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06

「おや、随分と静かだなー?」

 やはりどう見てもイベントホールとしか思えない工場内部に、ロウの暢気な声が響き渡る。

「誰もいない……?」

 硬い石の床を歩く、私とロウの足音がやけに大きく響く。私はスニーカーで、ロウはアーミーブーツだというのに。それだけ他に音がないのだ。

「そもそも詰めている人間が少ないんじゃないかな? なにせ『裏』の仕事だし、おおっぴらには出来ないだろうしな」

 彼の足取りに迷いはない。向かう先は決まっているようだ。のっしのっしと熊のような重厚な足取りで進みながら、ロウは声量を抑えずに喋る。既に敵地の真っ只中と言っても過言ではない場所にいるというのに、彼の心臓には毛でも生えているのだろうか。きっと毛むくじゃらで剛毛に違いない。

「でも、普通なら警備員なり研究者なりがいるはずよ?」

「ま、こっちの世界だと研究は別の場所でやって、こういう所では製造だけ、ってのはよくあることさ。オートメーション化されていれば、遠隔でも稼働するし。それに『こちら側』は基本、世を忍ぶ奴らばっかだから、あまり人の出入りが多くても、ね」

「なるほど……」

 彼ら『夜の一族』からすると、何より世間の目を欺くことが大切なのだ。多少の作業効率の低下には目を瞑り、ともかく隠蔽することに注力する――『あちら側』ならではの理屈だ。

「それに、警備なんて()()()()のが基本だしね、『こっち側』だと。さっきのゴキブリみたいな連中が出張る方が珍しいし」

「置いとく? 警備を?」

「そ。ゴーレムとか」

「ゴーレム?」

「警備ロボットの土人形版つちにんぎょうばん、って感じかな」

 なるほど、魔術が実際にあるのだから、そういうのも当たり前に存在するのだろう。私たちの世界で言うなら、警備用のドロイドを置くようなものだ。

「あれなら合図一つで勝手に動くし、人件費はかかんないし、いざという時まで放置しておけばいいしで、割とコストパフォーマンスがいいんだよ。まぁ、俺にとっては物足りないから、あんまし出てきて欲しくないんだけど」

 ロウはそう言うが、私には嫌な予感しかしない。この製造工場が無駄に広いのは、まさにそのゴーレムが存分に暴れられるよう設計されているからではないのか。怪物に変貌する黒服らでも大変なのに、そこに土で出来た巨大人形が出てきた日には、全く役に立てる気がしない。

「あ、でも大丈夫だって。さっきも言ったように、研究する奴は別の場所にいるだろうし、ゴーレムも大抵そっちの方に配置されてるから。ここは多分、一番の要所に全部の警備をぶち込んでいる可能性が高いんじゃないかな?」

「そ、そう……ちょっと安心した……ちょっとだけ……」

 ロウの口振りはまさに百戦錬磨のそれだ。熟練者がそう言うのなら、まず間違いはないのだろう。もうとっくに『裏』の世界へと足を踏み入れているのはわかっていたが、流石にさっきの今で動く土人形を見たいかと言われれば、答えはノーだ。

「――ああ、そうそう。そういえばさっき、鹿角から伝言を預かってたんだった」

「伝言?」

 私が微妙な表情を浮かべるのを見てか、ロウが急に話題を変えた。

「巴に、さっきは言い過ぎた、だってさ」

「えっ……?」

 自分でも意外なほど驚いてしまった。まさか鹿角がそんな殊勝なことを言うとは。ロウに伝言を頼むという形といえど、私に謝罪――いや、謝ってはいないか――それに似たようなものを述べるとは。

