07
「実験体が……原料?」
矛盾した説明に私は小首を傾げる。
「〝ルナ〟が使用者の肉体を劇的に変化させるのは、さっき目にしただろう? あれ、どういう原理だと思う?」
「どういう原理って……薬の効果が遺伝子レベルにまで浸透して、肉体が変化するんでしょ? 先祖返りみたいに」
確か、高城の説明ではそのような話だったはずだ。
「そう。でも、いくら何でも科学の力だけじゃそんな性急な変化は不可能だ」
「だから、そのために魔術を掛け合わせているって聞いたけど……?」
「いや、魔術って呼べるほど高等なものじゃないね。〝ルナ〟に使われている原理は、もっと古くて単純なものさ」
そう言ってロウは、片手の人差し指と中指を揃えて、自分の首筋をトントンと軽く叩いた。
「吸血鬼や狼男に噛まれると、噛まれた人間も同じ種族に変身しちゃう――なんて話があるだろう? あれと同じさ。対象の体に牙を埋めて、そこから体液や細胞を注入して感染させる。すると、体内に侵入した〝異物〟が血液を通して体の隅々まで広がり、やがては遺伝子をも書き換える……これが吸血鬼や狼男の変貌プロセス。これがまたびっくりするほど速いやつでね、〝ルナ〟はその特性を利用してるんだ」
そう言われて、初めて気付いた。吸血鬼に、狼男。噛まれた人間は同じ怪物になるという逸話は何度も耳にしたことがあったが、その理由や原理などに心を向けたことなど一度もなかった。
「だからこうして、実験体にいくつもの試薬を投入して、体内でブレンドさせる。それで、いい感じに変貌した細胞を採取して加工すれば、はい薬の出来上がりー、ってね」
はっ、と小馬鹿にするようにロウは笑った。
「何のこたぁない、畜産農業とかでよくある遺伝子改良とかと大差ないってわけさ。それと、レトロウィルスって聞いたことある? 遺伝子に食い込ませて増殖させるっていう……ま、そういう、がん治療とかの応用なんだけど。とにかく、そーゆー技術や魔術とかをミックスさせてるんだ。細かいことは俺もわかんないんだけどね。詳しいことは鹿角に聞いた方が早いかも」
いや、それはおそらく早くはない。多分に面倒が多くあるように思えてならない、私としては。
「ともかく、何度も繰り返し繰り返しブレンドすれば、いつかはお目当ての完成品が出来上がる――って話だったと思う……確か」
途方もない話だ。それが本当なら、ほぼ行き当たりばったりだとしか思えない。もしかすると研究する側には、それなりの理論があるのかもしれないが。
「いま巷で出回っている〝ルナ〟は、ここで使われている試薬に特殊な加工をして、効果を弱くしたものをベースに精製されてる。だから一発や二発ぐらいじゃここまでひどい変化は起きない。だけど――」
「数撃ちゃなんとやら、というわけね?」
「ご明察。塵も積もればなんとやら、とも言えるね。多用したり、摂取量を誤ると拒絶反応が出る。そうなるともう駄目だ。『獣化』の変異が限界を超えて、肉体を破壊する方に舵を切るようになる。当然、行き着く先は崩壊だ。ここにいる実験体はそこまで行かないよう、微妙に調整されてるみたいだけど。ま、それだけに酷だよなぁ……」
はーやれやれ、と言わんばかりに肩をすくめて、ロウは息を吐く。
しかし、この時の私にはもう、実験体への同情よりも気になることがあった。
「……まさかとは思うけど」
「ん?」
「あっちが私の遺伝子情報を欲しているのって、弱点を克服するためだけじゃなくて――」
「そ。薬の改良にも使えるから、だね」
「じゃあ、つまり……」
「ああ――多分、想像している通りだよ。君に試薬をありったけぶち込んで、その後に君の細胞を採取する。それを〝ルナ〟に加工すれば見事、拒絶反応の出ない最強の薬の出来上がりだ」
「――~ッ……!」
当たって欲しくない予想がピタリと的中してしまった。
