01
かつてパルクールを私に教えてくれたのは、誰あろう、あっくんこと岡本晃だった。そう、私に『いいっスね、才能あるっスよ!』と調子に乗らせた張本人が彼なのである。
が、あの頃からもう数年。警察官である私は今までも体を鍛えているが、あちらはそうでもなかったらしい。
突発的な追いかけっこはすぐに終わった。
例の黒尽くめの男達に比べたら随分と可愛いものだった。
人気のない再開発地区――木島康一の遺体が発見された地域――に逃げ込んだ晃を、私は例の行き止まりまで追い詰めた。
建築会社の資材が崩れ、猫でもなければ通過できなくなった、あの路地である。と言っても、今回は反対側だったが。
「――どうしたの、あっくん」
バリケードになった建材を前に、立ち尽くす晃。その背中に私は、息の乱れを抑えつつ、どうにか穏やかな声で呼びかけた。
「ト、トモさん……」
往生した晃はこちらへ振り返り、ばつの悪そうな顔を見せる。
私は、その気になればよじ登れそうな建材の山へと視線を移し、
「君なら、これぐらい簡単に乗り越えられるんじゃない?」
と軽く笑った。すると、晃も首を巡らせて背後を省みて、
「――いや、もう無理ッスよ、何年前の話ッスか。今じゃ俺、腹だってこんなに出てるんですよ?」
革ジャンを内側から盛り上げている腹部をパンパンと叩いて、自らの衰えをアピールした。なはは、と苦笑いを添えて。
その態度から、もう逃げる気はなくなったようだ、と判断した私は肩から力を抜いた。
「それで、理由は教えてもらえるのかな? 人の顔見た途端いきなり逃げ出すなんて、失礼じゃない」
「ああ、いや……」
晃は首を竦め、申し訳なさそうに片手で後頭部をかく。こうして見ると、随分と丸くなったものだ、と思う。見た目も、物腰も。かつての彼は人懐っこいながらも、どこか尖ったナイフのような危うさを抱えていたものだが。
「……何があったのか知らないけど、困ってることがあるなら相談に乗るから。よかったら話してよ」
もう追い詰める気はない、と示すため、私は道の脇に寄って空間を空けた。どうしても言いたくないなら、何も言わずに帰ってもいいよ、と。
晃は首の後ろに手をやったまま、ピタリと動きを止めた。俯き、考え込んでいる。私に事情を説明するかどうか、迷っているようだ。
「……あたしね、今、謹慎処分中なんだ」
「えっ……?」
「ちょっと失敗しちゃってね。だから、今だけは警察官じゃないの。ただの西尾巴、ただのトモさん」
晃の警戒を解くために言ったことだったが、これは思った以上に恥ずかしい話だった。思わずはにかんでしまう。
だが、こちらから自分の情けない事情を白状するというのは、それなりに効果があったようだ。
「……トモさん……実は、俺……」
晃は重い口を開き、訥々と話し始めた。
――実は俺、でかい借金つくっちゃって……
という重い切り出しから始まった晃の話を、私は道すがら黙って聞いていた。
あまり大きな声では言えない、と晃が言うので、それならちょうどよいところがある、と近くの廃工場へ案内したのだ。
建材に封鎖された道を迂回して、私が晃を連れて行ったのは、木島康一の遺体が発見された廃工場だった。縁起はよくないが、事件が起こったのはほんの二日前だ。当然ながら、近付く人間などいようはずもない。内緒話をするには打って付けだと思ったのだ。
建材に封鎖された道を迂回して、私が晃を連れて行ったのは、木島康一の遺体が発見された廃工場だった。縁起はよくないが、事件が起こったのはほんの二日前だ。当然ながら、近付く人間などいようはずもない。内緒話をするには打って付けだと思ったのだ。
工場内の清掃はとうに済んでいる。と言っても最低限、遺体と血痕を洗浄しただけだが。至る所にある破壊痕や、砕けた運搬用パレットなどはそのままだった。
