02
赤黒い光の放射が弱まり、私の視界に、変身した高城の姿が像を結ぶ。
「……高城、警部補……?」
あまりの変わり様に、思わずもう二度と口にすまいと思っていた役職名が唇から出てしまった。
長い、漆黒の毛は金属のような光沢を放ち、軽く逆立っている。もはや元の面影がないほど膨れ上がった肉体は、まさに筋骨隆々。身に纏ったパワードスーツを、これでもかと内側から押し上げている。両手足の先からはナイフのような爪が生え、まったく別物に変化した頭部は――狼のそれ。ゾロリと生え揃った鋭い牙を剥き出しにして、剃刀よろしく尖った双眸からは血のように赤い光が。
「おーおー、前よりでっかくなってんなぁ。っていうかお前、あれから大分打っただろ? 反動もすごかったんじゃないか? よくもまぁ、それで今日まで普通の生活ができてたなぁ。いっそ感心しちゃうよ、お兄さんは」
「グァァルルルルルルルルルルル――!!」
ロウの揶揄に対する答えは、獰猛な唸り声だった。敵意や殺意、憎悪がない交ぜになった激情が、手で触れられそうなほどの濃密さでもって放たれる。変身した高城から迸る重圧が、物理的な波動となって私の全身をビリビリと震わせた。
「でも、正直に言っていいんだぜ? 本当はこれっぽっちも余裕がないんだろ? わかってるって。俺達がここに入ってから、ろくな出迎えもなかったもんな。ここにいるお仲間が全部で、もう増援はないんだろ? 残念だなぁ。薬の打ち過ぎで頭も回らなくなってるみたいだし、感情の箍も外れかかってるんだもんな。そりゃシンデレラに振られちまうわけだぜ、王子様よ。いや、この場合は赤ずきんの狼かな?」
「ガァアアァアアアアアアアアアアアアアアアアアっっっ!!!」
唸り声による恫喝すら歯牙にもかけず、なおも嘲り続けたロウに対して、ついに高城の怒りが爆発した。凶悪な狼の顔が口を大きく開き、夥しい咆哮を轟かせる。あまりの大音量に、咄嗟に両手で耳を塞いだほどだった。
「いいね、盛り上がってきたぁ!」
対抗するようにテンションを上げてロウが叫ぶ。まるでテーマパークを前にした子供のようだ。サングラスの下の瞳を、きっとキラキラと輝かせているに違いない。
「さぁ――ショウタイムだ!」
ロウが前へ一歩踏み出し、爆音を鳴らして加速する。応じて、高城もグッと身を撓め――疾風迅雷の勢いで飛び出した。
「ゴァアァアアアアアアアアアアアアア――――――――ッッッ!!!」
先程の高城の雄叫びは一種の合図を意味していたのか。次の瞬間、申し合わせたように四方八方から赤黒い光が殺到した。先程からも戦っているドーベルマンやヒグマ、虎などに加え、さらには馬の獣人と思しき半人半馬のような怪物、猪の頭を持つ力士のような体型の大男、牛の頭をした所謂『ミノタウロス』然とした銀の斧を持つ者までが現れたのだ。否、おそらく先程からロウと交戦していたのだろうが、この瞬間まで私の視界に収まっていなかったのである。
総攻撃――そうとしか言いようのない大攻勢が始まった。彼らの戦いは再び、視認するのが困難なほどの超スピードの世界へと移り変わっていく。
もうメチャクチャだった。私は完全に置いてけぼりを喰らい、目の前、いや、周囲に猛烈な勢いで破壊が広がっていくのを、ただ黙って眺めているしかなかった。
一条の深緑の雷光と、赤黒い幾本もの稲光が三次元的に宙を舞って激突を繰り返す。中でも一際輝きの強い、あの赤黒の閃光が高城だろうか。
変わり果てた彼の姿が今も眼に焼き付いている。まるで面影がなかった。黒服達はまだ人間であった頃の雰囲気を多少残しているというのに、高城はまったくの別物で――むしろ、培養槽に入っている実験体に近い印象すら受けた。
そういえばロウも言っていた。薬の打ち過ぎではないのか――と。そう思って省みれば、確かに違和感がある。先程の高城の言動は、これまで冷徹に自らの正体を隠して行動してきた連続殺人犯としては、明らかに矛盾している。
薬の打ち過ぎで獣人への変貌率が高まっている。そして、感情の抑制ができなくなりつつある――ということは、まさか……
