03
気の抜けるような排気音。直後、高城の全身が有り得ない速度で膨張を始めた。身につけていたパワードスーツなどひとたまりもなかった。あっさりと伸縮性の限界を迎え、破裂する。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――――――!!!!!」
際限なく巨大化していく高城の口が――狼を通り越して別の『何か』へと変貌していく怪物の顎門が、途方もない声量で雄叫びを上げた。
それはもう音ではなかった。ただの衝撃波だった。
爆発じみた獣の咆哮。
ただでさえ倒れかけていた私の体は爆風に煽られ、玩具の人形みたいに吹っ飛んだ。
体が宙に浮き――そこで前後不覚に陥る。
気付いた時には、ロウの腕の中で子供のように抱きかかえられていた。おそらく、高城の咆哮で宙を舞った私を素早く追いかけ、地に落ちる前に受け止めてくれたのだろう。
「大丈夫か、巴?」
「――ロウ……? あたし、どうして……」
一瞬だが意識を失っていたらしい。記憶の繋がりに違和感がある。ぼんやりと喋ってから、電撃的に高城のことを思い出した。
「! そうだ、高城さ」
慌てて体を起こし、お姫様抱っこされている状態から視線を振りまく。
果たして私は、高城の体が鹿角のブレードベルトによって切り刻まれる瞬間を、この目で見てしまった。
「――!?」
鹿角のブレードベルトは信じられないほど長く伸びて、爆発的に膨張する高城の肉体を縛り上げていた。そして、そこから勢いよく刃を引くことで、埒外の『獣化』を始めていた高城の体を、過たず八つ裂きにしたのだ。
誰かに頭の中を直接蹴りつけられたかのようだった。痛みのない衝撃が全身へと一気に駆け巡った。
切断された途端、高城の肉体はそれ以上の『獣化』を止め、それどころか人間の形に戻りながら、床へと落下していく。遅れて切断面から溢れ出た血液が、着地した衝撃で水っぽい音を立てて飛散した。
全ての肉片が落ちる頃、それでも高城はしぶとく生きているようだった。その姿を、私はロウの腕の中から見た。
胸から上しか残っていなかった。頭の半分がまだ怪物じみた形状をしていた。美術室にあるデッサン用の石膏像みたいになった高城は、やはり物か何かのように転がっていた。
鹿角がそんな高城に歩み寄り、屈み込んで、彼の口元に耳を寄せた。最期に言い残す言葉を聞いているような、そんな所作だった。
「ぁ……ぁあ……!」
我知らず、私は喉から声を絞り出していた。悲しみや怒りからではない。絶望――こうして目を開いているのになお目の前が真っ黒になりそうな絶望が、私の胸を締め上げて、不細工な声を漏れ出させていたのだ。
聞かなければ。せめて、高城の最期の言葉を、私が聞いてあげなければ――
そう焦る心で思って、ロウの腕から抜け出そうとしたその時、高城の顔の輪郭が崩れた。
「え……?」
泥のように茶色く変色したかと思うと、どろり、と溶けたのだ。高温の熱風を浴びたチョコレートのように、ペースト状の何かへと変化していく。頭の部分だけでなく、肉塊と化した手足や他の部分も、連鎖するように溶けた。
そうして、数秒後には高城の姿はもうどこにもなかった。かつて高城だった汚い液体の水溜まりだけが、そこに残っているだけだった。
「あ……?」
すぐには理解できなかった。何が起こったのか。呑み込んで腹に落とす前に、喉のあたりで引っかかってしまった。
「な、んで……?」
思わずそう呟いてしまってから、気付く。あれが『崩壊』なのだと。細胞が死滅して、腐って溶けてしまった。本当なら死亡後、長い時間をかけてそうなる現象が、信じられないほど早く進行したのだ――と。
「……ごめん、巴。ああするしかなかったんだ」
頭の上から、沈痛なロウの声が落ちてきた。彼はそれだけを言うと、私を下へ降ろしてくれた。私の両足がしっかりと立つことを確認してから、手を離す。
「――――」
私は半ば無意識に、鹿角に向かって歩き出していた。自分でも高城だったものを目指しているのか、鹿角を目標にしているのか、よくわからなかった。
「――どうして……」
