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05

 人狼の口から膨大な量の血反吐が迸る。

「ガハッ……グゥ、ウウウウウ……!!」

「ロウッッ!?」

 私の喉からも悲鳴じみた声が飛び出した。どうにか頭部や心臓などの急所は外したようだが、胸も腹も四肢も貫かれたロウは、いわばモズの早贄はやにえがごとき状態だった。あらゆる箇所から血が流れ出し、全身が真っ赤に染まる。

 しかし、ある意味で私以上の反応をしたのは鹿角だった。

 物も言わず、そして私が差し出していたジェット・インジェクターも受け取らず、一目散に〈獣〉へ向かって駆け出したのだ。

 稲妻のような速度で〈獣〉に肉薄したかと思うと、ブレードベルトを一閃。生えたばかりの棘の山を根元から断ち切る。

「悪ぃ、助かった!」

 剣山が切り飛ばされたことでモズの早贄状態から解放されたロウが、着地して体に刺さった棘を抜きつつ、鹿角に礼を述べる。軽く言っているように聞こえるが、床に片膝をついているし、声もやや辛そうだ。再生能力によって傷はすぐ塞がったようだが、言わずもがな、受けたダメージは決して小さくない。

 簡潔なロウの礼に、しかし返ってきたのは怒声だった。

「油断するな、馬鹿が! こっちの準備が済むまで慎重に動けないのか!」

 鹿角の顔が青ざめ、引き攣っているのが、遠目でもわかった。めちゃくちゃ心配したんだぞ、という声が聞こえてきそうな鹿角の怒鳴り声に、ロウが片手を立てて謝罪を重ねる。

「だから悪かったって――おおっと!」

「GGGGGGGGRRRRRRRRRRAAAAAAAAAAA――!!!」

 再び〈獣〉が咆哮を上げ、今度は背中だけでなく全身から棘を突き出した。ロウも鹿角も即座に飛び退き、距離を取る。だが、その隙に〈獣〉は勢いよく起き上がり、転倒によって生じた隙を封じてしまった。

「WWWWWWWWOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO――!!!」

 ロウに羽をもぎ取られたのが余程痛かったのだろう。〈獣〉は完全に怒り狂っていた。巨体の表皮からヤマアラシのごとく針――と言ってもサイズ的にはもはや〝槍〟だが――を生やした〈獣〉は、人ではまず有り得ない四本の腕を高速で振り回して猛攻を繰り出す。速度も上がったようで、まさしく〝生きた台風〟のように破壊を撒き散らした。

 私は息を呑みつつ、ロウと鹿角の戦いを見守って、彼らの内どちらかがジェット・インジェクターを受け取りに来るのを待っていたのだが――

「……ちょっと、これ、まずいんじゃ……」

 幸い〈獣〉が起こす風は止んだので、瓦礫やガラスの破片が飛んでくることはもうない。だからこの場にとどまって待つこと自体に問題はない。ないのだが――二人が一向に戻ってこないのだ。

 いや、言わずともわかる。彼らをしてその余裕がないのだ。〈獣〉の動きは時を経るごとに速くなっていくし、動きも大振りからコンパクトなものへと変化しつつある。

 覚醒、という言い方を鹿角はしていた。あの怪物は動けば動くほど、肉体が活性化している。さらに、ロウと鹿角と戦えば戦うほど経験を積み、現在進行形で〝成長〟しているのだ。