つまり、高城は私の肉体をここにある実験体と同じように扱って、薬の完成を目指すつもりだったのだ。
なんと恐ろしいことを考えるのか。
「もう聞いてるみたいだけど、君の血筋は〝無変異種〟と呼ばれる特殊な因子を持っている。ここで〝ルナ〟を精製する際に使われている加工には、君のお母さんの遺伝子情報が活用されている。つまり、既に効果は実証済みなんだよ」
淡々と、しかし聞き捨てならない言葉を耳にして、私は思わず手を上げてロウを制止してしまう。
「え……? ま、待って? 私の、その……母親の遺伝情報って……!?」
高城の話によると、遺体の回収は失敗したはずだ。おそらくは当時のオークウッド財団――今のロウのような立場にあった人々のおかげで。
咎めるような私の声に、ロウはゆっくりと首を横に振った。
「遺体は奪わせなかった。だけど、血だけはどうしようもなかった。それに、もしかしなくとも、細胞片もあったかもしれない。少量でも情報はたっぷり詰まっているからね。こいつらはそれを元に、ずっと研究を続けてるんだ」
ロウは周囲を見回し、サングラスの表面に照明の光を反射させた。私もそれに倣って、木造のラボ内を改めて見渡す。
ここにいる実験体の全てに、私の母親の遺伝子情報が注入されている――それは、実にぞっとしない話だった。
いや、それどころではない。母の遺伝子情報は巷に出回っている〝ルナティック〟にも活用されている。私の母親の欠片が、今もどこかで売り捌かれているのだ。
刹那、頭の奥で火花が散った。同時に、体の奥底からマグマのような感情が湧き上がってきた。これは、怒りなどという生易しいものではなかった。
憎悪だ。
はっきりとわかる。私はここにある全てが憎く思え、嫌悪を覚えていた。
今すぐ、全部を破壊して回りたいほどに。
「オーケー、巴。わかってるって。でも落ち着いてくれ。カーム・ダウンだ。最終的にここは絶対にぶっ壊す。絶対にだ。これは決定事項。だけど物事には順序ってもんがある。君ならわかるだろう?」
懐に拳銃があれば取り出して乱射していたかもしれない私を、ロウが両手を上げて、どうどう、となだめた。自覚はなかったが、どうやら余程の表情を浮かべていたらしい。
「血を盗まれたとはいえ、勿論それだけじゃ不十分だ。だから、今でも君を付け狙っている。わかるかい? いま一番危険なのは君なんだ。それだけはわかって欲しい。だから怒りに身を任せるのだけはやめて欲しいな、お兄さんとしては」
まるで小さな子供をあやすような言い方をするので、むしろ私の頭はオーバーヒートしかけたが、よく考えればそうさせているのは自分自身だ、と気付いた。
両手を胸に当て、大きく深呼吸する。ロウの言うとおり、ここは熱くなる場面ではない。落ち着いて、冷静沈着に。こういう時は榊の教えを思い出そう。
『西尾、個人として事件に向き合うな。俺達は〝警察〟だ。〝法の番人〟だ。個人的な感情を捜査に持ち込むのは御法度だ。よく覚えておけ』
犯罪者に同情したり、あるいは憎悪を燃やしてしまったり。それらはただの私情であり、そのままに行動してしまっては職権乱用となる。
組織の一員たれ。法を守る機構の一端たれ。
刑事になりたての頃、榊は耳にたこができるほど私にそう繰り返した。
自身の責務を勘違いした警察官ほど迷惑なものもなければ、これほど悲しく虚しい生き方もない。
警察という組織も、法というルールも、人間の一時の感情に左右されてはならないものだ。故に、その一員である警察官には公平さこそが求められる。私情で動くなど以ての外なのだ。
「――わかってる。あたしは警察官よ。やけっぱちになんてならないわ。全員ひっ捕まえて、留置所にぶち込んでやるわよ」
笑顔で言えたと思う。その証拠に、ロウも口元をにんまりさせて頷いた。