「―トモさん。俺の家、両親がいわゆる毒親ってやつで、すぐに離婚したって話は覚えてるッスか?」
壊れた機械の上に腰掛けた晃は、皮肉げな顔で自らの生い立ちを語った。その話はかつて補導した際にも聞いていたので、私は頷きを返す。
「もちろん。お母さんの方に引き取られたけど、すぐに育児放棄されちゃったんだよね……?」
「そうッス。ネグレクトってやつッスよ」
言っては何だが、かつての晃が不良になった理由は実にありきたりなものだった。両親の不仲、育児放棄、貧困――そういった家庭の事情から、道を踏み外す少年少女はざらにいる。私は少年課にいた時、晃のようなタイプを何人も見た。
「そんで俺、めちゃくちゃにグレまくってたわけッスけど……まぁ、ゲンさんやトモさんのおかげで更生っていうか、立ち直ることができて……あ、その、あの時は本当にありがとうッス」
晃は膝に両手を置いて、深々と頭を下げる。ちなみに『ゲンさん』というのは少年課時代の私の上司だ。
「どういたしまして。でも、ちゃんと真っ当な道に戻れたのは、あっくんの努力があったからだよ。あたしや他の誰でもなくて、君自身の力だからね」
私がそう返すと、晃は何とも言えない微妙な顔をした。
「……ッス」
曖昧に頷いて、溜め息のような返事をする。両の掌で太腿のあたりをゴシゴシと擦りながら、舌も重たげに晃は語った。
「……そんで俺、あれから足洗って、仕事始めたんスよ。でもやっぱ、俺みたいな学歴のない奴なんかには、土木とか運搬ぐらいしかなくて……けど俺、今度こそ真面目にやり直そうって思って、自分なりに一生懸命頑張ったんスけど……」
晃の言葉には『でも』や『けど』と言った否定詞が多く混じっていた。内心、これは上手くいかなかったのだろう、と先刻の借金の話も踏まえて私は思う。
「仕事してたら、昔ツルんでた先輩らが遊びに来たんですけど、色々話している内に言い合いになっちまって……そんで、つい俺……」
俯き、晃は両拳を強く握り締める。
「……暴力、しちゃった……?」
控えめに聞くと、晃は躊躇いつつも小さく頷いた。何があったかはわからないが、我慢できなかったのだろう。血気の早さというのは、ほんの数年では変わらないものらしい。
「そしたら、相手が裁判とか言い出して……そん時の賠償金とか慰謝料がかなり凄くて……どうにか金を借りることはできたんですけど、でも利子が高くて……」
思い返せば、晃は昔から先輩に可愛がられ、後輩には慕われるタイプだった。人付き合いにおいては如才ないのだ。だが運が悪いのか、うっかりが過ぎるのか、時々貧乏くじを引くことが多かった。今話していることも、その類だったのだろう。
利子が高い――その言葉に、私は嫌な予感を得る。
「……もしかして、ヤミ金?」
「……ッス……」
予想通りの展開過ぎて、もはや溜め息も出ない。
こうなると、もはや道筋は見えてしまった。
「――〝ルナティック〟って、知ってる?」
私は色々と先回りをして、その質問を口にした。
晃が弾かれたように面を上げ、こちらを見る。
もうそこまで知ってるのか――という驚きが、そこにはあった。
「……っ!」
晃の顔がくしゃりと歪む。目からは涙が溢れ、鼻からは鼻水が流れ出る。
「トモさん、すんません……っ! 俺……おれ……っ……!」
体を震わせて泣き出した晃に、私は全てを察した。
詰まる所、元の木阿弥というわけだ。
一度は更生した晃だったが、すぐに暴力沙汰を起こしてしまい、おそらく仕事をクビになってしまった。そこへ畳み掛けられた慰謝料や賠償金による大きな借金――そもそも、それ自体が仕組まれた罠のようにも思えるが――を返すため、晃は再び危険な生業に手を出すしかなかった。
即ち、ドラッグの売人である。
「すぐに、すぐに足を洗うはずだったんス……! 借金の元金が減って、普通に働いて返せる額になったら、手を引こうって……でも、でも、俺……!」