悪寒が背筋を走り抜けた、その時だ。
私のすぐ近くの瓦礫に、深緑の彗星が墜落した。
「――っ……!?」
軽い爆発。撒き散らされた破片が、私のいる所まで届く。私は咄嗟に両腕を上げ、防御姿勢を取った。
遅れて戦く。これまで、戦いの余波が私に届くことなど一切なかったのに。つまり、今のはロウとしても予期せぬ結果だったわけで――
「あいたたたた……! あーだめだ、こりゃ予想以上だったわ」
瓦礫の山の中からロウが立ち上がり、ガラガラと培養槽の破片を飛び散らす。
「ガァァルゥルルルルル――!!」
そんなロウの間近に一際強い赤黒の光が着地した。肩を怒らせ、四つん這いになって身構える姿は、もはや獣そのものである。巨大な狼になってしまった高城は、双眸や全身に走る幾何学模様から爛々とした不吉な赤黒い輝きを放ち、どうだ見たか、とロウに告げているかのようだった。
「おっと、悪い悪い。まだ遊んでる途中だったよな。安心しろ、お兄さんはそう簡単には壊れないから」
威嚇する漆黒の狼に対し、なおもロウは飄々とした態度を崩さす、再びファイティングポーズを取った。彼はおくびにも出さないが、相応のダメージが蓄積しているはずだ。気付けば体のあちこちに赤い血が滲んでいる。
「しっかし、確かにこれは〝多勢に無勢〟ってやつだよな。正直、そろそろキツイわ」
なははは、と暢気に笑うロウ。これに対し、
「――ォォオオオオオオオオオオオオオっっ!!」
馬鹿にしているのか、と言わんばかりに高城が吼えた。音の爆発で豪風が生まれ、ロウの前髪が大きく揺れる。
それでもロウは笑みを崩さず、ここにいないはずの人物に大きな声で呼び掛けた。
「ってなわけで、そろそろ来てくれてもいいんだぜ! 鹿角!」
え? どうしてここで鹿角の名が? と私が訝しんだ刹那。
「まったく、お前という奴は」
本当にどこからともなく、鹿角の声が聞こえてきた。
直後、深緑の流星が私達の頭上を切り裂く。
「え……!?」
突然のことに、私は弾かれたように面を上げた。天井スレスレの空間を通り抜けた深緑の輝きは、それこそ流れ星のような軌道を描――くかと思いきや、突如として稲妻のごときジグザグな軌跡を宙に刻んだ。それも、跳弾のように超高速で。
その空中機動にはもちろん理由があり、落雷じみた軌跡を描いたのは全て、頭上からロウに躍りかかろうとしていた獣人らを叩き落とすためだった。
ドーベルマン、虎、ライオン、ケンタウロスの獣人が連続して地面に叩き付けられる。無論、ラボ内の培養槽はこれでもかと破壊され尽くされ、床のほとんどが瓦礫に覆われている。先程のロウと同じく、彼らはそれぞれ瓦礫の山へと落下して派手な破片の飛沫を上げた。
しかし、あの黒服らには信じられないほどの再生回復能力がある。さっきのロウがそうだったように、どうせすぐ瓦礫を押しのけて立ち上がる――
「何を手間取っている、ロウ? 普段から加減しろとは言っているが、時間をかけ過ぎだぞ」
音もなく深緑の流星がロウのすぐ隣に降り立ち、鹿角の声を放った。一拍置いて深緑の光がやや収まると、白皙の肌に〝SEAL〟の幾何学模様を浮かべた美丈夫の姿が見て取れる。その手には既にブレードベルトが握られており、刃の部分が鮮血に濡れていた。ヒュッ、と柔らかく長い刃を振って、鹿角は血振りする。
ぞっ、と背筋に怖気が走った。
「まぁまぁ、そう苛立ちなさんな。鹿角が来てくれるのを待ってたんだって。ほら、最高の見せ場だったろ、今の?」
「抜かせ。お前達の動向は〝SEAL〟を介して常にモニタしていた。無駄に遊んで手こずっているのは筒抜けだったぞ」
「ありゃ、なんだよ黙って盗み聞きしてたのかよー、趣味が悪いぞっ、鹿角きゅんっ!」
「そのふざけた呼び方は二度とするな。次は警告なしで叩っ斬る」
「おーおー、おっかないねぇ。でも、おかげで助かったぜ」
敵前だというのに、アルテミス製薬への道すがらと同じテンションで会話を交わす二人。ロウが見るのは、空中から叩き落とされた黒服らが埋まっている瓦礫だ。