 今では二人同時に戦って、どうにか互角という状態。だがこのまま黙って見ていれば、いずれは〈獣〉の方が彼ら二人を上回り、最終的には――

「……っ!」

 そうはさせてなるものか。私はぐっと奥歯を噛みしめ、手の中にある四本のジェット・インジェクターを握り締めた。

 ロウも鹿角もこれを受け取りに来られないのなら、私が取るべき行動はただ一つ。ここで手をこまねいているだけでは、正真正銘の役立たず――足手まといでしかないのだから。

 やるしかない。

「……ロウ! 鹿角くんっ!!」

 私は戦闘の音に掻き消されないように、可能な限りの大声で呼び掛けた。

 二人の目線が弾かれたようにこちらへ集中するのが、感覚的にわかる。

「あたしがこれを打つから! 二人はそいつの動きを止めて! お願い!」

 銀色のジェット・インジェクターを掲げて、私は宣言した。

「えっ!? ちょ――うっそ!? マジで!?」

 ロウは人狼でありながらも目を丸くし、

「な……馬鹿か!? 馬鹿なのか!? ふざけるなっ!!」

 鹿角は狼狽ろうばいも露わに、私を罵倒する。だが虚を突かれ過ぎたのか、明らかに語彙が貧相になっていた。

「だってしょうがないじゃない! 他にいい手があるなら言ってよ! 今すぐ!! そうじゃないなら、黙ってあたしの言う通りにして! 早く!!」

「ぐっ……!」

 ロウも鹿角も〈獣〉と激しい戦闘を繰り広げながらのやりとりだ。言葉を尽くしたとは言い難い。だが、急がなければ〈獣〉は更なる成長を遂げ、手に負えなくなっていく一方だ。

 それに、鹿角も予想していなかったということは、〈獣〉にとってもそうである可能性が高い。そもそも奴は私のことをほとんど見ていない。一度は照準されたが、それだけ。何の攻撃もしてこない私より、痛い目に遭わされたロウや、その邪魔をする鹿角の方が〈獣〉にとって優先度が高いのだ。

 だからこそ、私なら〈獣〉の死角を狙える。

「仕方ねぇ鹿角! 巴はああなったら多分、テコでも動かないタイプだぞ! やるしかないって!」

「クソッ! これが護衛任務だと!? こんな向こう見ずな護衛対象がいてたまるものか!」

 承諾を促すロウの言葉に、鹿角が吐き捨てながらも遠回しに了承の意を返した。口は悪いが鹿角の言い分は最もだ。もし自分が彼の立場なら、やはり同じように罵声の一つぐらいは口にしていたかもしれない。

 ははは、とロウが素早く飛び回りながら笑い、

「俺は好きだけどねぇ、こういうのも! ぃよっし、鹿角! そんじゃあいつものアレ、一丁いっちょう頼むわ!」

 曖昧な言い方で鹿角に何か指示を出した。

「――わかっているっ!」

 ブレードベルトを駆使して空中機動で飛び回っていた鹿角が、地に足をつけ、腰を落とした。

「離れてろよ、ロウ!」

 何をするのかと思いきや、両手に握った二振りのブレードベルトを、これまでに倍する勢いで振り回し始めた。生きた蛇のごとく暴れ回る二本の薄い刃が嵐と化す。鹿角の全身から放たれる〝SEAL〟の深緑の輝きが強まり、周囲を明るく照らした。

「――行くぞっ!」

 鹿角が掛け声をしたのと同時、〈獣〉と殴り合っていたロウが反転して跳躍、間合いを開いた。

 刹那、二条のブレードベルトが雷光のように宙をはしる。

「おおおおおおおおおおおおおおおっっ!!」

 大きく両腕を振るって鞭のごとくしなったブレードベルトが、信じられないほど長く伸び上がった。〝SEAL〟を介してコントロールしているのか、ブレードベルトの刀身は意思持つ蛇のように空を裂き、旋回する。

 転瞬、閃光と化したブレードベルトは〈獣〉の周囲で二重螺旋を描き、あっという間に巨大な怪物を取り囲んだ。

「UUUUUUURRRRRRR……!?」

 直接攻撃してこず、周りを囲むだけのブレードベルトの動きに〈獣〉が困惑した様子を見せる。奴の頭では鹿角の行為が理解できないのだろう。

 しかし次の瞬間。

「ふっ――!」

 鹿角が鋭い呼気と共に両腕を引いた。途端、〈獣〉を囲んでいたブレードベルトの径が瞬時に狭まり、巨体に巻き付く。幾重にも螺旋を描いたブレードベルトが、そのまま〈獣〉を拘束するロープと化したのだ。