体もすっかり大きくなったというのに、背中を丸めて晃は泣きじゃくる。
「すんません……すんません……! 俺、せっかくトモさんとゲンさんが、俺なんかのために親身になって、よくしてくれたのに……っ! 俺、トモさんの期待を、う、うらぎっ……うらぎ……ぇっ……!」
泣きすぎて、段々と呂律が回らなくなってきたらしい。横隔膜が痙攣したように間隔の短い呼吸を繰り返しながら、晃は涙ながらに謝罪する。
私は何も言えなかった。こんな時、下手な慰めなど逆効果だ。大丈夫とも、気にしないでとも言えないのだから。
小さな子供のように、しゃっくりを繰り返しながら、それでも晃は弁明する。
「で、でも、でもっ……! 信じてください、トモさん……! 俺、知らなかったんス! このへんにいたホームレスが、まさかあんなことになるなんて……!」
「ホームレス?」
思わぬ単語の登場に、私は思わずオウム返しにしてしまった。
それをどう受け取ったのか、晃はさらに勢いを増して、ひぃひぃ、と号泣する。
「すぐに、手っ取り早く稼げるからって……! ホームレスにもいい金額を渡してやるからって……! だ、だから俺、この辺のオッサン達に声かけて、上の人達のところに連れて行ったんスけど……! でも、まさか、あんな、あんな酷いことになるなんて……おれ、おれ知らなくて……っ……!」
「ま、待って、待って待って? あっくん落ち着いて? ごめん、ちょっと話が見えないんだけど……」
徐々に加速して支離滅裂になっていく晃を、私は押し止めようとした。
晃が〝ルナティック〟の売人であることはわかった。ということは、先程のバーで見かけた連れこそが、高城の言っていた『会合』の相手なのだろう。
だが、それとホームレスとに一体何の関係が?
確かに少し前まで、この辺りの再開発地区はホームレスの巣窟になっていた。特に、ここのような廃工場などは、仮住まいとしてはちょうどよかったに違いない。近くに繁華街もあり、色々と便利な面もあったはずだ。
しかし、言われてみれば最近はホームレス絡みの事件について耳にしていない気がする。何事もなく平穏になったものと思っていたが――どうやら違ったようだ。
「そういえば、一昨日も誰も見なかったわね……」
木島の遺体が発見された朝のことを思い出す。
そうして記憶をさらってみると、おかしな所はいくつも見つかった。そもそも、集まってきた野次馬の中にホームレスらしき人物が一人もいなかったのだ。そんなこと、この再開発地区においてはまず有り得ないことなのに。
「こ、このあたりにいたオッサン達を斡旋してたのは、俺だけじゃなくて、コウさんとかもやってたんスけど……でも、そのコウさんが、こ、殺され……!」
コウさん――その名前にピンと来た。
「――待って、あっくん。コウさんって……もしかして、木島康一のこと?」
私の質問に、しかし答えは返ってこなかった。
靴音。
どこからともなく響いた硬い音響が、私と晃の会話を中断させた。
「ヒッ!?」
晃が電流を流されたような勢いで立ち上がった。携帯端末のバイブレーション機能のように全身を震わせて、首を左右に振る。
靴音は近付いてくる。それも複数だ。
私も立ち上がり、周囲を見回した。この廃工場はコンクリート造りで音が反響しやすい。しかも私達がいる場所は、出入り口が二つもあって、どちらから人が来るのかも判然としない。
果たして、二つの出入り口に一人ずつ、黒尽くめの男が現れた。
「――っ!?」
あの大男と銀髪――ではない。要人のSPのような黒いスーツとネクタイ、そしてサングラス。高城がいれば『MIBみたいだ』とでも言っていたであろう、無個性な格好をした男達である。
「誰っ!」