大量の埃を舞い散らせているその瓦礫の山が、動いた。
ゆっくりだが、立ち上がろうと足掻いているのだ。
死んでいない――そのことに内心、ほっと胸を撫で下ろす。無論、敵が動けるということは、まだ脅威となる可能性が残っており、安心する理由など全くないのだが。
しかしながら、今の私は不思議なほど心が落ち着いている。つい先刻まで、多勢に無勢なロウを心配する気持ちが確かにあったのだが、それは鹿角の合流によって綺麗さっぱり消えてしまったのだ。
「なんせあいつら、いくら殴っても起き上がってくるもんだからさ、まいっちゃってなぁ」
「把握している。データにあった最新バージョンの〝ルナティック〟だな。諸々のパラメーター上昇に加え、再生回復能力がでたらめに高いのが特徴だ」
ロウの愚痴に、鹿角が冷静に答えた。マシンルームから機密データを抜き出してきた彼なら、獣人らのスペックを把握していてもおかしくはない。
「だが、大したことはない」
信じがたいことに、鹿角は鼻で笑った。
「いくら再生回復能力が高いと言っても、手足を切り落とせばそれだけで動けなくなる。もしくは深手を負わせれば、傷の修復に時間と力を割かざるを得ない。それでも動くようなら、電撃で気絶させればいい」
慈悲も容赦もないとはこのことだった。あのサングラスの下ではどんな目付きをしているのか。少なくとも口振りだけで言えば、料理のレシピを説明しているかのような軽い調子であった。
「電撃って言ってもなぁ、俺はあんまり武器は好かないんだよなぁ」
「何を言っている、これは〝SEAL〟の機能だ。お前にも使えるはずだぞ」
「えっ――マジで? ほんとに?」
「俺が嘘をついてどうする」
「えー? でもー、やり方わかんないしー?」
「お前……だから事前にマニュアルを読み込んでおけと、あれほど……!!」
「あっはっはっはっ! 怒るな、怒るなって。今はそんな場合じゃないだろ? な?」
語調に怒気を滲ませた鹿角をなだめるロウだったが、それを言うなら暢気に歓談している場合でもない。今だって四つん這いになった高城が、顎が床に着きそうなほど身を低くして、グルグルと唸り声を上げているのだ。戦意は充分だが、二人になったロウと鹿角には隙がないらしく、襲いかかりたいのを我慢して様子を窺っている――という感じか。
だが、もうすぐ動く。それが何となくわかる。辺りに充満する〝ルナティック〟特有の匂い――甘ったるい、熟しすぎた桃のような香りが徐々に強まっていくのだ。それが不思議と、高城の殺意に比例して濃くなっていくのが理解できた。
はぁ、と鹿角が吐息を一つ。
「もういい、俺の方からお前の〝SEAL〟にアクセスして電撃をオンにするから、そいつで殴れ。ついでに支援魔術も付与してやる。もし上手く扱えないようなら――」
「オーキードーキー! そん時は鹿角に倣って奴らの手足を折って、心も一緒に折ってやるさ。ぃよっし! これだ!!」
ロウが両の拳を勢いよく打ち合わせた。ガギィン! と指ぬきグローブの甲についた金属板が鋭い音を鳴らす。野蛮人そのものな言動も相まって、妙な勢いの良さがあった。
「まったく……貸し一つだぞ」
呆れ気味に呟いた直後、鹿角の唇から異音が生じる。
「――――――――」
聞き取れない。頭が痛くなるほどの甲高い音が鳴っている。だがわかる。それは言語だ。何かしらの言葉だ。しかし鹿角が何かを言っているのかまではわからない。どれも意味のある言葉として耳に入らないのだ。
だが――不思議なことに、音に何かしらの意味が付与されていることだけはわかった。そういう魔術なのか、あるいは私の耳が特別なのか。
ともあれ、大して長くもない音が止む頃には、ロウの両手の甲あたりに深緑に輝く不可思議な文様が浮かび上がった。
携帯端末でよく見かけるアイコン――否、違う。
あれは所謂『魔方陣』というやつだ。アイコンはアイコンでも、魔術のアイコンである。
次いで、ロウの両拳から勢いよく紫電が迸った。先程の言葉通り、鹿角がロウの〝SEAL〟の電撃機能をオンにしたのだろう。
