどこかに文字通り散り散りになってしまったのだろう。
季節はいよいよ真夏に差し掛かろうという頃だった。いくら太陽が昼の世界を支配しているとはいえ、夜にもなれば、そして川縁の風通しの良い場所ともなれば、更に言えば、それまで内を満たしていた熱が一度に引いてしまえば、涼しさを通り越した寒さしか残らない。
ふと、甘ったるい匂いが鼻先を掠めた。身体から蒸発する汗に混じってたち昇る、熟しきった果実のような香りだ。
濃厚なそれは緩い川風によって徐々に薄れつつあったが、完全には拭いきれず、全身に纏わり付いて離れようとしなかった。
顎のあたりにもまだ少し違和感が残っている気がして、高城は鉛のように重くなった腕を上げて、すっかり冷たくなった掌で自分の顎を擦った。
同時に、喉の奥にも塊のような熱いものが残っていることに気が付き、その秀麗な顔を歪めた。
吐き出して楽になろうとしたが、しかし出てくるものは無く、代わりに弱々しい咳が何度か喉を焼くように溢れて、余計に苦しくなるだけだった。
高城は諦めて、おろした両手を地面につき、肩で息をした。遅れてやってきた震えが全身を苛むが、どうしようもない。
使用した薬の効果が切れ、その揺り返しがきたのだった。
舌打ちする体力すら無かったため、内心で毒づいて、がっくりと項垂れる。
残念だ。これさえなければ完璧なのに。
これさえ克服できれば、自分はもっと強くなれるのに。
頭を垂れたまま、高城は臍を噛む。
〝ルナティック〟――それが、高城が使用した薬だった。
高城がこれを手に入れた経緯はかれこれ数年前の出来事から始まる。
ほとんど執念にも近い勢いで探し続けていた相手とのコンタクトを果たした後、まだ試験段階ではあるのだが、という前置きと共に手に入れたのだ。
その相手は、彼ら自身のことを『夜の一族』と称していた。
人ならざる者。人ではない者――人とは全く別の種族。
いい歳をしてお伽噺などというものを信じているとどうなるか。
大概は呆れられるものだが、それでも高城はずっと信じていた。周囲に馬鹿にされようとも。厳格な父親に激怒され、厳しい叱咤と共に殴られようとも。
そうして信じて、信じて、信じ続けた紆余曲折の末、遂に望みは叶えられたのだった。
高城の周囲には、先の変身で文字通り脱ぎ去った獣の脱殻ともいえるものが散らばっていた。
それらは高城が見ているその前で、薬品でもかかったのようにひとりでに溶けだし、蒸発し、文字通り消えていった。
乳灰色をした獣の牙も、例外なく。
硬いエナメル質でできた牙や歯は、通常ならばそう簡単に壊れたり溶けたりしないものだ。
だから死体の検分に歯形照会で利用されたりもするし、それこそ化石という形で、何千、何万年という単位を経た地層からでもその原形を保ったまま掘り出されるし、その持ち主の遺伝子情報を採取することも可能な代物だ。それが、ひとりでに溶けて消滅するなんて。
凄いと思うと同時に、怖いとも思った。
それらを成し得たのは、進歩した医学や科学技術の革新だけではない。
現実をねじ曲げる手段――魔術というものの存在に、高城は畏怖をおぼえる。
と同時に、自分がそれらを扱える立場となったことに、何とも言いがたい優越感をもおぼえたのだった。
肉体の変化は一通り終わったらしく、呼吸もかなり楽になってきた。目線を上げると、つい今しがた高城が屠った男が少し離れた場所の茂みに倒れ伏しているのが見えた。
当たり前のことではあるが、この死体は消えたりはしない。このまま放置していれば、朝には誰かに発見されるだろう。
ぴくりとも動かない死体は、草むらの中に上半身を突っ込む形になっていた。引きちぎって投げ捨てた頭の方は、どこに転がっていったのかわからない。