私は誰何しながら懐に手を入れ――しまった、今日は謹慎中ということで、私物の拳銃を家に置いてきてしまった。どのみち、持ってきていたとしても今の私が発砲するのは色々と問題になるのだが。
スーツを内側から盛り上げる筋肉が見て取れるほど屈強な男二人は、無言のまま私と晃に近付いてきた。
「うわ……わぁああああああああああっ!!」
黒尽くめの男らの放つ重圧に負けて、晃が恐慌状態に陥った。悲鳴を上げてあられもなく逃げ惑う。
「たす――たすけて、たすけてぇえええええぇ!!」
が、晃は運がよかった。彼が立っていた場所のすぐ近くの壁に、どうにか大人一人がくぐり抜けられそうな穴が空いていたのだ。晃はしゃにむに穴へ飛び込んだ。
私も後を追おうとして、
「……!」
男二人が申し合わせたように、私の前に立ちはだかった。逃げる晃を完全に無視した上で。
「あなた達、何者? あの大男と銀髪の仲間?」
仕方なく足を止め、距離を取った私は質問を飛ばした。しかし、男達は答えようとしない。サングラス越しにこちらを見つめ、私を捕まえようとレスリングよろしく両手を構えている。
ジリジリと近づいてくる男達に合わせて、私も一歩、後ろへ下が
――なめんな。
らなかった。強く地面を踏みしめ、両手を上げて構えを取る。
女と見て侮っているのだろうが、私は空手の有段者だ。簡単に抑えられるほど可愛い生き物でないことを思い知らせてやる。
私が身構えたにも関わらず、男達は何事もなかったかのように近寄ってきた。女の細腕など取るに足りない――そう言っているかのような態度だ。
だったら、その鼻を明かしてやる。
「――ふっ!」
右手側から近付いてくる男の方が一歩分近い。私はそいつの膝に対してコンパクトな右ローキックを放った。鞭のごとくしなった蹴りが炸裂する。
肉と骨がぶつかり合う打音が強く響いた。
「……!」
男の体がわずかに震え、歩みが止まった。意地でも声は出さないつもりらしい。上等だ。そっちがそのつもりなら、こっちは追撃を畳み掛けるだけである。
「せぇ――ぁああっ!」
蹴り足を戻さず前へ。大きく踏み込み頭を下げて男の懐へと潜り込む。その間に左拳を握り込み、男の腹が最高の衝撃力を発揮する間合いに入ったところで、渾身の正拳突き。
「はぁっ!」
拳が鳩尾に突き刺さる。
決まった。クリーンヒットだ。会心の手応え――
「――ッ!?」
と思ったのも束の間、拳に返る感触のあまりの硬さに愕然とした。鋼鉄――というのは流石に言い過ぎだが、人間の体とは思えないほど硬い。突きの威力がそのまま跳ね返って来て、腕から肩にかけて痺れが走った。
「ぐぅっ!?」
どんな腹筋をしているのか。砂を限界まで詰め込んだサンドバッグを殴ったかのようだった。骨まで響く衝撃に、思わず弾かれたように拳を引く。
それが隙となった。
「あ……!」
ぬう、と伸びた男の手が私の右二の腕を掴んだ。レザージャケット越しに太い指が食い込む。
「はな――せぇっ!」
このまま捕まってなるものか、と腰を落とし右の回し蹴りを放った。先日は例の大男に躱されたが、今度は命中する。黒服の脇腹に右足の甲が突き刺さり、しかし先程と同じく、とんでもない密度の筋肉に跳ね返された。
「つっ!」
むしろ蹴ったこっちの足が痛い。じん、とした痺れが足首から太腿の裏までを駆け抜ける。神経網を巡った激痛に堪らず、一瞬だけ体が硬直した。
そこを狙われた。
もう一人の黒服が私に飛びかかってきて、左腕をからめ取った。これによって私は両腕を封じられた形となる。
「――くっ! なんて馬鹿力!?」
当然ながら全身を使って暴れようとするが、見かけ通り男達の膂力は並ではなかった。いや、はっきり言って予想以上だ。まるで巌のごとき握力で、両腕ががっちりと拘束されている。この前、あの大男に手を掴まれた時と似ていた。圧倒的な筋力の差を、どうしようもなく思い知らされる。
つまり、逃げられない。
――まずい!