「よっしゃあっ! こっちは相棒が来て百人力だ! お前らの戦力が倍になっても余裕だぜ!」
つい先程『あーだめだ』などと言っていた口が、大仰に嘯く。とはいえ、味方としては頼もしい限りなので敢えて無粋な突っ込みはすまい。
「グァァルルルルルルルルルルル――ゴァアァアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
高城が吼えた。自身や他の黒服らを鼓舞するように。
途端、いくつもの瓦礫の山が一斉に爆発した。回復を終えた獣人達が立ち上がり、高城の戦意が伝播したかのごとく声を重ねて咆哮を上げる。
『■■■■■■■■■■■■――――――――!!!!!』
一部の者は鹿角の言葉通り、手足の一部が切断されていた。が、喪失した箇所など意にも介さず、起き上がって戦う意志を露わにする。一体何が彼らをそうさせるのか。高城に対する忠誠心――というわけではないだろう。あれは、そう、どちらかと言えば、高城よりもさらに大きなものに対する畏敬――組織か、あるいは高城が言っていた『夜の女王』ないし『白銀の騎士』か。その為に殉じようという意志すら感じる。
「行くぜ、鹿角」
「抜かるなよ、ロウ」
荒ぶる敵と比べて、いっそ静かすぎるほど、二人の男は言葉を交わした。そこにはわずかばかりの気負いもなく、ただ目の前にある仕事を片付ける事務係のような雰囲気すら漂っていた。
おそらく、そこが勝敗の分かれ目であったろう。
何故なら。
自らの勝利を確信している者は、決して焦ったり、昂ぶったりなどしないのだから。
†
ロウ一人でほぼ互角だった状況は、鹿角が増援に来たことで簡単にひっくり返った。
高城は「もう一人がここに駆けつけたところで『焼け石に水』というものですよ。一人が二人になったところで、大勢は変わりません」などと言っていたが、そんなことはなかった。
圧倒的優勢。
というよりも、ロウと鹿角のタッグが強すぎたのだ。
鹿角の支援魔術によってか、ロウのスピードやパワーがさらに上昇し、ヒグマの獣人すら赤子の手をひねるようにあしらわれる始末。馬の四本足を持つケンタウロスですらスピードで及ばず、間合いを開こうとした瞬間に懐へ潜り込まれ、致命打を叩き込まれる。
鹿角は鹿角で得物のブレードベルトを変幻自在に操り、獣人らの手足を切断して動きを封じた後、廃工場でクマモドキにそうしたように、長く柔らかい刃を体に巻き付けて電撃を流す。その姿はさながら解体業者か何かのようで、実に情け容赦がない。
今更のように得心する。この製造工場に潜入する前、戦力がたった二人で大丈夫なのかと心配する私に、鹿角はこう言った。
『俺達二人で充分だ。何も問題はない』
本当だったのだ。
嘘でも誇張でもなく、ただの事実だったのだ。だからあんなに淡々としていたのだ。
二人は当たり前のことを、当たり前のように言っていただけだった。
私の立ち位置からは、彼らの戦う全体像がよく見えた。爆発的な打撃音が幾度も響き、紫電が何度も迸っては星屑めいた煌めきを宙に瞬かせる。
その最中、一番手強いのは意外なことに――あるいは、真っ当な結果として――高城だった。彼は鹿角に手足を切り落とされるような愚を犯さず、しかし支援魔術の恩恵に与るロウとも互角に打ち合い、最後まで奮戦していた。
そう、最後の一人になるまで。
異変が起こったのは、黒服らのほとんどが再起不能な状態に叩きのめされた頃だった。
激戦にあってもなお阿修羅のごとく不撓不屈の精神で戦っていた高城が、不意に動きを止めたのだ。
「――グ……ガ、ア……!?」
四つん這いになって硬直した漆黒の獣が、不穏な痙攣を始めた。体の中で何かが暴れ回っているかのように、手足をガクガクと震わせ、姿勢を崩す。
「ゲ、ゲェェェ……!」
やがて、鋭い牙の生えた口から血を吐き始めた。喉の奥から湧き出てくる赤黒い血が、床に落ちてビチャビチャと水音を立てる。
「ゲェ……ゲアァアァ……あがっ……!?」