「ようし、じゃあ先に進もうか。多分、目当ての奴はこの奥にいるはずだ」
歩みを再開して、ロウは勝手知ったる風にラボの中を進んでいく。時折立ち止まっては鼻を鳴らし、また歩みを再開する。どうも匂いで気配を探っているらしい。鼻が利く、ということは犬系の人外――狼男かあるいは、それに近いものだろうか。
「ねぇ、あなたってもしかして――」
ヒントを得た私は、三度目の正直とばかりに尋ねようとして、
「おっと、こいつはすげぇや」
「え?」
またしても質問は棚に上げられてしまった。
気付けば私達はラボの最奥へと到着していた。培養槽の列が途切れ、やや開けた空間がある。
そこには、一際大きい培養槽が鎮座していた。
他とは比べものにならないほど大きい。これまでのは大きくても精々ゴリラか熊が入る程度だったが――それでも充分に巨大と言えるが――、最奥の培養槽はどう見ても象か、それに類するサイズだ。
「で、かっ……!?」
思わず声が出た。でかい。とにかく、でかいとしか言い様がない。培養槽の上部は、ほとんど天井に触れる直前だ。下部はどこぞの城の石垣がごとく無数の石を積み重ねて形作られている。比類して木の梁も大きく太く、光る血文字に至っては全体に渡って施されていた。
「あちゃー、ここまでやってたかー。これまたとんでもないことしてくれちゃったなぁ。大変だぞぉ、こいつは。はっはっはっ」
「いやだから、なんでそんなに反応が軽いの? っていうか今笑った!?」
赤ん坊が粗相した姿を見たかのごとく掌を額に当てたロウに、私は声を震わせて突っ込まずにはいられなかった。
ここはもっと驚いたり、戦いたりする場面ではなかろうか。培養槽の中には案の定、黒く大きな、しかし人型の影が見える。さっきのクマモドキとは比較にならない。これが、こんな巨大なものが、かつては人間だったというのか。以前は人間だったものが、こんな大きさにまで成長したというのか。
「うんうん、わかるわかる。最初は驚くもんだよ。そういえば鹿角も昔はそんな可愛い反応してたなー、懐かしいなぁ」
「うん待って、のほほんと回想に浸らないで? ここはそういう場面じゃないと思うの」
我が子の小さい頃を思い出す父親みたいな顔――実際、榊がこのような表情をしているのを見たことがある――をするロウに、私はもっと緊迫感を持って欲しいと切に願う。
とはいえロウの反応を見るに、彼らの世界ではよくあることのようだ。なるほど、『あちら側』は伝説や神話、おとぎ話の世界である。巨大な怪物など存在して当たり前なのだろう。
しかし、
「嘘でしょ……?」
私としてはそんな思いが拭いきれない。
私の母親の遺伝子情報と、晃や木島が斡旋した再開発地区のホームレス。それらを使って、このような怪物が生み出された。もちろん、他にも要因はあるのだろうが、私の身近にいた存在が密接に関係しているのは、どうしようもない事実だ。
そして、私の中にも、このようなことを可能とする血が流れているという。
『現実って、目の前にあることだけが全てじゃなかったりするんですよ?』
またしても高城の言葉が耳に蘇った。きっと、これから何度も思い出すに違いない。
世の中は狂っている。いつだって世界はおかしい――それは、私が〝現実〟を知らないからだ。理解していないからだ。
しかし私のことなど無関係に、〝現実〟はここにある。決して目を背けるわけにはいかない。目の前にあるのが、私の生きる世界なのだから。
「――来たな」
不意にロウがそう呟いた。見ると、彼はサングラスをラボの隅へと向けている。この広い部屋の四隅には、私達が入ってきた出入り口とは他に、通用口と思しき金属の扉が配されていた。
その内の一つが、音もなく開いた。自動扉らしく、機械的な動きで横にスライドする。