ゆっくりした歩き出しから、徐々に速度が上がっていく。そうすると腹の底から湧き上がってくる激情も圧力を高め、私の胸に火を点けた。
鹿角の間近まで来た時には、もう完全に燃え上がっていた。
「どうして……!」
殴りはしない。そうすべきでないことぐらいちゃんとわかっている。だけど、それでは気持ちが収まらない。私は両の拳を握り締め、顔を歪ませ、歯を食いしばり、全力で鹿角を睨み付けた。
鹿角は無言。視線すら合わせず、あらぬ方に顔を向けたまま。だから、
「――どうしてぇっっ!!」
私は叩き付けるように叫んだ。喉が引き攣れるように痛い。口の中で血の味がした。
俯き、体に力を入れすぎて小刻みに震える私に、少しの間を置いてから鹿角が言った。
「……どうとでも思え。お前にわかってもらう必要はない」
押し殺した声音で紡がれたのは、これ以上なく冷酷なセリフだった。
「――っ……!!」
思わず頭を跳ね上げ、衝動的に怒罵を浴びせかけようとした時。
「二人とも、ちょい待ち。なんか、やべーことになってるぞ?」
いつの間にか私の背後に立っていたロウが、ただごとではない語調で言った。
反射的に振り返ると、ロウはラボの奥の方を指差し、口元を微妙な形に歪めていた。
「あれって……」
太い指が示していたのは、あの馬鹿でかい培養槽だった。激戦の真っ只中にあってなお、奇跡的に破壊を免れていたらしい。あるいは、あの大きさだ、素材からして違うものなのかもしれないが――
「何だ、ロウ。あの中の実験体なら、既に溶解処理が――」
始まっているはずだ、とでも言おうとしたのか。しかし、鹿角が言い切る前に、ピキッ、という甲高い音が響き、彼の舌は停止せざるを得なかった。
ごくり、とロウが生唾を嚥下する。
「いいや……まだ、生きてるぜ」
巨大な培養槽に罅の入る音だった。いかなる理由によってか、あるいは先程の高城の凄まじい咆哮のせいか、これまで壊れなかった培養槽に限界が訪れたらしい。
千丈の堤も蟻の一穴から、という。一度始まった崩壊は止まらず、全体に伝播して連鎖していく。さながら、先程の高城がそうであったように。
培養槽のガラスに入った亀裂は加速度的に、まさしく稲妻のような勢いで範囲を広げ、ついには砕け散った。
盛大な水音とともに奇妙な色をした液体がこぼれだし、床に転がっていた瓦礫を押し流していく。
「――UUUUUUURRRRRR……!」
先程まで透明度の低い液体の向こう、うっすらとした黒い影にしか見えなかった巨大培養槽の実験体。それが奇妙な唸り声を出した。久しぶりの肺呼吸をじっくり味わうような、それでいて私の腹の底を揺るがす重低音で。
「……そうか、こいつだけはスタンドアローンだったということか」
忌々しげに鹿角が舌打ちをした。実験体の自壊コマンドは、この巨大培養槽には届いていなかったのだ。故に、中の実験体には何のダメージもない。
重厚な体重が、尖ったガラスの破片を踏みつけ、それでもなお踏み潰している音がした。
やがてそいつは、天井のライトが照らす場所へと歩み出てきた。
「う、そ……」
嫌な予感ほどよく当たる。そいつは、思った通りの大きさだった。足先から頭まで、四メートル以上はあるだろうか。二足歩行だが、サイズだけで言えば象と同レベル。漆黒の毛皮を持つそいつは、体付きで言えばゴリラに似ている。両腕がやけに長く、だらりと垂らしているだけなのに指先が地面に触れそうだ。
だというのに、頭部の形状は狼のそれ。
先程、高城が〝ルナティック〟を過剰摂取して凄まじい勢いで膨張していたが、もしあれを止めていなければこうなっていたのではないか、という印象だった。
「い、生きてるの……本当に、あれで……?」
私は戦慄に震えながら、そんな馬鹿な質問をした。だって、おかしい。生物学上、こんな化け物が存在し得るなんて、とても思えない。常識的に考えて、あの大きさで二足歩行などできるはずがない。
「WWWWWWWOOOOOOORRRRRRR……!!」
名状しがたい唸り声が怪物――否、〈獣〉の口から漏れ出る。高い位置から落ちた声は、そのまま地面を這って私の足元までをも震わせた。