甘く見ていた。そこらの男程度ならそうそう負けない自信はあったが――どうやら彼らは『そこら程度』ではなかったらしい。明らかに尋常ではない身体能力を有している。急所であるはずの鳩尾に全力の正拳突きを叩き込んだというのに、平然としているのだ。絶対におかしい。
万事休すか、と思った時だった。
どこからか足音が走ってきて、私を捕まえている黒服の一人に激突した。結構な勢いだったのだろう。何者かの体当たりを喰らった黒服は流石に体勢を崩し、よろめく。
その隙に、体当たりをかました何者かがもう一人の黒服を殴りつけた。
「――トモさん、逃げて!!」
そう叫んだ声に、私は瞠目する。
「あっくん!?」
誰あろう、ついさっき逃げ出したはずの晃だった。私を助けるため、わざわざ戻ってきてくれたのだ。
「ここは、俺が、なんとかするから!!」
やけくそ気味に怒鳴った晃は、さらに黒服に殴りかかる。パルクールをこなす身軽さこそ失ったが、それだけ晃は力強く成長していた。私の攻撃ではビクともしなかった黒服達が、彼の拳や蹴りでは大きく弾き飛ばされる。
「おらぁ! トモさん離せよっ! オルァ!!」
が、当初は奇襲にたじろいだ黒服らだったが、すぐに落ち着きを取り戻し、会話もしていないのに役割分担をする。即ち、片方は晃の相手をし、もう片方は私の身柄を確保する――と。
私にはわかる。私と晃の二人がかりでも、この黒服らには勝てない。だから、
「――ダメ、あっくん! 君こそ逃げ」
て、と叫ぶつもりだった。
それは、何の前触れもなく私の視界に現れた。
サプレッサーのついた拳銃。
すっ、と音もなく黒服の背後から。
スレンダーな腕が伸びてきて。
銃把を握る黒い革手袋が、サングラスをかけた顔の横を通り抜け。
真っ直ぐ、晃の頭に銃口を向けた。
「え?」
唖然とする。
あまりに突然すぎて。
あまりに滑らかすぎて。
当の晃ですら、己に向けられたそれが何なのか、すぐには理解できないようだった。
「へ?」
キョトンとした顔をした晃が、間抜けな声をこぼした。
その瞬間。
気の抜けるような音を立てて、発砲。
晃の頭が、強めのデコピンを喰らったような動きで跳ねた。天を仰ぐように喉を逸らしてのけぞり、そのまま後ろへと倒れる。
その姿が、やけにスローモーションに見えた。
どう、と糸の切れた操り人形のように、晃が崩れ落ちる。
それきり、動かない。
「――――」
時が止まったかのようだった。私は倒れ伏した晃を見つめ、息もできない。
晃を撃った人物がゆっくりと腕を引き、サプレッサーの先端から立ち上る煙に、ふっ、と息を吹きかけて散らす。
「あまり手荒な真似はしないでくれ。彼女は貴重なサンプルなんだ」
高圧的な口調で、しかし聞き慣れた声がそう言った。
私は目に見えないハンマーで頭の中を直接殴られたような気分で、声の主の方を見る。
黒服達が揃って私から手を離し、一歩退く――そうすることで、彼は視界の中心へと入ってきた。
高城だった。
「やぁ、ご無事で何よりです、西尾さん。お怪我はありませんか?」
スイッチが切り替わったみたいに、朗らかな態度で話しかけてくる高城。先刻の低い声が嘘のようだ。
「……ぁ……」
何か言おうとして、声がまともに出なかった。いつの間にか喉がカラカラに渇いている。ひとりでに息が乱れて、肺に上手く力が入らなかった。
「ところで、彼とは一体どういう関係ですか? お知り合いですよね?」
何事もなかったかのように、高城はコンクリートに転がっている晃を顎で示し、質問してくる。
ひどく狼狽しているせいか、私は何故か素直に答えてしまった。
「……しょ、少年課にいた時に……世話をした、男の子、です……」