「WWWWWWRRRRRRRROOOOOOOOO――!?」

 突如として身動きを封じられた〈獣〉が驚愕の声を上げた。よもや自らの体に巻き付いてくるとは思っていなかったのだろう。明らかに周章狼狽しているのがわかる。

 しかし言うまでもなく、〈獣〉と鹿角とではパワーが違いすぎる。重量だって桁違いだ。

 だが。

「ロウ!」

「おうさぁ!」

 鹿角の合図に人狼のロウが力強く応じる。見れば、いったん〈獣〉から距離を取ったロウは、ずっと捲ったままだったコートの袖を、元に戻しているところだった。

 袖が真っ直ぐ伸ばされた瞬間、これまでは肩あたりで止まっていた〝SEAL〟の幾何学模様が一気に腕を走り抜け、指ぬきグローブのそれと合流する。

 金色の瞳が決然と〈獣〉を見据え、狼の口がしかし、ニヤリと笑んだ。

「さぁ、そろそろお休みの時間だぜ!」

 ロウの足が地を蹴って、一足で〈獣〉との間合いを殺す。ブレードベルトで身動きのとれなくなった〈獣〉の懐へ潜り込み、しかし自然な脱力感のある構えを取った。

 これまで見てきたロウの戦闘スタイルは、とにもかくにも力押し。格闘技の心得はあるようだが、さりとてセオリーを重視せず、体が動くまま拳を振り回しているようなところがあった。

 しかし、この時ばかりは違った。どこか泰然とした雰囲気は、これまでとは明確に異なる。

 両の拳を緩く握り、ゆらりと前へ。両足は踵を地面につけ、腰を落として重心を下へ。

 すぅぅぅぅ、と狼の口が小さく開き、息を吸う。

 そのまま左足を前へ。ゆっくりとした動きで、アーミーブーツの靴底を床に下ろす。その動きは武道で言うところの〝踏鳴ふみなり〟、拳法で言うところの〝震脚しんきゃく〟と呼ばれるものだ。

 さほど速度もなく、力を込めた風でもなかったのに、いきなり落雷じみた轟音が響いた。〈獣〉の咆哮にも負けていない大音声。こんなに離れているというのに、私の全身がビリビリと震える。

「ふっ」

 体が立てる音とは真逆に、ロウの口から出たのは小さな呼気だった。

 左脚と連動して前へ出た左手。それを後ろに引きつつ、右拳を前へ突き出す。実にまっとうな正拳突きの動き。理想的と言っていいほど、型通りの動作。

 だが、この感覚は何だろう。まるでスローモーションのようにゆったりとしたロウの動きには、激しさというものが全くない。

 これまでの戦いでは勢い任せの連打ラッシュを放ったり、跳弾じみた空中機動で飛び蹴りを叩き込んだりと、美しさの欠片もなかったのに。

 今この瞬間のロウの動きだけは、見惚れるほど綺麗だった。

 ロウの右拳が〈獣〉の腹部に当たる。少なくとも私の目には、その拳はせいぜい玉子を割るか割らないかぐらいの威力しかないように映った。私からはそれほどゆっくりした、優しい拳のように見えたのだ。

 だが、気のせいだった。

「UR――」

 凄まじい勢いで〈獣〉が身をくの字に折った。遅れて、大砲を発射したような衝撃音が鳴り響く。何かと思えば、それはロウの拳が〈獣〉の腹を打つ音だったのだ。

「――――!?」

 あの〈獣〉が、声も上げずに悶絶している。いや、声を出したくとも出せないのだろう。全身に走る衝撃があまりにも強すぎて。

 優しい拳など、とんでもない。

 錯覚だったのだ。おそらくロウは、ものすごく速く動いていたに違いない。震脚の音が雷鳴のようだったのも、それほどの勢いと力が籠もっていたからだ。

 なのに妙に遅く見えたのは、その動作があまりにも完璧過ぎたから。頭の天辺から足の爪先、手の指先に至るまで洗練された、美しい動きだったから。

 だから遅く、優しく見えたのだ。逆説的に。

 そして、だからこそ実際の威力は、私の想像を超えて絶大だった。

「――――――――!? !?」

 腹を殴られた〈獣〉が、身を折ったまま動かない。悲鳴も上げず、ただ苦痛に震えている。唯一、見開かれた双眸だけが語っていた。自分の身に何が起こっているのかわからない――と。

 ロウが〈獣〉の腹部から右拳を引き、背筋を伸ばして直立した。そこで一拍を置いてから、再び腰を落として構えを取り、今度は同じ要領で左拳を突き出す。

「ふっ」

 やはりその姿は、凄まじい破壊力を持った正拳突きを放っているようには見えなかった。

 しかし踏み鳴らされる床と、拳で叩かれる〈獣〉の肉体は、めいめい物理法則に従って耳を劈く爆音を奏でる。

「――――!?」

 もう限界まで体を折っていた〈獣〉の巨躯が、大きく跳ねた。鹿角のブレードベルトで拘束されつつも、可能な限り体を逃がしていた〈獣〉だったが、それが逆に仇となったのだ。今度こそ逃げ場のない破壊力が叩き込まれ、怪物は衝撃と激痛に打ち震える。