「何て言うか、ほら。ツンデレ? みたいなところがあるからさ、鹿角のやつ。色々とキツいこと言ったりもするけど、根は優しい奴だから、許してあげてくれる?」

「……うん、わかってる」

 さりげなく、しかし露骨なロウのフォローに私は頷く。私としても、それぐらいは何となく察していた。

 ただ問題があるとすれば、鹿角の言う『さっきは言い過ぎた』の『さっき』がどれを指しているのかわからない、ということだろうか。

「あの時は本当に急いでたし、俺もそうだけど職業柄、死体は見慣れているからね。つい『あれ』とか『それ』とか言っちゃうし、淡々とした反応もしちゃうんだよね」

 なるほど、晃を収納した袋を見つけたときの件か。ロウの言葉でようやく合点がいった。

 しかし、考えてみれば、そういった点については刑事である私も同じだ。先日も木島の死体を見て、しばらく焼肉やモツ鍋には手を出さないでおこう、などと不遜なことを考えていたものだ。それを思えば、私に鹿角を責める道理などない。

「でもって、君は俺達にとって最優先の保護対象なんだけど、それだけに鹿角も扱いに困ってるみたいでね。一番いいのは安全な場所にいてもらうことだけど……君はこうして俺達についてくる意志があるだろう? 相手を攻めながら君を守らないといけないから、ちょっとピリピリしてるんだよねぇ」

「それは……」

「ああ、うん、大丈夫、巴のせいじゃない。これは鹿角がまだまだ未熟だっつー話だから。ほら見て、俺なんかこんなに緩くて元気だし!」

 むん、と両腕を上げて胸を張るロウ。いい体格をしているので、そんなポーズを取ると本物のボディビルダーのようだ。

「あと、さっきの『お前に話すことじゃない』も、君に余計な心配をかけさせまいと思ってのことじゃないかな。正しいかどうかわからない憶測を言って、巴を不安がらせるのはよくない……って考えたんだと思う、多分」

 ここまできっちり擁護されると、私も鹿角のことが憎からず思えてくる。私が少年課で相手にしてきた少年少女と同じなのかもしれない。頑なな態度の奥には、繊細で優しい部分が隠れているのだろう。つい口元が綻んでしまう。

「だから、わかってるわよ。年頃の男の子には理解がある方なの。大丈夫、嫌いになったりしてないから」

 外国人は往々にして大人びて見えるという。ロウの口振りから察するに、鹿角もそうなのだろう。私の予想では年齢は二十歳になるかならないかぐらい――

「男の子? いや、ああ見えて鹿角はもう二十四だぜ?」

「……はっ!? ええっ!?」

 愕然とした。私と二つしか違わないではないか。一応あちらの方が年下だが。意外にも程がある。

 私の反応に、ロウは呵呵大笑した。

「はっはっはっ! まぁ鹿角は可愛いからなぁ、気持ちはよくわかるよ。そう思うのも無理はないって」

 そういう問題だろうか?

 しかし、人は見た目によらないとは言うが、人ではない者は余計にそうなのだろうか。となれば、ロウもまた、見た目や話した印象通りの年齢ではない可能性も十分にあるのでは?

「ねぇ、ロウ、あなたの年齢っていくつ――」

「おっ、あれだあれだ、あっちのエレベーターがラボに直通の奴だ。ほらこっち」

 またしても質問の途中でロウが声を上げ、私を急かしながら足を速めた。もしかすると――いや、もしかしなくとも、はぐらかされている気がする。多分、わざと。つまり、自分のことは話したくない、ということなのだろうか。

 私は名状しがたい気分を味わいつつ、ロウに促されるままエレベーターホールへと足を踏み入れた。

 建物自体が大きいこともあって、六つものエレベーターが左右に並んでいる。ロウはその内の一つ、明らかに扉の色が違うエレベーターのボタンを押した。他は茶色の中、一つだけ銀色の扉が左右に開き、私達を迎え入れる。