仰向けに倒れた晃は、目を開いたまま虚ろな目で天井を見上げている。微動だにしない。額に穴が空いているのだ。そこから流れ出る鮮血が、ゆっくりと床に血溜まりを広げている。
死んでいる――それは、誰の目にも明らかだった。
ああ、と高城は納得の息を吐く。
「なるほど、そうでしたか。いやぁ、よかった。僕はてっきり、昔の恋人かと。でもまぁ、どちらにせよこうなる運命に変わりはなかったんですけどね」
あはは、といつものように笑った後、高城は再び声を尖らせて黒服に話しかける。
「悪いが、これを片付けてくれ。このまま放置するわけにはいかない」
拳銃のサプレッサーで晃の遺体を示すと、黒服の一人が懐から携帯端末を取り出した。どこかへ連絡する素振りを見せながら、この場を離れていく。
そこでようやく、理解が追い付いた。
高城が晃を撃ち殺した。そして、この黒服どもは高城の部下なのだ――と。
「……どうして……どうしてですか、高城さん……?」
「何がですか?」
絞り出した私の問い掛けに、高城は無邪気な顔で小首を傾げた。そこにある明確なズレがあまりに気持ち悪くて、次の瞬間、私は声を荒らげていた。
「どうして殺したんですか!? この子は、あっくんは……! 一生懸命、更生しようと……!」
何も悪いことはしていない――とは口が裂けても言えない。だが、こんな突然、無慈悲に殺されていい子ではなかった。ましてや、物のように『片付けろ』だなんて。
「……? 何を言っているんですか、西尾さん?」
心底、私の言っていることが理解できないように、高城は首を捻った。
「コレはゴミ溜めに棲息する虫ケラですよ? 僕はそれを掃除しただけです。いいことじゃありませんか。どうして怒るんですか?」
一点の曇りもない瞳でそう告げた高城に、私は言葉を失う他なかった。
嫌味でも皮肉でもない。心の底から本気で、高城はそう思っている。だから、そのように行動したのだと――それが理解できてしまったのだ。
しかし、だからと言って怒りが収まるものではなかった。
私は絶句しつつも、まなじりを決して高城を睨み付けた。体の奥底から燃え上がる瞋恚を込めて。
すると、やれやれ、と言わんばかりに高城は肩をすくめた。
「知らないようだから教えてあげますよ。このクズ……ええと、名前は何でしたっけ? あっくん? そう、あっくんは類い希なる悪党だったんです。何を隠そう、彼こそ〝ルナティック〟を流通させていた売人の一人だったのですから。……と、おや? その顔はもしかして、もう知ってましたか?」
私が驚いた素振りを見せなかったことに、高城は少し拍子抜けしたように目を瞬かせる。次いで、ふふ、と笑って、
「そうですか。じゃあ、やっぱり消しておいて正解でしたね。まったく、こちらを裏切った上、よりにもよって西尾さんに情報漏洩とか……なんて救いようのないゴミでしょうか。片付けの手間すら惜しいぐらいですよ」
軽蔑するような眼差しを晃の遺体に向けると、先程この場から離れていった黒服が戻ってきた。高城の『手配は済んだのか?』と言いたげな目線に、やはり無言のまま頷きを返す。
「……一体、これはどういうことなんですか。何なんですか、これは……高城警部補! あなた一体何をしているんですか!」
私は敢えて役職をつけて呼び、怒鳴りつけた。
状況はある程度理解はしたが、それでも私の頭は混乱している。何がどうなっているのかさっぱりわからない。どうして高城が晃を殺したのか。彼に従う黒服らは何者なのか――いや、そもそも高城が何者なのかすら、私にはわからなくなっている。
ただ一つわかるのは――高城の行動が、警察官として明らかに逸脱したものだということ。