「ようこそ、西尾さん。あなたまでここへ来てくれるなんて、嬉しいですね。その点についてだけは、そこの彼に感謝しなければいけませんね。わざわざ僕のためにあなたを案内してくれたのですから」
姿を現したのは、半ば予想、半ば期待した通りの高城だった。髪型や服装が変わっているが、あの特有の雰囲気だけは見間違えようがない。
高城の後方には、やはり無個性な黒服の集団。と言っても、彼らも高城と同じく身につけているものが変わっている。
全員が黒いウェットスーツのようなものを着用していた。薄鈍色の細いラインが全身に走っており、肉体に密着してそのシルエットを浮き彫りにしている。こんな場所、こんな場合でもなければ、変質者の集団だと思われても仕方のない格好だった。
「お? おお? おおおー? なんだそれ、もしかしてまたウチからパクった技術で作ったやつか?」
ゾロゾロと通用口から出てくる高城と黒服の集団に対し、ロウは半笑いで質問を飛ばした。どういうこと? と私が視線で問うと、
「いやね、俺もコートの下にああいうの着てるからさ。〝SEAL〟と合わせて身体強化のパワードスーツになるんだよ。あれも多分、そういう感じのやつ」
掌の甲で口元を隠し、そっと小声で説明してくれた。といっても、そんなあからさまなポーズを取っていては、あちらに内緒話をしていることが丸わかりだと思うのだが。
「相変わらずセコいねぇ。盗人猛々しいったらありゃしない。こっちが特許取ってたら使用料だけで破綻するんじゃないか、お前さん達?」
高城は口の端の片側を軽く釣り上げた。そんな見え透いた挑発には乗りませんよ、という声が聞こえてくるようである。
「盗人猛々しい、ですか。そっくりそのままお返ししますよ。西尾さんは僕が誘ったんです。せっかくのデートを台無しにしておきながら、そちらこそ随分と態度が大きいではありませんか。ああ、恥知らずと礼儀知らずは、そちらの専売特許でしたか?」
高城の刺々しい舌鋒がロウに向けられる。毒液のような悪意が、たっぷりと塗りつけられているのがわかった。
はっ、とロウが笑った。
「デート? あれが? いやいや、冗談きっついぜ。腹筋が割れちゃうだろ。もう割れてるけど。鍛えてるから」
そう言い返してくれたことに、私も脇で小さく頷いた。あれは決してデートなどではなかったし、よしんばデートだったとしても、最後に廃工場の中で銃を突きつけられて殺されるようなデートがあってたまるものか。
「ええ、そうですね……確かに、デートと呼ぶにはいささか、邪魔が入りすぎました」
怒るかと思ったが、意外にも高城は素直に指摘を認めた。目を伏せ、はぁ、と憂鬱げな溜め息を吐く。
「そう、邪魔さえ入らなければ、きっと今頃は……それだけに、腹立たしさが募ります。あなたがどこの誰であれ、もはや許すつもりはありません」
待て。待って欲しい。『きっと今頃は……』の続きは何だ。いや、たとえどんな言葉が続こうとも、そんなことは絶対に有り得ないのだ。変な期待を抱き続けるのはやめて欲しい。本気で。
確かに、多少は心を絆されてしまった瞬間も、なかったとは言えないが――
「待っていてくださいね、西尾さん。全てを片付けたら、後でまたゆっくりとお話をしましょう」
にっこり、と急に別人になったかのような柔和な笑みを、高城は私に向けてきた。この時、背筋に走った感覚を何と言い表したらよいものか。混じりっけのない、無邪気な笑み――それ自体はよいものだが、しかしこの場の状況においては、いかにも場違いが過ぎる。
「こいつは大した自信だ。もう勝ったつもりでいるらしい。けど残念ながら、シンデレラのガラスの靴はお前の手元にはないんだぜ、王子様?」
ロウが前へ出た。ぎしりと床を軋ませて、私を守護するよう巨躯を以て高城の視線を遮る。
「ガラスの靴で答え合わせをしないと愛しい人の存在にも気付けないぼんくらとは違いますので、そんなものは必要ないんですよ」