だが、濃厚な血の匂いが、まだ少し残っている果実の香りと混ざり、高城の鼻腔の奥を刺激する。
肉体はヒトのそれに戻ったものの、感覚器官はまだ獣であったことが余韻のように残っていた。
血を見るのは嫌だった。
だが、それはイコール、嫌いということではなかった。
不意に、高城の掌に先ほどの感触が甦る。
鋭利な刃物で肉を切り裂くような感触。筋肉をねじ切り、頚椎とそれを支える腱もろとも無理やり引きちぎる感触。
そして月光に照らされ、煌めきともいえる飛沫を撒き散らす血潮の様子。
脳裏で鮮やかに再生されるそれらに、高城の肌がざわりと粟立つ。
けれど、高城は死体から目を反らさなかった。反らしてはならないと思った。
なぜならそれは、本能と共に上げた、己の本性の声に従った結果だからだ。
あれはただの獲物だ。
それ以外の何者でもない。
――と、その時。
背後で砂利を踏む音がした。
はっとして振り返ると同時に、目の前に何かを突き出される。
高城は瞠目した。
着替えを入れた袋だと気付くまでに、数秒がかかった。持って来たのは、黒い服に身を包んだ痩身の男だった。
「淵さん……?」
漆黒の衣服はスーツとも違う、異国の装い。艶やかな黒髪は短く、丁寧に後ろに撫で付けられていた。ややレトロな印象がする丸いフレームの眼鏡をかけている。
明るい月光の下であっても、彼の姿はその足元の影と同化したような――否、彼自身が影そのものと言ってもいい程に暗く、闇に溶け込んでいた。
顔立ちを見る限り、高城と同じくらいだろうと予想されるのだが、高城がやや童顔気味なのを差し引いたとしても、随分と若い感じのする男だった。しかし、彼らの外見と中身が必ずしも一致するわけではないのも、高城はよく知っていた。
「薬の効果は抜群、邪魔者の始末も済んだ。首尾は上々、といったところですね」
高城は返事をする代わりに、のろのろと手を伸ばし、差し出されたものを受け取る。
彼の部下が一帯を封鎖して人払いをしているため、うっかり通りがかった者に見られるようなことはなかった。
もっともそれは、高城が異形となって宵闇の中を駆け、跳び回り、獲物二人を屠っている間もずっとそうだったのだけれども。
しかし、何故、この場に淵が居る?
いつもならこの役目は彼の――彼が高城に貸し与えてくれた部下の役目の筈だった。
その部下達は淵の後ろに立ち、じっと沈黙を保ったまま、行儀良く控えている。淵とは違って無個性ともいえる黒いスーツに身を包んだ彼らは、やはり一様に揃ったサングラスをかけ、その奥に隠れているであろうそれぞれの視線を、淵の背中と高城とに注いでいた。
「私、これでもこの部門の極東支部を任されているんです。薬の効果については、確認する義務があるんですよ。お忘れですか、雪下さん?」
高城の疑問を読み取ったらしく、淵がにこやかな笑顔を崩さず答えた。
それはそれは、わざわざご足労痛み入ります――とは口に出さなかったが、相手には伝わったようだ。同時に沸き上がった、肝が冷えるような感触も。
欧州随一のバイオサイエンス企業である『テネブラエ・サイエンティカ』。その極東支部――アジア一帯を統括するのが、この淵という男だ。
そして高城にその一部門を任せるという破格な待遇を与えてくれたのも、この男だった。先に淵が高城に向かって呼び掛けた、『雪下』という名がその証だ。
彼は、高城が彼の下で活動するためのあらゆる事柄を手配してくれた。『雪下鍵人』という偽名、その人物として行動するための諸々の全てを。
そして、高城が今の職場への異動が決まったのも、彼の力添えがあってのことだった。
一体どのような手段を使ったのか。どうやったら警察組織の内部にまで手を回せるのか。『夜の一族』の影響力の計り知れなさ――