それは不思議な光景だった。巨漢の狼男だった高城の姿が、緩やかに人のそれへと戻っていく。長く黒い体毛は抜け落ち、隆々と盛り上がっていた筋肉もしぼみ、風船から空気が抜けるように全身が小さくなっていく。
「がはっ、げほっ、えほっ、げぇっ……!」
声帯も人間の形状に戻ったのか、元の高城の声で咳き込み、嘔吐く。さらに少量の血が彼の喉から吐き出された。
ややあって、高城の姿がすっかり元に戻ると、
「限界が来たらしいな。拒絶反応だ。もうお前の体は〝ルナティック〟を受け付けなくなった」
近くで足を止めた鹿角が、蹲る高城を見下ろしながら告げた。
「なかなか楽しかったぜ。お前さんは強かった」
同じく、宣言通り拳で黒服らの手足をへし折って動けなくし、さらには電撃で気絶させたロウが笑う。
「ぐっ、ぐぅぅぅ……!」
吐血の衝動がいったん収まった高城は、それでも小刻みに身を震わせながら、床に着いた両手を握り込む。体の震えは痛みのためか、それとも薬の副作用によるものか、あるいはその両方か。
私の目から見ても、もはや高城は〝死に体〟だった。
「諦めろ、遊びの時間は終わりだ」
「っ、誰が……誰が、諦める、など……!」
冷淡に降伏を勧める鹿角に、一体どこから出しているのか、高城は怨嗟に塗れた声を紡ぎ出す。
床に手と膝をついたまま、しかし未だ炯々と赤黒く輝く瞳でロウと鹿角を見上げ、顔を苦渋に歪ませる高城。体力を消耗しすぎたのだろう、息が荒い。強くなりすぎた鼓動の影響か、心臓が脈打つ度に顔のあちこちが痙攣している。こめかみや眉間、唇の端や首筋が、そこそのものが心臓になったかのように拍動していた。
「そこを、どけ……! 僕の、天使から、離れろ……!」
鼻の穴から、つう、と血が流れ出てきた。明らかに正気を失っている表情で、状況も弁えず高城は二人に命令する。
「天使?」
高城の口から出てきた妙な名称に、鹿角が首を傾げた。私も同じ気持ちで、頭を捻る。何か幻覚でも見えているのだろうか、とも思ったが――
「ああ、もしかして巴のことかな?」
ロウだけが高城の意図を汲めたらしく、肩越しに振り返って私に視線を送った。口元に意味深な笑みを浮かべて。
「え……?」
意味がわからなかった。天使? 私が? 何の話だ? と唖然としてしまう。
「渡さない、渡さないぞ……! 僕の天使……いいや、西尾さんは女神なんだ……僕の、僕だけの、女神なんだ……! げふっ、がっ……ぁ……っ!」
再び吐血しながら、なおも高城は恨みがましげに世迷い言を宣う。ついには目尻からも血が流れだし、高城の頬を涙のごとく伝い落ちていく。
「はぁ……はぁっ……か、返せ……返せ……っ! うげっ……ぇぇぇぇ……!」
呼吸を荒らげながら気炎を吐く高城は、しかしすぐに血や胃の内容物を嘔吐する。その姿にどこか見覚えがあると思ったら――そうだ、彼はよく現場で、遺体を見る度に吐瀉していたではないか。
あの頃から既に兆候があったのだろう。あれは死体を見て気分が悪くなっていたのではなく、〝ルナティック〟の過剰摂取による拒絶反応だったのだ。今になって思い返すと、あの時の高城からは甘ったるい桃の匂いが、いつもより強く匂っていた気もする。
「それは、僕の女神、なんだ……! その人は、僕の大切な……!」
驚くべきことに、高城は立ち上がろうとしていた。変身が解けたということは、おそらくだが体力が底をついているはず。しかも、仲間の黒服らは全て沈黙し、全滅状態。決着はついているというのに、もはやそんなことすら理解できないのか、なおも戦おうとしているのだ。
鹿角がゆっくりと首を振り、
「ロウ、こいつはもうダメだ。〝ルナティック〟を摂取しすぎている。間を置かず崩壊するぞ。まだ人間でいる内に終わらせてやった方がいい」
「んー……是非もなし、か」
ロウと鹿角の会話に、私は瞠目する。
「な……!?」
殺すつもりだ、とわかった。言葉だけでなく、鹿角の肩や手の動き、重心の移動、それら全てが、高城の首を落とす行動に繋がるのが見て取れた。
だから。
「――待って!!」
私は衝動的に叫び、駆け出していた。ロウと鹿角の間を抜け、振り返り、両手を広げて二人の前に立ちはだかる。つまり、高城を背中で庇う形だ。