 少し遅れて、食い縛った牙の隙間からコールタールにも似た黒い液体が滲み出てきた。それが〈獣〉の血なのだと気付いたのは、鼻の穴からも同じ色の液体が溢れてきてからのことだ。

「ふっ」

 三度、ロウの拳が放たれる。〈獣〉は避けることも出来ず、またも直撃を受けた。悲鳴も上げることすら出来ず、ただひたすら身を震わせる。

 おそらくだが、ブレードベルトの拘束に関わらず、今の〈獣〉は動きたくとも動けないのだろう。

 寺などにある大きな鐘を鐘木しゅもくで突くと、大きな音が長く響き、遠くまで届く。思うに、あれと似たような現象が今の〈獣〉には起こっているのだ。

 ロウの特殊な――あるいは、ある意味では正統派に過ぎる拳は、絶大な威力を〈獣〉の肉体に叩き込んでいる。それが〈獣〉の奥深くまで浸透し、駆け巡り、隅々まで伝播することによって、神経を痺れさせているのだ。

 だから、〈獣〉は動けない。震動が止むまで音を響かせ続ける、鐘のように。

 つまり――今こそが、私の血液を撃ち込む絶好の機会であった。

「巴っ! 今だっ!」

 鹿角が私にも合図を出す。遅いというわけではない。先述の通り、遅く見えるロウの拳は実は凄まじい高速攻撃だったのだ。それが三発も打ち込まれ、〈獣〉の動きが完全に封じられたのを確認してから、鹿角は合図を出したのである。

「わかっ――た!」

 走り出すにはそれなりの覚悟と勇気が必要だった。だから私は体に力を入れて、自分で自分の背中を押すようにして駆け出す。

 ロウが〈獣〉をサンドバッグにして、おそらく八発目の拳を叩き込んだ頃、私は〈獣〉の間近まで接近した。

 足を止め、敢えてここで深呼吸を一つ。

 焦るな。間違えるな。慌てて急ぐより、落ち着いてゆっくりやった方が結果的には速いはずだ。全身に溢れる緊張を自覚している。体の芯から震えが来る。原因が〈獣〉への恐ろしさなのか、あるいは気が昂ぶっているからなのか、判然としない。

 鹿角から預かり、自分の血を収めたジェット・インジェクターの一本を手に取る。その先端を、生まれたての子鹿みたいに震えている〈獣〉の太腿に押し当てた。鎖帷子くさりかたびらみたいな毛並みを押し分け、地肌に直接ジェット・インジェクターの先端を密着させる。

 強く押し込んだ。プシュッ、という気の抜ける排気音が鳴る。

 後はこれを繰り返すだけだ。

「――UUUUUUUUUUUURRRRRRRRRRRRR……!!」

 不意に〈獣〉が重苦しい唸り声を発した。私が接近しているせいでロウが拳を止めているのだが、もう回復が始まっているらしい。このままでは間を置かず、〈獣〉がブレードベルトの拘束を振りほどいて暴れ出してしまう。

「――~ッ……!」

 馬鹿か私は。何を一本ずつ悠長に注射する気でいたのだ。落ち着いているつもりがまったく冷静になれていなかった。頭がテンパって判断能力が落ちていたことを自覚する。

「こうなったら……!」

 私は残りの三本を両手でひと束にして、一息に〈獣〉の脚に突き立てた。硬い毛足の奥へジェット・インジェクターの先を送り、体重をかけて一気に――

「GGGGGGGGGGGRRRRRRRRRRRROOOOOOOOOWWWWWWWW――!!!」

 圧縮注射器の作動音は、出し抜けに上がった〈獣〉の爆発的な咆哮によって掻き消された。

 高城が今際に放ったそれと同じように、目の前で大気が爆発する。

 私の体はあっさり吹き飛んでしまった。全身に風が叩き付けられ、宙に浮く感覚。直後、地面に落ちて石ころのように転がった。前後不覚に陥る。

「――っは……!」

 だがそのまま倒れてやるほど素直でも儚くもない女だ。私は体にかかった慣性が弱ってきたところで床に手を突き、全力で起き上がった。

「WWWWWWWWWWWOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOWWWWWWW――!!!」

 未だブレードベルトに拘束されたままの〈獣〉が、天井に向かって絶叫していた。巨体の全身が強張り、全身全霊で巻き付いたブレードベルトを引き千切ろうとしているのが見える。