だから高城はこの男には逆らえない。逆らってはいけない。
こうしてまだ試作段階の薬を勝手に使用していることを掴まれたのなら、尚更。
だが、淵はその件に関しては特に問題視しているようではなかった。
「それにしても……」
と、思案するように高城を眺め、小首を傾げる。
「使用の度にストリーキングするようでは困りますね。近いうちに開発中のウェアを提供できるよう、手配いたしましょう。といっても、まだちょっとだけ時間がかかりますので、それまでは、どうか慎重に」
くすくすと小さな笑みを漏らしながら、淵は元々細い目を更に細めた。
確かに、それは何とかならないものかと高城も思っていた。
変身する度に気に入っていた服や靴を丸々一式潰してしまうことになるのだから。
いくら自ら望んだことだとしても、少々――いや、大分割に合わない。
かといって、そのために破れても構わない服を用意するのも馬鹿馬鹿しい。着たくもない安物に身を包むくらいなら、むしろ最初から全裸で通したほうがいいのでは、とさえ考えたこともある。繊細そうな優男といった見た目とは裏腹に、存外大雑把に極端な考えをする高城だった。
ただ、事を起こす前に露出狂としてしょっぴかれる危険性の方がはるかに高いから、実行しないだけだ。
悪寒が酷くなってきたせいで、指が強張ってうまく動かせない。苦心しながらも服を着る高城の様子を眺めていた淵が、いやそれにしても、と再び口を開いた。
「私も予想はしていませんでしたが、これほどまで適合するのも珍しい。素晴らしいことです。やはり、遠縁とはいえ、貴方にも我々と同じ血が流れているのが良かったのでしょうね」
淵の放つ言葉に、高城の胸には安堵が染み渡る。
そう、高城は何の根拠もなくお伽噺を信じていたわけではなかった。
母方の祖母が話していたのを、うすらぼんやりと覚えている。まだほんの小さな、それこそ自我が芽生えるかどうかというような幼い頃の出来事だ。
祖母は言った。
「私たちは、鬼の血をひいているんだよ」
絵本やテレビ等で見る怖い存在しか知らなかった幼い高城に、それはとてつもない衝撃を与えた。そして間の悪いことに、祖母がその秘密をたった一人の孫に打ち明けたのは、彼女が病院のベッドの上で息を引き取る前のことだった。
だから余計に鮮烈な記憶として残ったのだろう。
何故祖母がそんな重大な秘密を幼い孫に伝えようとしたのかはわからない。伝えて一体どうしたかったのかも、今となっては謎だ。ただ言えるのは、そのおかげで孫はその後の人生を盛大に踏み外すことになってしまった、ということだけだ。
鬼の血筋を持つ者の話は、伝承という形で今も語り継がれている。
そして鬼に限らず、この国には様々な魑魅魍魎が跋扈した時代があり、そしてその血をひいたという末裔が存在しているということを、高城は調べ尽くして知っていた。ただ、自分が本当にそうなのかという点まではわからず、ずっと疑問に思っていた。
「鬼っていうと、普通は角が生えたやつのことを指すじゃないですか」
いつだったか、高城は淵に尋ねたことがある。
何度か彼と対面した後、ずっと疑問に思っていたことを、幾らかの期待をこめて訊いたのだった。
「そうですね」
「でも、僕には角とか、そういう痕跡は無いんですけど」
バランスが取れていてとても形が良いと褒められたことがある頭蓋骨――その額の部分を撫で擦りながら高城が問うと、淵はやんわりと微笑みながら答えた。
「鬼といっても、数多の人ならざるもの、それらをひっくるめて鬼と称した時代もあります。それこそお伽噺で語られるような存在は、デフォルメされた姿だと言ってもいいでしょう。私は、彼らは我々と同じ血をひいた……つまりは『夜の一族』の因子を持つ者を指しているのだと解釈します」