「ええ、当然の疑問ですよね。わかりますよ、西尾さん。驚かせてしまって申し訳ありません。でも、その質問に答える前に、まずはあなたを拘束させていただきますね」
にっこり、と楽しげに笑った高城は、ずっと脇に控えていた黒服に声をかける。
「手錠を」
黒服が頷き、指示通り懐から手錠を取り出した。
「ああ、無意味な抵抗はしないでくださいね? 怪我をさせたくはありません。僕にこれを撃たせないでください」
見やすい位置にサプレッサー付きの拳銃を掲げて、高城は私を牽制した。
「……っ!」
高城の表情は相変わらず平常そのもの。本気なのか冗談なのか、顔からは判別できない。だが、彼は相変わらずの様子で、晃を無慈悲に撃ち殺したのだ。
本来なら全身全霊で抵抗し、命懸けで戦うべきだ。
だが心のどこかに、未だに現状を信じられない自分がいた。まさか高城がこんなことを、どうして、何かの間違いではないのか――そう訴える声が聞こえる。これは高城の演技で、事件の黒幕を誘き出すための作戦なのではないか。そんな可能性が脳裏を過ってしまった。
実際に晃は、頭を撃ち抜かれて死んだというのに。
「はい、ありがとうございます。これで西尾さんを傷付ける必要がなくなって、僕は嬉しいですよ」
結局、私は無抵抗のまま手錠を受け入れた。背後に回った黒服に、後ろ手に手首を拘束される。
「さて、西尾さん。ご質問にお答えしますよ。僕が何をしたのか、ですよね? 見ての通りですよ。裏切り者の粛正です。先程も言った通りこの……あっくん? という男はドラッグの売人でしてね。さらに言えば〝ルナティック〟の被験体として、このあたりのホームレスをまとめて売り飛ばすという人身売買にも手を染めていました」
「被験体……?」
「ええ、薬の開発には治験……つまり〝人体実験〟がつきものですから。身寄りもなく、いなくなっても騒ぎにならないホームレスというのは、実に最適なチョイスだと思いませんか?」
その言葉で、さっき晃が悔恨していた理由がやっとわかった。
「――違う!」
高城の言うことは間違っている。晃は望んでホームレスを人体実験のモルモットとして売り飛ばしたのではない。彼は騙されるような形で、人身売買に関与してしまったのだ。
「そんな……あの子は、あっくんはそんなつもりじゃなかったはずです! 上手く言いくるめられて、それで――」
反駁しようとした私に、高城はうんうんと頷きを返した。
「ええ、そうでしょうとも。だから言ったでしょう? 〝裏切り者の粛正〟だと。彼は自分のしていることに気付いてしまった。ホームレスに暖かい住み処を与えていたのではなく、使い捨ての実験用素材として売り飛ばしていたことに。だから裏切ろうとしていたわけです。……まぁ、彼は少々できの悪いタイプでしたからね。少し前から麻取にマークされていたようですし、裏切る気がなくとも、近々口封じで消す予定ではあったのですが」
拳銃のサプレッサーで自分の頭をトントンと軽く叩きながら、あっけらかんとした様子で高城は宣う。
なんにせよ晃は用済みだった、と。
「どうあれ、この〝あっくん〟が僕の顔を見て逃げ出す程度の人間でよかったですよ。手こずることなく消せましたからね。これが木島のように独立するつもりで準備を整えるような人間であれば、なかなかボロを出しませんから」
「……っ!? まさか、木島も……!?」
言外に、木島康一の事件にも自分が関与していたことを匂わせた高城に、私は胃が捻れるほどの驚きと恐怖を得る。
隠していたのか、ずっと。騙していたのか、今まで。何てことのない顔をして、死体を前に嘔吐する演技までして。ずっと、ずっと私を、私達を――!?