「こういう所って普通、カードキーとかが必要なんじゃ……?」

「ああ、そのへんは鹿角が何とかしてくれてるから大丈夫」

「通信でそういう連絡があったの?」

「いんや? 聞いてはないけど、間違いなくちゃんとやってくれてるって。絶対」

 確認を取ったわけでもないのに、心の底から信じ切っているロウの言葉に私は驚く。ものすごい信頼度だ。しかし、よく考えてみれば相棒というものは、このような形がベストなのだ。つくづく、私と高城はそういった関係を築くことが出来なかったのだな――と痛感させられる。

 私は、彼のことを何もわかっていなかった。

 いや、わかろうともしていなかった――だろうか。

 情けない。今更後悔しても遅いが、それでも私はもう少し、彼とちゃんと向かい合うべきだったと思う。まさか、彼の心の中にあんな暗闇が詰まっていようとは。少しも気付けなかった。

 ロウが太い指でパネルを操作すると、彼が確信していた通り、エレベーターは滞りなく動き始めた。扉が閉まり、地下へと向かう。

 高城の代わり――というわけでもないが、目の前にいる人間を疎かにしないという意味では、今からでも己の行動を改めるべきだろう。そもそも、私にはさっきからずっと気になっていることがあるのだ。

 殺されそうになったところを助けてくれた時の『もう大丈夫だ』の声。

 サングラスを外した際に見えた、金色の瞳。

 覚えがある。

 つい先日、悪夢と称しても過言ではない夢の中で見た、幼い私を守ってくれた存在。

 大きくて、暖かくて。

 グローブのような大きな掌と、なにより、人ではありえない色彩をした瞳。

 夢の中のことではあるが、驚くほど綺麗に符合している。

 もしあれが夢ではなく、実際にあったことだとしたら。私の両親が殺され、私自身も大怪我を負った、あの時の記憶だったとしたら――

 ここならロウも逃げ場はないはずだ。

「……ねぇ、私達、前にも会ったことがあるんじゃない?」

 我ながら突飛な考えという自覚があるため、私は意を決してロウに尋ねた。

「んー? そりゃ何日か前にも会ってるじゃん? 君が追いかけてきて――」

「そうじゃなくて、もっと前。すごく昔……私が――」

 子供だった頃、と言いかけて踏み止まる。よく考えてみれば、計算が合わない。両親が殺されたのはもう二十年ほど前のことだ。仮にロウが三十代半ばだとすれば、その時には十代の少年だったことになる。いくら何でもその年齢で、この超重量級の体格をしていたとはとても思えない。

「えっと、その……」

「ああ、もしかして、前世からの運命の糸が――みたいな?」

 ポン、と手を打ってロウが急に得心した。

「え?」

 突然のメルヘンかつオカルティックな話に、私は反射的に眉をひそめた。

「あ、そっかそっか、ごめんね気付かなくて。もしかしなくても俺のこと口説いてくれてたんだよね? いやぁ、この国の女の子はやっぱ大胆だなぁ」

 でへでへへ、とまんざらでもない様子で口元をだらしなく緩める姿に、私の中にあった複雑な思いが綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。

「ち、違うわよ! そんなことあるわけないでしょ! ずっと見守ってたわりにあたしの男の趣味がわかってないわね!」

 全身全霊をかけて否定する。この時、私もここが敵地の真っ只中であることを忘れてしまっていた。思わず怒鳴ってしまってから、はた、と慌てて両手で口元を押さえる。

「大丈夫、大丈夫、どうせあっちに何も見えてないし、聞こえていないから」

 ロウが笑って、昇降機内の天井の片隅にあるカメラを指差した。

「あれも鹿角が完全に無効化してくれてるから、この下で待っているやっこさんには何の情報も伝わらないよ。だから安心して」

 平然と言ってのけるあたりに、歴戦の勇士としての風格が漂う。こういったことを何度も経験しているのだろう。敵地に潜入しているというのに、傍若無人な振る舞いが出来るのはそのせいか。