優雅な仕草でティーカップに注がれた香り良い茶を口にし、淵は一息つく。
「そして、その因子の発現は、人によって違います。鬼の血をひいていると言っても、貴方に角が生えるかどうかはわかりません。それに、〈これ〉は、貴方の願望が反映されるものなのです」
言って、淵は懐から小さなものを取り出した。
ほんの少し揺らしただけで、それな微かな淡い燐光を放った。
透明なアンプルの中で揺れる液体――〝ルナティック〟と呼ばれる、魔法の薬だ。
「しかし、〈これ〉を使用した際に発現する因子は、紛れもなく貴方自身のものです。そうありたいと願ったものの姿へと変われる、その手伝いをしてくれるのが、この薬の本当の効果です」
なるほど、と高城は思った。
だから迷うことなく差し出されたものを受け取り、そして、望んだ姿を手に入れた。
――良かった。
淵がもたらしてくれた言葉を噛み締めるように、高城は反芻する。
超現実主義者である父親からいくら矯正されようとも、自分の血筋がそうなら否定などできる筈もない。
大体、父親などはほんの少しの精子を母の胎に提供しただけではないか。その一点のみで繋がるだけの存在だ。
だからといって、文字通り血肉を分けた自分を母が愛してくれたかというと、そうでもなかったのだけれども。
――本当に、良かった。
再度、高城は思う。
それならば、この先自分が何を成そうとも、嫌悪せずに受け入れることができる。
ようやく服を着終えた高城の表情を見て、淵が頷いた。
「彼女のことは、よろしく頼みましたよ」
試作品を無断で使用した件については不問としてくれるらしい。その代わりに、ということだ。
「……わかっています」
ようやく出した声は小さく掠れていたが、淵には届いたようだった。相手が満足げに頷くのを横目にしつつ、高城は最後に羽織った上着のファスナーを一番上まで上げた。
異様に寒かった。
歯の根が合わない。
今や震えは全身に広がりつつあった。
医者の卵にすらなれなかった高城だが、それまでに勉強したことや、その後に必要で学んだことは覚えている。
おそらく、変身によってエネルギーを使い果たしたことで、全身の細胞という細胞が枯渇状態に陥ったのだろう。平たく言うならハンガーノックだ。
今日の獲物は二人いた。これまでとは運動量が違う。移動距離も結構なものだったし、その分体力を余計に消耗した。今の自分の肉体は、絞りカスのようなものだ。そう思い至ったところで、ぐらりと身体が傾いだ。
「おっと、あぶない」
淵が慌てたように高城に近寄って手を伸ばし、その身体を支える。
どうせなら、こんなおっさんじゃなくて、西尾さんに抱きしめてもらいたかった。
「おっさんとは失礼な」
丸レンズの奥にある細い目を大きく開いて、淵が抗議した。
どうやら意識も朦朧としてきたせいで、思ったことをうっかり口から滑らせたらしい。
しかし淵は気を悪くしたのではないようだった。くすくすと再び笑って、もはや半分ほど意識が落ちかけている高城の耳に、囁くように語りかける。
「確かに貴方から見れば、私はおっさんのカテゴリーに入るでしょうね。年上なのは違いありませんから。でも、私なんて、一族の内ではまだ全然若い方なんですよ?」
へぇ、そうなんだ。
舌を動かすのも面倒になってきた。
だんだんと立っていることもままならなくなってきた高城は、力を抜き、淵に身体を預けた。
こんなにも近く触れ合っているのに、淵からは少しも温もりを感じなかった。まるで日陰にある石や金属に触れているような、そんな冷たさだった。
しかしそれを不思議に思う余力は無かった。