瞠目する私に、ふっ、と高城は嘲るような笑みを見せた。
「所詮はどちらもクズだったということです。〝あっくん〟は、詐欺師に騙されて背負った借金を返済するために。木島は、『昴龍会』から追放されてもなお業界で成り上がるために。それぞれ汚い仕事に手を出したわけですからね。ま、死んで当然のゴミですよ」
「アンタねぇ……ッ!!」
あまりの言い種に、流石に堪忍袋の緒が切れた。一瞬、自らの状況を忘れて高城に殴りかかろうとし、金属製の手錠に阻まれる。鎖の張り詰める硬い音が、廃工場内に響き渡った。
「おっと、落ち着いてくださいよ、西尾さん。別にあなたを蔑んだわけではありません。あくまで、消えるべきゴミが消えたと、そう言っているだけです」
「ゴミはどっちよこの外道っ!! アンタみたいな人間に、他人をどうこう言える資格があるとでも思ってんのっ!?」
言い訳じみた高城の弁解に、私は噛み付くような勢いで言い返す。彼の残忍な言い種は、どうしようもなく鼻持ちならなかった。
高城はわざとらしく肩をすくめ、
「どうやら彼女は興奮しているらしい。落ち着いて座れる席を用意してくれるかな?」
傍らの黒服に告げた。合わせて、遠くからまた複数の足音が聞こえてくる。先程、黒服の一人が連絡した、晃の遺体を回収しにきた仲間かもしれない。
私に手錠をかけた黒服が、スーツのポケットからハンカチを取り出した。何をするかと思えば、私が先程まで腰掛けていた木箱の上にハンカチを敷く。それから私の手錠を引っ張り、動作で『座れ』の意を示した。
「どうぞ、遠慮なく座ってください。少し面白い話をしましょう。あなたには聞く権利――いえ、義務があります」
高城が掌で私を促す。
二つある出入り口から、さらに六人の黒服が姿を現した。私や高城の姿など見えていないかのような様子で、テキパキと晃の遺体を収納袋に詰めていく。
私は歯噛みしながら、しかし高城の指示に従った。
高城もまた、さっきまで晃が尻を乗せていた壊れた機械に歩み寄ると、優雅な所作で腰を下ろす。
収納袋のファスナーが上げられ、顔が見えなくなっていく晃の様子を眺めながら、
「だいたいですよ、西尾さん。あなたも常々感じていたはずです。何度補導しようが、何度優しく諭そうが、こいつらは更生しない。立ち直りようがない。だから犯罪はなくならない。いくら逮捕して法で裁こうとも、殺さない限り犯罪者は増え続ける――と」
高城は拳銃を懐に収めると、今度はジャケットのポケットから透明なビニール袋を取り出した。
「そう、法律に、警察に意味なんてない。無力なんですよ」
掌に収まるほどの袋の中には、一本の薬品アンプルが入っている。高城が軽く袋を揺らすと、小さなアンプルに収まった液体が揺れ、この仄暗い工場の中で微かな光を放った。
これまでの流れから言えば、それが何なのかは、敢えて聞くまでもなかった。
「でも、僕は違います」
薬――〝ルナティック〟を指で摘まみ、顔の前に掲げた高城は、眼鏡のレンズ越しに暗く淀んだ目を私に向けた。
「僕はね、手に入れたんですよ。法なんかに縛られず、こいつらを裁く力を」
そう言って、高城は笑った。
唇の端が大きくつり上がる。
それはまるで、三日月のような笑みだった。