「……何のつもりだ?」
当然のことながら、鹿角がそう尋ねてきた。その声には悪意や苛立ちなどは含まれておらず、むしろ私の頭を心配するような響きすらあった。
「あー……」
ロウはロウで、何とも言えない感じの声を出し、所在なさげに片手で頭を掻く。多分、彼なら私の意図を過たず理解してくれているはずだ。だからこその、この微妙な反応なのだろう。
私は一瞬、頭の中が真っ白になった。自分でも何をしているのかわからない。でも、こうしなければいけないと思ったから、こうしたのだ。
だから一度、大きく深呼吸をしてから、
「ま……待って? こ、殺さなくても、いいでしょ……?」
「何を言っている」
間髪入れず鹿角に言い返された。わかってる。自分でも何を言っているのか。それが場にそぐわない、おかしなことであることも。
「話を聞いていたのか。その男は既に末期だ。残念だが、死まで秒読みの段階に入っている。こうなっては苦しむ前に片をつけてやるのが、せめてもの情けというやつだろう」
語気を荒らげることなく、鹿角は淡々と言う。まるで駄々をこねる子供を諭すかのように。あるいはその鹿角の優しさが、私をより一層追い詰める。いっそ激情に駆られて怒鳴ってくれた方がよほどマシだった。冷静に説得される方が、どうしようもない現実を認識させられて、余計に辛い。
「で、でも……っ!」
否定の言葉を使いつつも、いくつもの記憶が私の中を巡る。
ロウから聞いた話。薬の打ち過ぎによる拒絶反応。培養槽が壊れ、そこらに転がっている実験体の姿が、今の高城と被る。限度を超えるともう助からない。助けられない。だからこそ、あのロウだって容赦なく実験体の命を奪っていた。もうどうしようもないのだ。だから殺してやるのが情けなのだ。鹿角の言葉が本当なら、もうすぐ高城は理性を失い、他の実験体と同じ状態になる。理性を失った本物の怪物になる。なら、その前に殺してあげた方がまだしも。人間としての尊厳を残したまま。せめて苦しむことなく。人間らしく。高城らしく。最期を。
「ほ……本当に、ダメなの? それしか方法がないの? 何か……何かあるんじゃないの? 何か、別の方法が……!」
頭ではわかっていた。だけど、心が追い付かなかった。だから私は、なおも言い募った。その『何か』がまったく見えてこないというのに。
ロウは答えてくれなかった。サングラスの下で、おそらく視線をどこかに逸らしていた。それが彼なりの優しさだとわかっていたが、同時に冷たいとも思った。
「ない。あれば実行している」
冷気の塊を、鹿角は口から出した。それは残酷だけど、誠実な優しさであったとも思う。
「で、でも……そ、そうよ、私の遺伝子! 私の遺伝子情報があれば、拒絶反応を抑えることが……!」
脳裏に閃いた可能性に、私は声を高めた。そうだ、ここに抑制剤の材料となる人間がいる。私の血を使えば、もしかして何とかなるのではないか。
これに対し、とうとうロウが首を横に振った。
「残念だけど、巴……一度でも拒絶反応が出たら、もう抑制剤は効かないんだ。いや、効くどころか逆効果になる。君の〝無変異種〟の因子は〝ルナ〟で変貌した細胞にとっては毒なんだ。今の彼にそんなことをすれば、逆に崩壊が早まるだけになる」
「そんな……」
こうして人間の姿に戻っているのに。まだ人の姿でいるのに、手遅れだというのか。私は肩越しに高城を振り返り、信じがたい思いで蹲っている彼を見つめる。
「勘違いしているようだが、そいつは拒絶反応が原因で元の姿に戻ったわけではない。体の異常を察知して、自ら『獣化』を解除したんだ。どのみち、峠を越えてしまってからでは無意味な行為に過ぎないがな。既に体内では相当、崩壊が進んでいる。見た目から想像する以上に、そいつは終わっているぞ」
鹿角が冷徹な口調を崩さないまま告げる。
「巴、優しさと甘さは違う。今のお前の行動は、どっちだ?」