眠い。ひたすら眠くて仕方がない。目蓋が重い。目を開けていられない。
早く部屋に戻ってベッドに潜り込んで、何も考えずに眠りたい――
人一人、大の男ともなれば、かなりの重量となる。それでも淵は微動だにせず、ゆっくりと崩れ落ちる高城の身体を片腕で支えていた。
「いくら適合するといっても、この薬は未完成……そのせいで、因子を持つ貴方でさえもこんな風になってしまう。改良するためには、どうしても彼女が必要なのです――わかりますね?」
なかば夢現で聞く淵の言葉は、まるで漆黒の天鵞絨で包まれるような、冷たくも心地よい声色をしていた。
その声が、降り注ぐ雨が地面に染み込んでいくような響きで、高城の鼓膜を優しく揺らし続ける。
「……ですから、ぜひとも彼女と仲良くなって、こちら側に招いてください。お待ちしておりますよ、彼女が我々のもとへと来てくれる日を。ええ、きっと、貴方ともお似合いとなることでしょう。そうなれば、貴方は名実共に、我々の一族となることができる」
――楽しみにしていますよ。
淵の言葉に送り出されるように、高城の意識は完全に闇に落ちた。
†
出勤してすぐ、自分の場所と指定された席についたところで、待ってましたとばかりに誰かが室内に入ってきた。
顔を上げて誰なのかを確認するよりも早く、その人物は風のような素早さで高城の側までやってくると、
「あの、これ」
おはようございますの挨拶もそこそこに、コトリという小さな音と共に何かを卓上に置いた。
爽やかな青色が目を引くパッケージ――宣伝でもよく見かける市販の胃薬だ。胸焼け、胃もたれ、胃酸過多等々の文字が、目にも鮮やかな色を纏い、踊っている。
「昨日は申し訳ありませんでした。止めれば良かったんですけど、その、つい出遅れて」
遠慮がちにかけられる声と、その声の主の姿に、高城は瞠目した。
西尾巴。資料では何度も見ていた顔だった。
前日の午前に初めて顔合わせをして、その場で相棒と指定され、早速親睦を深めるために昼食を共にした相手だった。
終始不機嫌そうに、そしてどこかよそよそしい態度を崩さなかった彼女が、今朝は何故かこうして高城の隣に立ち、至極申し訳なさそうな顔で謝っている。
「大将は悪気があってやったことじゃなくて、何て言うか、あの人サービス精神が旺盛すぎるだけで、でも私もボケッとしていないで止めれば良かったんですけど、すみません、徹夜明けだったんで頭がよく回ってなくて、それから――」
視線を泳がせたり、挙動不審ともいえる手振りも交えて、彼女は早口で高城への謝罪を続ける。
そして、彼女がそんなふうにする原因にも思い至った。
定食屋の大将がサービス精神を発揮させすぎた超盛り天丼のせいで具合を悪くした高城は、定時を迎える前に早退をしたのだった。
おそらく、その後で上層部からこってりと絞られたのだろう。なにせ、この異動には本庁に在籍している高城の父親の意向もある――ということになっている。表向きは。
だが天丼については違う。あれは高城が自分の意思でチャレンジしたのだ。彼女が責任を感じることはないのだ。それに、あの海老天はとても美味しかったのだし。
しかし、くるくると目まぐるしく変わる巴の表情と、心底申し訳なさそうに恐縮する声色とをみるに、別段『絞られたから』謝罪をしているという様子ではなかった。
彼女は本当に申し訳無いことをしたのだと思って、高城に謝っているのだ。
始業時間よりも三十分ほど早く出てきた朝の、最初の出来事だった。
当直の者はたまたま席を外しており、責任者である榊もまだ出勤しておらず、一課には高城と巴の二人しかいなかった。
そして、おや? と高城は内心で首を傾げた。
西尾さん、今日は非番だったのでは?