「まだ頭が動いていないようだな。ならば、完全に目を覚ます前に――!」
〈獣〉の状態を見て取った鹿角が、即断即決で動いた。ブレードベルトを振り回し、鋭く空気を切り裂く。
転瞬、地を蹴って矢のように〈獣〉へと突っ込んで行く。
「――WWWWWWRRRRRRRRRRAAAAAAAAAAA!!!」
直後、とんでもない勢いで〈獣〉が吼えた。さらに、神速の反応を見せる。〈獣〉の両腕が目にも止まらぬ速度で振り上げられ、電光石火の拳撃を放ったのだ。
「――!?」
深緑の光の尾を曳いて襲いかかった鹿角に対し、痛烈なカウンターが入った。真っ正面から巨大な拳の直撃を受けた鹿角はピンボールか何かのように吹っ飛び、とんでもない勢いで瓦礫の山へと叩き付けられた。
「UUUUUUUUUWWWWWWWWWWWWWOOOOOOOOO――!!!」
あっという間に鹿角を返り討ちにした〈獣〉が、両腕を広げ、天井を仰いで雄叫びを上げる。握られていた掌が開かれると、五指の先端から伸びる鋭利な黒い爪が、金属のようにギラリと照明を反射した。
不意に〈獣〉の赤い目――高城や黒服らのように〝SEAL〟で光っているわけではなく、ただ純粋に赤く染まった狼の瞳を持っている――が私を見た。遙かな高みから見下ろされて、私は背筋に悪寒を覚える。
殺される――そう直感した。
「GGGGGGGRRRRRRRRAAAAAAAAAAAAAAAA!!!」
一本一本が私の腕ほどもある牙を生やした顎門が大きく開き、吼えた。音の衝撃が全身をビリビリと震わせ、たったそれだけで私は動きを封じられる。
ドン、という重い音が聞こえた時には、目の前が真っ黒になっていた。
身構える暇すらなかった。視界が漆黒に染まったかと思いきや、顔に生暖かい水が浴びせかけられる。シャワーのように無数の水滴が、顔と言わず全身に降り掛かり、私を濡らした。
「あ……え……?」
訳もわからず、何かに押されるようにして後退る。そうすると、ようやく視界が明るくなった。
私の前に立ちはだかったロウが、〈獣〉の五本爪に刺し貫かれていた。
おそらく私に向かって突き出された〈獣〉の爪を、ロウが間に入って受け止めたのだ。しかし、ロウをして体格差がありすぎた。一つ一つが刀のような長さと鋭さを持つ鉤爪は、容赦なくロウの体を貫き、背中から先端を生やしていたのである。
「そんな……ロウ……!?」
先程の水滴は全て彼の血だったのだ――と愕然とする私の視線の先で、しかしロウは肩越しに振り返り、いつものように笑った。
「大丈夫? 怪我してない?」
ニカッ、と笑みを浮かべる唇の端からは、赤い血が滴っている。当たり前だ、五本もの刃物に胴体を貫かれているのだ。無事であるわけがない。
「な、なんで……」
そこまでして私を庇うのか、という問いに、あは、とロウはまた笑った。
「言っただろ? 君には指一本触れさせない、って」
そんな約束のために。体を張って、命を懸けて。
私なんかのために――
「そ、ん……な……」
息を呑んだ刹那。
「ッ……!?」
突然、目の前で火花が散るような頭痛が私を襲った。
「あっ、ぐっ……!?」
頭蓋骨が割れるような激痛に、堪らず両手で頭を押さえる。
でも――そうだ。こんな光景を目にするのは、今日が初めてではない。かつて私は、一度だけこれと同じものを見たことがある。
深い記憶。遠い彼方にあった情景が、不意打ちで脳裏に浮かび上がる。
「おと――さん……?」
我知らず、唇はその音を紡いでいた。
お父さん――子供の頃の私から見ると、ちょうど今のロウのように大きくて逞しい背中だった。だけど、やっぱり〈獣〉はより大きくて、強くて。父の頼もしい背中からも、今と同じように鋭い爪が何本も生えていて――
『逃げなさい渚っ! 巴を連れて、早くっ!!』
父の鋭い声。母や私を〈獣〉から庇いつつ、浴室側にある裏口から逃げろ――と。命を捨ててでも私達二人を守るために。赤い血が滲んで染みが広がっていく服は、今の私にはとても見覚えのある制服で。
「あ……」
そうだった。私の父は、警察官だったのだ。どうしてこの時の父が、家で制服を着ていたのかはわからない。だけど、父に警察官らしく厳しく躾けられたことだけは覚えている――いや、思い出した。