 ロウはふと、クンクン、と鼻を鳴らし、

「――ただ、あっちも()()()()だろうからねぇ。こっちの接近にはもう気付いているかもだ」

 大きなサイクロプス型サングラスの下、口元に不敵な笑みを浮かべる。やけに大きな犬歯が覗き出て、その鋭さがまるで彼の戦意を表しているかのようだ。

 エレベーターが緩やかに減速し、やがて停止した。扉が開き、私達はロウを先頭として箱の外へ出る。

 地下への直通エレベーターだけあって、そこにあるのは大きな一本道。物資の搬入路でもあるのだろう、奥へと真っ直ぐ伸びる通路は、かなり横幅が広い。思えば、エレベーターも他に比べて随分とサイズが大きめだった。

 通路の先には、これまた大きな金属製の扉。脇にある端末が認証装置だと思われる。

「あれも、鹿角くんがどうにかしてくれてるの?」

「間違いないね」

 足を進めながら問うと、自慢げに親指を立ててロウは断言する。

「あいつ、こういうのは本当に得意なんだよ。生きたスーパーコンピュータってやつ? 下手すると鹿角の方が演算速度が上、ってこともあるんじゃないかな? まぁ、頑張りすぎると甘い物ばっかり食べるモードに入っちゃうんだけど」

 なるほど、よくわからない。コンピュータより計算が速い人間――いや、人間ではないが――など存在できるものだろうか。あるいは、人ではないからこそ、なのか。

「ま、開かないなら開かないで、そん時は力尽くってね」

 ぐっと拳を握って力こぶを作り、ロウは誇示して見せた。そういえば私を助けてくれた際も素手で鉄筋コンクリートの壁をぶち抜いていたな、と思い出す。しかも当時の鹿角の反応を思い返すに、どうやら彼らの着ている服はパワードスーツのようなもので、おそらくは〝SEAL〟との連携で筋力増幅の効果を出すのだろうが、ロウはそれなしで壁を破壊したようなのである。

 やっぱり怪物だ――と再認識する。もちろん、いい意味で。敵となれば恐ろしいことこの上ないが、味方であればこんなに頼もしい存在も他にない。

 長い通路を進んだ果て、高さは天井の際まで、左右も壁近くという巨大な金属扉の前へと辿り着く。

「んー? どうだ? 開くか? だめ? どうよ?」

 私の見た限りではカードキー、および指紋や網膜などの複合認証機と思しき装置に対し、ロウが太い指を駆使していじくり倒す。その指捌きを見るに、案の定だがこういったものは得意ではないようだ。そこは私と似ているので、妙な親近感を覚える。

 しかしながら、ロウの言った通り肝心なところは鹿角がどうにかしてくれていたらしい。

 やがて、ポーン、という柔らかい電子音が響くと、巨大な金属扉が中央で分かたれ、左右にスライドし始めた。

開けゴマ(オープンセサミ)ー、ってね」

 途端、僅かに開いた隙間から、何とも言えない甘ったるい匂いが漏れ出てくる。

「この匂いは――」

 ここまで短期間の内に何度も嗅ぐと、流石に覚えてしまう。これは、繁華街の地下バーに充満していたものや、薬で変化したクマモドキが発していた香りと同じものだ。そして――

「あの人が、いつもつけていた香水……!」

 やっと気付いた。今更すぎるが、ようやく私の中で合致した。ずっと、どこかで嗅いだことがあるような気がしていたのだ。

 大分と薄まっていたが、高城はいつもこの香りを身に纏っていた。彼の車の中でもほんのり漂っていたように思う。だがそれは、フレグランスを吹き付けていたのではなく。

「そ、〝ルナ〟を作る際に出る薬品の匂いだ。〝ルナ〟を打った奴の体からも、汗腺を通してこの匂いが発生する。熟しすぎてちょっと腐った桃みたいな、こんな匂いがね。つまり、この匂いのする奴はどいつもこいつも〝クロ〟ってわけさ」