高城の顔に浮かぶ表情に、巴がうぐっ、という具合に言葉を詰まらせ、謝り倒していた舌を止めた。代わりに、高城が口を開く。
後に向日葵の花が咲くようにと称されるほどの、全開の笑顔で。
「ありがとうございます、西尾さん。これ、わざわざ僕のために買ってきてくれたんですね」
「いえ違います。いつも私が飲んでるのがあったから、たまたま」
即座に否定が入るが、箱はまだ開封されていないし、バーコード部分には署の対面にあるドラッグストアの会計済みシールが貼られている。
「それと、忘れ物に気がついたから、取りに来るついでにお渡ししようと思って――なので、帰ります!」
と言うだけ言って、巴は早足で高城の側から離れて、一課から出ていった。嵐のような勢いだった。
ちょうどその時入れ違いでやってきた榊が、そんな巴と扉のところで鉢合わせして目を白黒させる。
「おはようございます、榊警部」
「お、おう? あぁ――、おはようさん……」
一体何があった、もしかしてあいつまた何かやらかしたのかと、自分と巴が走り去った方向とを見比べる榊に、高城は笑いながら告げる。
「彼女、忘れ物を取りにきただけだそうですよ」
言いながら、高城は机の引き出しを開き、胃薬をそこに仕舞った。
これからしばらくの間は、こいつの世話になるだろうなと思いながら。そして、思い返す。
扉を潜り抜ける直前に一度だけ自分を振り返った彼女の顔を。
渡されていた資料では何度も見ていた。事前にリサーチもしていたし、大体のことは把握していた。
それでも、何の先入観もなく率直な態度で自分に接してくれた彼女と対面して、そして立ち去る間際、申し訳なさそうに、それでいて少しはにかむように笑いかけてくれた、その瞬間に。
恋に落ちたことを、思い出した。
†
淡い期待どころか、大それた願望を抱いていたのは否定しない。
だけど、叶うのなら。
許されるなら。
共に居たいと願っていた。
――彼女と仲良くなってくださいね
耳の奥で、こめかみで、うるさい程鳴り響く音の合間を縫って、誰かの言葉が反響を伴って甦る。
一体誰の声だったのか、思い出そうにも周囲が煩くてそれどころではなかった。
それに。
黒くてデカい奴と、白くて細い奴がいた。
そいつらが彼女の側にいるのが気に食わなかった。
そして彼女を自分から取り上げようとしていることに、高城は激怒していた。
させるものか。
誰にも渡すものか。
彼女は――他の何に代えても、彼女だけは、
――どうしたかったのだろう。
目の前に突如ぽっかりと空いた隙間を眺めるように、高城は思った。
そして、思い出した。
自分は取り返しのつかないミスを犯したのだということを。
心残りなど無いと思っていたけれど、こうして間際になると案外いろいろと思い出すものだ。
もっと話せばよかった。素直に自分の気持ちをぶつければ良かった。
だけど、そうしたところで、やはり結果は最初から決まっていたのだろうという気もしていた。
視界はすでに真っ赤を通り越して暗く、黒に染まっていた。
何も見えない。彼女の声すらもはや聞こえない。
残念だ。
でも仕方ない。こうなったのは自分のせいなのだから。
でも。一つだけ。
彼は――荒れ狂う獣であった高城は思う。
タクシーで彼女の部屋まで送り届けた後、どの色のマフラーなら彼女に似合うだろうかと、真剣に考えていた。
巴があまりお洒落に関心がないのはわかっていた。だからあまり華美ではないものを、普段使いでも問題のないものを選びに選んで、あたりをつけていた。
それを手渡したときの彼女がどんな表情を浮かべるかを夢想しながら、床についた。
その晩は、未だかつてない穏やかな気持ちで眠ることができた。
きっと迷惑そうな顔をされるだろうけど、でも多分、決して本心から断るようなふうでもない。
思い浮かべる巴の笑顔に、高城は胸のつかえが取れたように微笑み返す。
よかったと、安堵の呟きを漏らしながら。
番外編 side【UNKNOWN】後編 --- 終 ---
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
本編、番外、いずれも作品へのご意見・ご感想をお聞かせいただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。