「させ、る、かぁああああああああああっっ!!」

 綱引きのように両手を引いて踏ん張っている鹿角が吼えた。意地でも〈獣〉への拘束を緩めまいと。

「大人しくしてろ――ってぇのッ!」

 私が離れたことを機として、ロウが再び拳を叩き込んだ。しかし、何故か効かない。〈獣〉は喉を反らしたまま、尋常ではない音量で叫び続けている。

 まさか、私の血では効果がなかったのか? この〈獣〉を止めるには足りなかったのか?

 一瞬、目の前が真っ暗になりかけた。

 が、しかし。

「――なら、もう一回よ……!」

 幸い、まだ私の手元にはジェット・インジェクターが残っている。さっき吹き飛ばされた時に手放さなかった自分を褒めてやりたい気分だ。これさえあれば、何度でも私の血を注入してやれるのだ。四本で効かないなら八本、八本で効かないなら十二本分だ。

「ロウ、鹿角くん! もう一回」

 やるから、またそいつの動きを止めて――と言いかけた、その時だった。

 ピタリ、と〈獣〉の動きが止まった。

 まるで時が凍り付いたかのごとく。

「え……?」

 あまりにも唐突過ぎる変化に、戸惑いが隠せなかった。私は目を瞬かせ、何度も〈獣〉の頭とロウ達の様子を見比べる。ロウも鹿角も、固唾を呑んで〈獣〉の様子を窺っていた。

 次なる変化もまた、突然だった。

「あ……!」

 からすの濡れ羽がごとき〈獣〉の毛から、潮が引くように色素が抜け始めた。頭頂を始点として漆黒から純白へと変色し、それが下方へ流れ落ちながら全身へと広がっていく。高速で雪化粧を施されているような、それは不思議な光景だった。

「き、効いた、の……?」

 唖然としたまま、我知らず呟く。これが私の血液を注入した結果なのか。それとも、〈獣〉が自らなした変化なのか。咄嗟には判断できなかった。

 しかし。

「ぃよっしゃあっ! ナイスガッツだぜ、巴!」

 ロウがガッツポーズをして快哉を叫んだ。狼の顔だというのに満面の笑みを浮かべているのがわかる。鋭い爪が生えた親指をグッと立てて、私に向かって突き出した。

 どうやら私の血液――つまり即席の抑制剤が効果を発揮したらしい。〈獣〉の毛が白く染まったのはその結果のようだ。ほっと胸をなでおろす。

「やれやれだ……」

 同じく安堵したのか、鹿角が搾り出すように呟いた。ブレードベルトを張り詰めさせていた腕を下げ、小さく息を吐く。

 さぁぁぁ、と清流にも似た音が聞こえると思えば、それは〈獣〉の肉体が崩壊する音だった。白化して硬直した巨体が、端から砂のように崩れ始めている。遅々としてはいるが、鹿角に精気を吸われた実験体が塵と化す現象とよく似ていた。

 終わった――そう直感した、その時。

「UURRR……」

「――え?」

 小さく、けれど確かに聞こえた。かつてないほど微かな、まるで子犬がそうするような、喉を鳴らす音。

 唸り声。

 象にも匹敵する巨大生物の崩壊は徐々に加速しており、今では粒子化した肉体の流れ落ちる音が、ざぁぁぁぁ、と雨のようになっている。でも、そんな中で、確かに私は聞いたのだ。

「ねぇ、ちょっと――」

 不安になり、念のためロウや鹿角に伝えようとした、その刹那。

 巨大な雪像のようになった〈獣〉の横っ腹、ちょうど鹿角が幾重にも巻きつけたブレードベルトの隙間から、()()が爆発的に飛び出した。

「――っ!?」

 白い粉塵が間欠泉よろしく吹き出し、白化した〈獣〉の細胞が爆煙ばくえんと化す。そんな純白の煙幕から、しかし真っ黒な物体が出現した。

「な……!?」

 度肝を抜かれ、目を見開く。〈獣〉の体内から飛び出してきたのは、一言では言い表せそうにない、実に奇妙な物体だった。

 ウネウネと動くのは、タコの足にも似た触手。それらが幾本も絡み合ってサッカーボール大の球体となった、不気味に過ぎる異形だった。一瞬では数えきれないほどの触手が、自切したトカゲの尻尾みたいな動きで暴れ回っている。