 先程ロウがエレベーター内で鼻を鳴らしていたのは、これを嗅ぎ分けていたからだろう。私も嗅覚は鋭敏な方だと思うが、彼はそれ以上の感覚を有しているようだ。

「じゃあ、もしかしてあの時、私の匂いを嗅いでたのも」

「そうそう。君のマフラーや服からこの匂いがプンプンしてたからね。近くに〝ルナ〟の常用者がいるってわかったんだ」

 それならそうと、その時に言ってくれればよいものを――と思ったが、考えてみれば当時の私がその言葉を信じるかどうかでいうと、ほぼ間違いなく信じない。言いたくても言えなかったのだろう、ロウとしても。

 ゴウン、ゴウン……と重苦しい音を伴って開かれていく扉は、想像以上に分厚かった。おそらく一メートル近くある。もはや扉と言うより、動く壁だ。ゆっくり動くのは、その重さ故だろう。

「これって……」

 少しずつ広がっていく扉の隙間から見える光景に、思わず息を呑む。

 近代的な建物で、製薬工場。その地下にあるラボということで、私はかつて見た製薬会社の研究室のようなものを想像していた。

 まるで違っていた。

 木材、皮革、石、そしてガラス。扉の向こうに広がる大きな空間は、それらによって形作られていたのだ。

「木……? 木造なの……? それに石って……」

 想像の斜め上過ぎる光景に、私は唸ってしまう。唯一、天井だけが他のフロアと同じ近代風で、あちこちに取り付けられた照明器具が空間内を明るく照らしている。

「外側だけは、ね。言っただろう? 俺達は金属がダメ。だから俺達みたいなやつを生み出す薬の〝ルナ〟も、極力そういうのに触れない場所で作らなきゃダメなんだ」

 言われてみれば確かにそうかもしれないが、それにしたって異質である。

 あちこちに置いてある巨大な機械。ロウの言う通り見た目は木製だが、所々に緑や青の小さなランプ光が灯っている。中身はしっかりと金属製のコンピュータなのだろう。

 床も壁も木製だ。広いことも相まって、学生時代の体育館を思い出す。

 空間のほとんどを埋めるのは、大人が二人か三人は入れそうな大きさのガラスのもの。何かの培養槽だろうか。それらがいくつも均等に並んでおり、空間の奥まで続いている。培養槽の中には得も言えぬ色の液体が満たされていて、さらには――

「――っ!?」

 度肝を抜かれる。培養槽に満たされた液体の中に、大きな影が見えたのだ。それはやがて、はっきりと像を結ぶ。

 人間――否、違う。

 人間の形をした、怪物だ。

「実験体だよ。そうは見えないだろうけど、元は人間だ。投薬でこんな風に変化しちゃったんだろうね。多分、もう意識はほとんど残ってないはず……って、大丈夫? 辛いならあまり見ない方がいい」

「……うん……」

 思いのほかグロテスクな光景に動悸が止まらず、私はロウの言葉に甘えて培養槽から目を逸らした。床の木目を見つめながら深呼吸を繰り返し、息を整える。

 落ち着け。動揺するな。こんなものはきっとまだ序の口だ。確証はないが、私はこれから、これよりもひどいものを目にすることになる。その時に腰砕けになってしまっては、ただでさえ戦力にならないというのに、ロウや鹿角のお荷物になってしまうではないか。

 意を決した私は、自分で自分の両頬を強く叩いた。パァン! と乾いた音が木造の研究室内に鳴り響く。

「――っし!」

 頬がジンジンする感覚に、私は精神に喝が入ったのを確信した。大きく息を吸って、視線を培養槽に戻す。

 改めて実験体をつぶさに観察してみるが、残念ながら元が人間であることぐらいしかわからない。それぐらい歪な姿へと変貌している。手は犬か猫のような肉球が見え、鋭い爪が生えている。頭部は鳥なのか鶏冠とさかのようなものが見えるが、顔の下半分はブルドッグに似ている。背中にはコウモリの羽の骨格らしきものがあるが、骨に皮を被せただけでのもので、あれで飛べるとは到底思えない。下半身はいくつもの肉瘤が風船のように膨らんでおり、足はないように見える。