『巴、こっちよ!』
母が私の手を引き、裏口へと連れて行く。意外にも気丈な声。父の決死の覚悟を受け止めた上で、私を守るために逃走を選択したのだ。私の思う以上に、母は強い人だった。
けれど、そんな母も、裏口に到達する直前で――
「……ぁ……あ……」
忘れたと思っていた。何もかも。事件のショックで、オークウッドから受けた催眠で、私の中の両親は消えたものと。
でも違った。二人はずっと私の中で生きていたのだ。
私が警察官の道を選んだのは、たまさか募集のポスターを見たからだと思っていた。しかし、勘違いだった。何故なら、私の中には父親譲りの正義感があった。少年課の水が合ったのも、きっと母親から受け継いだ慈愛の精神があったからだ。
全て必然だったのだ。
父も母も、ずっと私の中に存在していた。
だから、今の私がある。
あの人達の魂は、今でも私に受け継がれているのだ。
思い出せなかっただけで、私は何も失っていなかった――
『逃げて、巴……!』
家から脱出する直前、〈獣〉に追い付かれた母は、私の背中を押した。父が殺された上は、今度は自分が犠牲になる――と。そうして私は、わけもわからぬまま裏口を飛び出し、必死に走って、走って、走って。
そして。
『「もう大丈夫だ」』
記憶と、現実の声が綺麗に重なった。
†
「下がっててくれ、巴。今すぐ、こいつをぶっ飛ばすから……!」
背中を撓め、〈獣〉の腕を全身で抱き止めているロウが、気張った声を発した。私の意識は急速に現実へと引き戻され、体は反射的に動く。
私が後退して充分な距離が空いたことを確認すると、
「おいテメェ。紛い物のくせに、いつまでもデケぇ面してんじゃねぇぞ……!」
ロウの口調が乱暴に乱れた。声音に凶暴性が混じって、敵意を向けられている当人でもない私ですら、瞬間的に肝が冷える。
「――オォオラッ!」
気合い一閃。ロウの足がその場で足踏み――否、〝踏鳴〟した直後、硬い肉のちぎれる音が幾重にも鳴り響いた。
「GGGGGGGYYYYYYYYAAAAAAAAAAA――!?」
すかさず〈獣〉が悲痛の叫びを上げる。巨大な図体が手を引き、慌てて後退った。だが、ロウの背中から生えた鉤爪はそのままだ。
「へっ、ざまぁみろ。生爪剥いでやったぜ」
ロウは自らの体に突き刺さった爪を支点として体をねじり、〈獣〉の指先から刀みたいな爪を全て剥ぎ取ったのだ。
深手を負いながら威勢よく〈獣〉を馬鹿にしたロウは、しかし胴体に突き刺さった爪など何のそのだった。
激痛が全身を苛んでいるはずだというのに、平然と〈獣〉の爪を一本ずつ抜いていく。後ろから見ていても、私の拳がすっぽり入りそうな穴が空いているのがわかった。
「よくも大事なお姫様に手ぇ出そうとしやがって……! こうなったら遊びは無しだ、ガチの本気でぶっ潰してやるからなぁっ!」
血塗れの、そのまま武器になりそうな〈獣〉の爪を躊躇なく投げ捨ててから、ロウは高らかに宣言した。
次の瞬間、その場の空気が明らかに変質する。
「……!?」
急に気温が下がったような違和感に、私は瞠目した。
何かが変わった。詳しくは判然としないが今、一瞬にして何かが変わったのだ。
次いで、
「……風が……?」
ここは室内だ。それも地下空間だ。だというのに、風が吹き始めた。錯覚ではない。実際に、私の髪が微風になびいている。
風は一つ所に集まっていく。収束していく。その中心地にいるのは――ロウ。
彼は顔にかけていたサングラスを外し、放り捨て、
「ぉおおおおお……!」
低い唸り声を喉から迸らせた。力強い声だ。全身に力を溜めているのがわかる。
やがて、明るい茶の頭髪がザワザワと動き始めた。風になぶられているのではない。毛の一本一本が生きているかのように、逆立ち始めたのだ。
異様な気配が周囲に漂う。風の流れが強まり、ロウのもとへと集まっていく。
「――ぉおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