 そんな得体のしれないものが、私に向かって一直線に突っ込んできた。

 しかも、私の足よりも太い触手の先端にある、牙の生え揃った狼のあごを開いて。

「きゃ――!?」

 反射的に悲鳴を上げかけたところを急襲された。目も鼻もないくせに、強靭な顎だけがある触手の先端が、私の腕や脚、喉元へと喰らい付く。

 避けられなかった。

「――――――――っっっ!?」

 豪速球にも似た勢いで飛びかかって来た漆黒の物体に押し倒され、私は背中から倒れ込んだ。首や腕、足に牙が食い込んでいく感覚。最初は冷たい異物が体内に入ってきたかと思うと、瞬く間に灼熱する激痛へと変じた。

「か、はっ……!?」

 喉の中に溢れた血が、呼気と共に口から飛沫しぶいた。喉が詰まり、呼吸不全に陥る。転倒した際に背中を強打したのもあって、私は瞬く間にパニックになった。

「UUUUUURRRRRRRR――!!」

 さっきまでの重低音が嘘のように、軽く高い怪物の声。これは一体何だ? この漆黒の異形は、まさか〈獣〉の本体? いや、〝核〟? 私の血に含まれている〝無変異種イミューン〟の因子で崩壊する肉体を捨てて、こうして飛び出してきたのか。あるいは、〈獣〉の生存本能が体内の重要な器官を掻き集め、このような形状に圧縮して切り離したのか。わからない。わからないが――

「ざ――っけんなぁっ!!」

 この瞬間、驚愕や恐怖などよりも、怒りが圧倒的にまさった。

 往生際が悪いにも程がある。なんだコイツは。この期に及んで悪あがきなどみっともない。醜悪の極みだ。

 死ね。

 とっとと死ね――!

 私は無意識に噛み付かれていない方の腕で周囲を手探りして、()()を掴み取った。

 武器になるのなら何でもよかった。

 溺れる者が藁をも掴むように、私が握ったのは培養槽の破片だった。ちょうど手頃な大きさの、ナイフみたいな形状の強化ガラス。

「ぁああああああああああッッ!!」

 無我夢中で叫びをあげ、私は手に握ったガラス片を不気味な触手の塊に叩き込んだ。何度も何度も、尖った切っ先で漆黒の肉塊を切り裂き、抉り、殴りつける。握った掌までもが切れて骨まで痛みが突きぬけるが、そんなことはもはやどうでもよかった。

「UUUUUUURRRRRRRWWWWWWW――!?」

 電撃を受けたように黒い肉の塊が痙攣した。ビクビクと跳ねながら触手の先端に開いた口から悲鳴が上がる。思いのほか弱弱しい声だったが、しかし、だからこそ余計に私の瞋恚しんいは燃え上がった。

「このっ! このっ! このっ! このぉっ!」

 こんなものが――こんなものが、私の両親の命を奪った()()()()()だというのか。()()も、かつてはどこかの誰かだったのかもしれない。何の罪もない人間だったのかもしれない。だけど、ここまで別物に変貌してしまったのなら、もはや関係のないことだ。