 もはや、さっきのクマモドキのように特定の獣に例えることすらできない。

「まだ、生きてるのよね?」

 まさに悪夢の産物としか言いようのない怪物。おそらくは様々な薬を投与され、しかし中途半端な効果しか出なかったため、このように無惨な姿と化してしまったのだろう。しかし、幾本ものケーブルにつながれ培養槽の中に浮かんでいるそれは、明らかに呼吸しているのだ。定期的に生まれた泡が、口元から培養槽の上へと昇っていく。

 私の質問に、ロウは頷いた。しかし、

「でも、助けるのは無理だ。この状態でも人間の姿に戻ってないってことは、完全に『獣化』したってことだ。こうなるともう、人の心は取り戻せない。放っておくと、人を喰い散らかすだけの怪物になる」

「じゃあ、〝ルナティック〟を多用すると……」

「ああ、個人の資質によりけりだけど、いずれはここにいる実験体のように()()()()()()。さらに暴走状態になったら、止める手立てはひとつしかない。残念だけどね」

 明言は避けたが、ロウが何を言わんとしているのかは理解できた。

 だから殺す。殺さないといけない――そう言っているのだ。

 再び歩き出したロウの後ろについて、培養槽の間を進む。

 培養槽は石の土台に木造のラックという構成で、ガラスの容器に触れる箇所には皮革を挟み込みクッションにしている。そして培養槽の下部、石でできた部分には、

「……魔方陣?」

 赤黒い光の線が、複雑な紋様を描いていた。どう見ても魔方陣としか言いようのない形状をしており、さらには光はゆっくりと明滅を繰り返しているようだ。

「血文字による魔術かな、多分。光ってるってことは、ナノマシンも配合されてるっぽいね。俺達の〝SEALシール〟と同系統の技術かも。ああ、これでただの石と木を最先端のコンピュータに変換してるのか。いやぁ、これぞ現代の錬金術だなぁ」

「感心してる場合?」

「いや、よくパクられるんだよね、うちの技術って。大概が外見だけ上手く真似ただけで、中身はスカスカなことが多いんだけど、極稀にいい感じに盗まれちゃうのもあって、割と深刻に困るんだよなぁ」

 言っている内容の割にはロウの口調が軽すぎて、私は反応に困る。

「血文字って言っても、あまりそれっぽい匂いはしないけど?」

 本物ならもう少し、文字通りの血生臭い匂いがするはずだが。

「原材料が血ってだけで、もう別物に変わってるからね。俺としては鼻にキツくなくて助かるよ」

 ロウが歩く度、木製の床が軋みを上げる。これだけの巨体で、この筋肉だ。体重は軽くとも、私の倍以上はあるだろう。

 培養槽の列はずっと奥まで続いており、しかも奥へ行けば行くほど、培養槽のサイズは大きくなっていく。

「やっぱりというか……ここにも全然人がいないのね?」

「どうやらここは、かなり自動化に力を入れているみたいだなぁ。それにしても、まさかここまで徹底してるとは。恐れ入ったね」

「……それはそうと、結局、薬の原料は何なの? ここには実験体ばかりがいるみたいだけど、肝心の製薬はどうやってるのか、全然見えてこないわ」

 そう問うと、ピタリ、とロウが足を止めた。こちらを振り返り、妙に嬉しそうに笑んだ口元を見せる。

「いい質問だね、巴くん。実を言うと俺も細かいことはわからないんだが」

「わからないんかい」

 やけに気取りながら情けないことを言うものだから、思わず素で突っ込んでしまった。

「結論から言おう。ここにいる実験体、これ全部がモルモットであるのと同時に薬――〝ルナティック〟の原料なのだよ」

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