高城が腰のポケットに右手を入れ、見覚えのある銀色の細い筒を取り出した。〝ルナティック〟のジェット・インジェクターだ。他の黒服らも同様に、ポケットから圧縮注射器を取り出している。
「へぇ? またそれか。前の奴らよりは鍛えているようだけど……雑魚がいくら束になっても俺には勝てないんじゃないかなぁ?」
鋭い犬歯を剥き出しにして笑うロウに、高城もまた、せせら笑いを返した。
「そんな口がきけるのも今の内だけですよ」
高城が左腕を胸の高さまで上げると、漆黒のスーツの全体に赤黒い幾何学模様が浮かび上がった。彼の皮膚に埋め込まれたスキンコンピュータが、スーツと一体化しているのが見た目でわかる。ロウが言っていた通りだ。
次いで、空中に複数のホロスクリーンが浮かび上がった。外国語の文章と、ボタンらしきものが表示されている。
「自覚がないようなので言ってあげましょう。今のあなた達のような状態を『袋の鼠』というんですよ」
躊躇なく、高城は全てのボタンを指で弾いた。ピピピピッ、と電子音が連続で響く。
途端、僅かな揺れがラボ全体を包んだ。
「んー?」
ロウが天井を仰ぎ、様子を窺う。私も反射的に耳を澄ませた。
すると四方八方から、無数の機械音が聞こえてきた。自動ドアが稼働するような音に、ガラスが割れる音。水がこぼれる音に、濡れそぼった硬いものが木の床に落ちる音――
「一度あることは二度ある、二度あることは三度ある。なら同じ事を繰り返すのは馬鹿のすることです。少しは工夫を凝らさないと……でしょう?」
高城が口を三日月のような形にして笑うと、先程色々な音が聞こえてきた辺りから、不気味な声が――
『ォォォォォ……』
『ァァァァァ、ァァァァ……』
『ゥゥゥゥゥゥゥゥ、ゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……』
まるで地の底から這って出てきたような声音。
「まさか……」
私は思わず呻き声を漏らした。
「ああ、そのまさかだな」
詳しいことは何も言っていないのに、同じように事態を察したロウが同意してくれた。これほど嬉しくない同意もそうはない。
ずるり、ずるり……べちゃ、べちゃ……と不穏な音が全方位から響いてくる中、高城の背後に控えた十人ほどの黒服らが、相も変わらず無言のまま、めいめい首筋にジェット・インジェクターを押し付けた。
次の瞬間、男達が怪物に変貌する際の雄叫びが合唱となった。大音声が爆発し、勢いよく黒服達の肉体が膨張する。筋肉が増量し、骨格が変化し、体毛が増え、爪と牙が長く伸び上がる。まさしく『獣人』としか言い様のない姿へと変わっていく。
『■■■■■■■■■■■■――――――――!!!!!』
耳を劈く咆哮が大気をビリビリと震わせた。男らが纏っていたウェットスーツのようなものは、かなり伸縮性に優れたものらしい。クマモドキの時のように服が千切れ飛ぶのではなく、膨張に合わせて伸長している。それどころか、高城と同じように表面に赤黒い幾何学模様を浮かび上がらせていた。
身体能力を強化するパワードスーツ――ただでさえ強力な『獣人』の力にブーストがかけられてしまったら、一体どれほどのパワーになるのか。
「へぇ、いいな。こいつは手応えがありそうだ」
だというのに、ロウは不敵に笑った。この男、恐怖という感情を母親の胎内に忘れたまま生まれてきたのではなかろうか。どうしてこの状況で、そこまではっきりと口元に笑みを刻めるのか、私にはさっぱり理解できない。
さらには。
『ァァァァ……アァァアァァアァアァ……!』
来た。ラボに並んだ培養槽の列の間から、ゾンビのように歩く実験体が、無数に。高城が先程の操作で、まだ動ける実験体の培養槽を解放したのだ。警備の黒服らとは違って理性は失っているようで、歩き方は酔っ払いの千鳥足とさほど変わらない。だが中途半端に変貌した怪物の爪と牙は、それだけで凶悪な武器となり得る。