 私は憎む。無辜の人間をこのような醜い化け物に変えてしまった、その全てを。

 そう、奪われたのは両親の人生だけではない。もっと多くの人命が失われたのだ。()()()()()を生み出すような、くだらない技術のために。

 晃だってそうだ。直接手を下したのは高城だが、間接的には()()()()()()()()()が殺したのだ。

 そういった意味では、高城だって犠牲者の一人に過ぎない。

 悪党だの善人だのといった話ではないのだ。

 私が大切に思う人々を不幸にし、彼らの命をも奪った。

 その集大成が――()()()なのだ。

「こんのぉおぉ――――――――ッッッ!!!」

 許さない。許せない。許せるわけがない。

 コイツを、この醜悪な怪物を作り出した全てが憎い。

 私は嫌悪する。このような異形を作り出した者達を。その背後にいる、全ての存在を。私の両親を殺し、無辜の人々を殺し、さらに多くの人間の人生を狂わせた、何もかもを。

 そうとも。『夜の一族』――『ニュクス』。

 奴らこそが()()()なのだ。

「消えろぉおぉおぉ――――――――ッッッ!!」

 絶叫して、もう何度目かわからない攻撃を加えようとした、その瞬間。

 ヒュッ、と風切り音が目の前を通り過ぎた。

「UURRWW――」

 私の喉や腕、足に噛み付いていた顎の力が弱まる。何故かと思えば、先刻の風切り音の正体は鹿角のブレードベルトで、そいつが怪物の触手を全て切断していたのだ。

 見ると、凄まじい形相をした鹿角がこちらに向かって、ブレードベルトを振り抜いていた。

 直後、圧倒的な存在感が私のすぐ横に肉薄する。

 ロウだ。

 触手のことごとくを切り払われた怪物が、宙に浮く。そこへ人狼の太い右足が唸りを上げた。

 ちょうどサッカーボールぐらいの大きさだった怪物を、案の定シュートよろしく全力で蹴っ飛ばしたのだ。

 まさしく皮で包んだ肉塊を蹴りつける、ド派手な音が響いた。

「――っ!?」

 あのロウをして無言かつ、鬼のごとき顔つきでの行動だった。

 流れるような連携で蹴り飛ばされた触手の怪物が向かう先、そこにはブレードベルトを引いて身構えた鹿角がいる。

「フッ――!」

 だが武器は使わず、鹿角は自らの拳を振るった。一直線に突っ込んできた怪物を、真上から殴りつけたのだ。

「UR――!?」

 再び肉を打つ音と、床に叩き付けられる音とがほぼ同時に響いた。怪物の複数の口から、体内の空気が強制的に排出したような声が漏れる。

 もうこの時点で怪物は死に体だったが、激情に柳眉りゅうびを逆立てた鹿角は容赦しなかった。先程、私に見せた自分やロウ用の抑制剤を取り出し、屈みこんで床にへばりついた肉塊に躊躇なく突き立てる。赤金色のジェット・インジェクターから、プシュッ、と地味な音が響いた。

「……このサイズなら、この量でも覿面に効くだろう」

 見下げ果てたと言わんばかりの口調で鹿角が言うと同時、先程の〈獣〉がそうだったように、漆黒の触手の塊もまた潮が引くように体色が白に染まった。直後、芯を失ったように形が崩れ、小さな砂の山と化す。

 終わったのだ、今度こそ。

「――かっ……ふっ……!」

 安堵して体から力が抜けた途端、私は喀血した。自分でも驚くほどの量の血が、喉から飛び出して胸を汚す。

 頭がくらりときた。目に映る光景が天地の区別なく回転し、まるで体はそのままなのに、脳みそだけが回転したような感覚を覚え、吐き気が

「――巴、巴」

 どうやら一瞬だけ意識が遠のいていたらしい。気付いた時には、大の字になって倒れている私を、ロウと鹿角が揃って見下ろしていた。ロウはしゃがんで顔――しかも人間のそれに戻っている――を近付けて、鹿角は案の定、立ったままで。

「……あ、たし……しぬ、の……かな……」

 そう言ったつもりだった。喉から出る呼吸の音がおかしい。ヒューヒューと隙間風みたいな音がする。経験上、これはまずい状態だというのがわかった。

 果たして、私の口は動いていたのだろうか。声はちゃんと出ていたのだろうか。それすらも定かではない中、視界に映るロウが金色の瞳を伏せ、ゆっくりと首を振った。

「いや、死なないよ」

 そう言った――気がした。再び瞼を開いたロウが、夜空に輝くシリウスを二つ並べたような双眸に優しい光をたたえて、微笑んだ。

「何故なら、君は」

 そこで急に声が途切れた。私の目にはまだ、彼の唇が動く様子が映っているのに。耳の機能が故障したみたいに、何も聞こえなくなってしまった。

 ああ、なんてしまらない。肝心なところだけ聞けないなんて――

 何故なら、君は――何だったのだろう? 俺達の心の中で生き続ける? とか何とか、耳障りのいい言葉でも言ったのだろうか。わからない。本当に参った。というか、遺言も残せないだなんて。こんなことになるなら、もっと色々と話しておけばよかったな――

 と、そんなことを思いながら、私の意識は闇の中へと急転直下していったのだった。

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