濃いめのサングラスを透過して、鹿角の鋭い視線が私に突き刺さる。助けられる者を助けるのは優しさかもしれない。だが、助けられない者をそれでも助けようとするのは、ただの悪あがきに過ぎない、と。
「どいて……ください……西尾、さん……僕は、まだ……負けて、ない……げ……うぇ……ぇぇぇぇ……!」
ガクガクと全身を震わせながら立ち上がろうとする高城は、なおも『まだ決着はついていない』と意地を張る。血反吐を吐くその姿に、説得力など微塵もなかった。
「言っただろう、終わりだと。培養槽には、俺がマシンルームから自壊コマンドを入力した。残る全ての実験体はじきに溶解処分される。お前の負けだ、タカギ」
鹿角が刀身に纏わり付いた鮮血を振り払い、輝きを取り戻した刃を高城に向ける。
「だめ……まって……おねがい……」
歩を進める鹿角に、私は力なく首を横に振った。もはや自分でもわかっている。無駄な抵抗だと。高城はもう助からない。だから、こうして庇ったところで意味などない。私は、ただ私の都合で高城の苦痛を引き延ばしているだけだ――と。
けれども、頭で理解できていても体がそのように動かない。どうしても、両腕を広げて彼を守ろうとしてしまう。
わかってはいるのだ。今日まで高城が殺した人間の数は計り知れない。私だって、目の前で晃が殺される場面を見た。だから高城は紛うことなく悪人であり、客観的に見れば、ここで死ぬのは当然の末路である。相応しい、とすら言っても過言ではない。
だけど。
「――人の姿に、戻ってるのよ……? 僅かでも可能性があるなら、そこに賭けても……!」
なおも私が言い募ろうとした、その時。
「! ダメだ離れろ巴っ!」
ロウが弾かれたように反応した。私に向かって手を伸ばす。
しかし。
「本当に優しい人ですね、西尾さんは……」
ふと背後で空気が動くのを感じた。次の瞬間、高城の腕が私の首に回され、気付いた時には後ろから抱きしめられていた。
「チッ――」
鹿角が舌打ちをしてブレードベルトを本格的に構える。ロウも戦闘態勢を取り、彼らの〝SEAL〟が励起して強い深緑の輝きを放った。
「高城、さん……!?」
すぐ耳元で聞こえる荒い息遣い。死力を振り絞って立ち上がり、私に抱きついてきたのだろう。首回りに回された腕が両肩にもたれかかってきて、高城の体重がこちらに預けられる。
「ああ……やっと……やっと、触れられた……いい、匂いですね……」
私より身長のある高城は、私の後頭部に顔を寄せ、毛髪に口元や鼻を埋めているようだった。今にも息絶えそうな息遣いだが、それでも私の髪の香りを嗅いでいるのがわかる。
「西尾、さん……西尾、ともえ、さん……僕の、めがみ……あいする、てんし……」
ただでさえ夢見るようだった囁き声が、さらに正体をなくしていく。意味不明なうわごとを呟きながら、息も絶え絶えに体を震わせる。
「こんな、ぼくを……まもって、くれる、なんて……ああ……やさしい……あたたかい……」
遺言だ――と理由もなく直感した。これは高城が残す最期の言葉なのだと。何故かはわからないが、そう確信した。
「ありがとうございます。僕は、ずっとあなたをお慕いしておりました。本当に、大好きだったんです」
そうと気付いた瞬間、突如として高城の口調が明瞭になる。
そして、彼が優しく笑ったような、そんな気がした。
「――さようなら」
待って、と言いかけた私の肩を、高城が強く掴んだ。そのまま私の体を引き剥がすように左へ振る。思いがけず強い腕力に、抗うことはできなかった。重心を振り回され、私は突き飛ばされたように体勢を崩す。
私の体を押しのけるようにして前へ出た高城は、右手の指の間に四本ものジェット・インジェクターを挟み持っていた。
背中から床へ倒れ込みながら、高城の姿を収めている私の視界――彼はもはや目と口だけでなく、耳の穴からも出血していた。チョロチョロと細い滝が耳たぶを伝って流れ落ちているのが見えてしまった。
ロウや鹿角が私の名前を呼んでいる。叫んでいる。その最中、高城が四本のジェット・インジェクターを一気に首筋に突き立てる瞬間が、まるでスローモーションのように見えた。