「ど、どうするの……?」
何体の実験体が解放されたのかわからないが、気配から察するに私とロウは取り囲まれている。逃げ道はないと言っていいだろう。
「どうするも何も、やるしかないよ?」
躊躇も狼狽もなく、ロウは簡単に言い切った。あまりの無慈悲さに私は驚く。
「やるしかないって――待って、あの人達は被害者でしょ!? 何も知らずにここに連れて来られて、あんな姿にされただけで……!」
ロウは戦闘態勢のまま、私の言葉に頷いた。
「ああ。それで今は、体内に注入されたナノマシンと呪術によって、あの男に操られてる無辜の犠牲者だ。何にも悪くない、可哀想な人達だよ」
「だ、だったら!」
助けることはできないのか、という私の訴えに、ロウはいったん笑みを潜めて、首を横に振った。
「でも、さっき言っただろう? 無理だ。助けられない。彼らの魂はもう天に召されているんだ。ここにあるのは、神様気取りの愚か者に弄くり回された肉体だけ。こうなったら、体もあっちに送ってあげた方がよっぽど情けだよ」
「そんな……」
夢も希望もない答えに、一瞬だけ目の前が暗くなる。私は自分のことを現実主義者だと思っていたが、とんでもない思い違いだった。どうしようもないとわかっている現実を呑み込むことが、こんなにも辛いだなんて。
「可哀想だとは思うけど、俺達もここでやられるわけにはいかないからね。人間に戻れなくなったら、もう終わりなんだ。そこに例外はない。……ごめん」
最後に、絞り出すようにしてロウは謝罪してくれた。私に謝る理由など、何もないはずなのに。
ふひっ、という珍奇な笑い声が聞こえた。そちらへ視線を向けると、高城が片手で口元を隠して、身を震わせている。
笑った? 今、私達の会話を聞いて、笑ったのか?
「いやはや、やっぱり西尾さんは優しいですね。素晴らしい。本当に素敵ですよ。そういうところが、あなたの最大の魅力だと僕は思います」
揶揄している――というわけではなかった。嫌味ではなく、高城は本心から私を褒めそやしている。だからこそ逆に、私は得も言えない畏怖に襲われた。
高城は朗らかな笑顔を浮かべ、
「でも、安心してください。ここにいる実験体は全てゴミから作ったものですから。エコロジーというやつですよ。世の中にいてはならないものを再利用しただけです。西尾さんが心を痛める必要なんて、ないんですよ」
それは、優しさと呼んでもいいものだったのだろう。少なくとも高城は私を慮り、労るために言葉を紡いでいる。それはきっと、彼なりの優しさだ。
あまりに歪みすぎて、私の手には余るだけで。
「――~ッ……!?」
わからない。まったく理解できない。高城が狂っているとしか思えない。怖い。自分でも制御できない感情が骨の芯に染み渡り、冷たく凍えていく。体が震えるのを止められない。認めるしかない。
私は今、はっきりと恐怖を覚えていた。
かつては相棒だった、ずっと近くで一緒に仕事をしてきた、高城利之という男に。
「大丈夫、安心しな」
その時、私を守る位置に立つロウが、深い声で言った。静かなのに、それはとても力強く感じられた。
「指一本だって、君に触れさせやしない」
騎士の誓いのようにロウが告げると、その肌に深緑の幾何学模様が浮かび上がる。淡く輝く光線が漆黒のコートを透かして全身を巡り、彼は強く拳を握り込んだ。
全身から放たれる煌めきは即ち、ロウの体内に埋め込まれた〝SEAL〟が励起し、コートの下に着用しているパワードスーツが稼働を始めた証だ。
その直後。
「やれ」
高城が氷塊を擦り合わせるような声で、周囲の『獣人』に命令する。
この瞬間、戦いの火蓋が容赦なく切られたのだった。