ロウの雄叫びが時を経るにつれて大きくなり、力強いうねりを帯びていき、最終的には質の異なるものへと変化した。
私は我知らず息を止め、その変貌を見守る。
信じがたいことにロウの体に空いた穴が、見る見るうちに塞がっていった。服に空いた穴はそのままに、赤黒い肉の見えていた部分が肌色に置き換わっていくのだ。
次いで、ただでさえ大きいロウの巨躯がさらに膨れ上がった。多少は余裕のあった漆黒のコートが内側から押し上げられ、生地が張り詰めていく。
明るい色の髪は逆立ったまま伸び上がり、鬣のようになった。頭頂部からは耳が生え、両手の五指からは鋭い爪が顔を出す。
やっぱりだ――と真っ先に思った。鋭い嗅覚といい、なにより先程の〝紛い物〟という発言といい、ずっと予感があったのだ。
ロウの正体は〝狼男〟ではないか――と。
薬を使って『獣化』した高城と同じ、人間と狼の両方の特性を併せ持つ怪物――人狼。
けれども漆黒の毛皮を持ち、赤黒い瞳をしていた高城と比べて、ロウの変身した姿はまるで印象が違う。
高城の姿はただただ恐ろしかった。攻撃性や凶暴性といった、刺々しいものしか感じられなかった。
なのに、ロウは違う。
暖かさ、柔らかさ、優しさ――同時に、頼もしさ、力強さ、安心感。そういったものを感じる。
だから、高城とロウは似て非なるものだ――そう思った。
「WWWWWWOOOOOORRRRRRRRRRR――!!」
しかし似て非なるものといえば、ここにいる〈獣〉とてそうだ。ロウに手痛いしっぺ返しを喰らった〈獣〉は、変身を遂げていくロウに対して怒りを露わにする。威嚇の唸り声を上げながら、爪をまとめて剥ぎ取られた片手を大きく振りかぶる。刹那、馬鹿げた速度でその五指から新しい爪が生えた。
「は……!?」
もうダメだ。あれは私の知っている『生物』のカテゴリーに属するものではない。常識の埒外にいる存在――それこそ、神話か伝説にでも書き残されるべき怪物なのだ。
魔法か魔術か、それに類する力で神速の再生を果たした〈獣〉は、再びその鋭い爪でロウを切り裂こうと
「遅ぇよ」
するよりも早く、ロウが短く告げた。
ふ、とロウの姿が掻き消えた。さっきまでと違い、〝SEAL〟の光の尾も見えなかった。
直後、〈獣〉の頭が不可視のハンマーに殴られたように左へ吹っ飛んだ。
「GGRRAAA――!?」
遅れて響く、稲妻じみた打撃音。今のが超高速で動いたロウが叩き込んだ攻撃であることは、今の私には容易く理解できた。オカルトはともかく、すっかりこの状況に感覚が慣れてしまったのだ。
考えてみれば、ロウは人間の姿のまま『獣化』した高城や黒服らと互角以上に戦っていた。そんな彼が本領を発揮し、人狼と化したのだ。その戦闘力は、もはや予想もつかない。
激闘が始まった。目にも止まらぬ速度で〈獣〉の周囲を飛び回り連続攻撃を加えるロウに、巨大な怪物も負けじと暴れ回る。あちこちから削岩機で岩盤を砕くような音が乱発した。暴風が巻き起こり、かつては培養槽や機械だった破片が宙を飛ぶ。
このまま近くにいては巻き込まれてしまうし、そうなったらロウの足を引っ張りかねない。そう判断した私は戦場から離れようとしたが、
『ォォォォォ……ォォオオオオ……!』
『ゥゥゥゥ、ゥゥゥウウウウゥゥゥゥゥゥ……!』
『ァァァァァ、ァァアアアアア……!』
どこからともなく不気味な呻き声が聞こえてきて、ギクリとする。
思えばこのラボは広大な地下空間である。ロウや鹿角、高城や黒服らとの戦闘において多くの培養槽が破壊されたが、所詮それらも一部でしかない。高城が〝SEAL〟を介して培養槽から解放した実験体が、まだ残っていたのだ。鹿角が培養槽に自壊コマンドを入力したのは、彼らが培養槽から出た後だったのだろう。
理性を持たない実験体は総じて足が遅い。戦場となったここから遠い場所にある培養槽から出てきた実験体が、度重なる騒音を聞きつけてか、ようやっと周回遅れでこの場に到着したのだ。
「今になって……!」
私は歯噛みする。一番の化け物が登場してから敵の増援が現れるなど、最悪の展開だ。
万事休すか――と思った、その時。
遙か遠くにあった瓦礫の山が、唐突に爆発した。




