プロローグ
※企画・原案:不知火昴、文章作成:国広仙戯氏(https://mypage.syosetu.com/307964/)の、共同制作作品です。
月のない夜のことだった。
朔日の闇は深く、街は静かに眠っている。
照明を落とした暗がりの中、一人の男がノートパソコンのキーを叩いている。
輝度を落としたディスプレイに表示されているのは、ブラウザに開かれた検索サイト。
先程から幾度もワードを変え、男は情報を検索し続けていた。
――麻薬。
――事件。
――汚職。
そういった剣呑な単語を組み合わせては、引っ掛かったページを手当たり次第に開いていく。期待した情報がなければすぐに閉じ、次のページへ。
開いては閉じ、開いては閉じ、開いては閉じ。
キーボードの上を長い指が走る。
――夜。
――闇。
――魔術。
魔女、狼男、吸血鬼、妖精――
徐々に付け加えられる単語が迷走し、検索内容も次第に常軌を逸していく。
やがて。
「――……」
ピタリ、と男の手が止まった。
途中から日本語を捨て、英語、仏語、独語、アラビア語――果てにはラテン語まで駆使した挙げ句、とあるサイトを発見したのだ。
問い合わせフォームに必要事項を記入し、送信前に二重確認をしてから、やや迷うような間を置き――提出ボタンを押す。
しばしの静寂。
「…………」
ふぅ、と男は我知らず緊張していた手足から力を抜いた。
その時だ。
脇に置いていた携帯端末が強く震えた。硬い机の上で尖った音を立てる。
男は素早く端末を手に取り、通知を確認した。
それは返信だった。
思った通りだ――と男はほくそ笑む。
専用の回線を使い、身の証となる個人アカウントからメッセージを送ったのがやはり正解だったのだ。
〝あちら〟はこちらを本物だと認識し、今度こそ返答を寄越した。
そのメッセージが、あらかじめコピー転送するよう設定しておいた携帯端末に届いたのである。
ずっと待ち焦がれていたメッセージはしかし、たったの一文だった。
『ようこそ、夜の一族へ』
それで十分だった。
それだけで、これまでの何もかもが報われた。
「――ふ、ふふっ……はは、ははは……」
どうしようもなく笑いが込み上げてきて、男は我慢できなかった。熱のない、やや掠れた声で、空気を震わせる。
新月の夜。
照明を落とし、闇の立ち籠める個室。
低く唸るパソコンや小型ワインセラー、エアコンの駆動音に被さるように、乾いた笑い声が控えめに響く。
薄く絞られたディスプレイの光に照らされて、口の端を大きくつり上げて嗤う男の唇が、まるで三日月のごとく浮かび上がっていた。
†
満月の夜のことだった。
冴え冴えとした月光が、街を薄明るく照らしている。
青白い光が静かに降り注ぐ中、しかし反比例するように、闇のわだかまる場所が都会の一角にある。
うらぶれた再開発地区。
もはや近辺に住む者はなく、しかし未だ解体すらされていない、忘れられた地域だ。
そんな街灯の光すら絶えた暗闇の中を、一人の男が走っていた。
「はぁ――! はぁ――!」
初老の男だ。
息も絶え絶えに、今にも倒れそうな勢いで路地を駆けている。
「はっ――! はっ――!」
荒く吐く息は冷たい空気に触れた途端、白く染まっていく。ひどく底冷えする夜だった。まるで月の光が、世界を凍てつかせようとしているかのごとく。
白髪交じりのぼさぼさ頭。手入れのされていない無精髭に、暗く落ちくぼんだ双眸。履き古したブランド物のジーンズに、すっかりクタクタになったモンクレールのダウンジャケット。
一言で言えば、みすぼらしい男だった。
かてて加えて、男は満身創痍だった。全身の至る所に裂傷があり、服も派手に破けている。深く抉られた傷口からは血が滲み、ダウンジャケットの裂け目からは、赤く染まった羽毛がほろほろと路上にこぼれ落ちていた。
「ぜぇ……っ! ぜぇ……っ!」
やがて息も切れてきた。よほどの距離を走ってきたのだろう、ただでさえ傷だらけの男は速度を落とし、片手で脇腹を押さえる。
たまたま見つけた細い路地に入ると、捨て置かれた建築用の機材を見つけた。建物の壁に立てかけられていたそれを、男は通り抜け様、力任せになぎ倒す。角材や鉄パイプがけたたましい音を立てて崩れ、路地を塞ぐ即席のバリケードになった。
「――なんだよ、なんなんだよ! ちっくしょうがぁっ!」
轟音の響く中、苛立ちを叩き付けるように叫ぶ。壁に手をつきながら歩き、
「聞いてねぇぞぉ俺ぁ! 一体なんだってんだよアレはよぉ! ふざけんなクソ野郎がぁっ!」
路地を抜け、広い場所に出た。叫ぶ威勢はいいが、男の足つきはもはや頼りなかった。陸上にいながら水中を行くようにして、緩慢に歩く。体力の消耗以上に、血を失い過ぎたのだ。
ついには足をもつれさせ、何もないところで転んでしまう。
「ぐぁっ――クッソ……!」
硬いアスファルトで顎をしたたかに打ち、己の境遇を呪う言葉を吐き捨てる。腹立たしさのあまり拳で地面を殴って、それでも立ち上がろうとして、
じゃり、と背後で音がした。
「――ッ!?」
男の肩が痙攣したかのように跳ねる。
そのまま、身動きを止めた。
耳を澄ませ、神経を研ぎ澄ませる。だが聞こえてくるのは、どこか遠くを走る車の音や、自分が薙ぎ倒した角材や鉄パイプの余韻だけ。
それでも、男は得も言えぬ重圧を背中に感じていた。
近くにいる――否、すぐそこにいる、と。
「――~ッ!?」
喉の奥から溢れそうになった悲鳴を必死に呑み込み、男はバネのごとく立ち上がった。
再び全力で駆け出す。
誰か……、誰か――!!
心の中で助けを求める。恐怖で喉が詰まって言葉にならない。
だが、誰もいるはずがなかった。このあたりを根城にしていたホームレスは、根こそぎ公共施設へと送られてしまったのだ。今頃は暖かな部屋で、かつてないほど冬の訪れを歓迎していることだろう。
いくつもの角を曲がり、何度も壁に体をぶつけ、それでも男は走り続けた。
やがて、さびれた工場地帯へと迷い込む。
鍵もかけられず半開きになった扉を見つけ、衝動的に飛び込んだ。錆びた扉に体当たりをして中に入る。
「うぉ……っ!?」
足を踏み入れた途端、そこらに転がっていた機材に躓き、分厚い埃のカーペットの上にボールのごとく転がった。視界がメチャクチャになり、気が付けば体を大の字にして仰臥していた。
しばし放心する。
ふいごのように荒い呼吸音を響かせていると、明かり取りの窓や天井に空いた穴から差し込む月光に、舞い上がった埃がキラキラと輝くのが見えた。
早鐘を打つ鼓動がうるさい。頭の中にも一つ心臓が出来たかのようだ。周囲の音もろくにわからない。もう限界だった。指一本すら動かしたくない。
だが、このままここにいては、いずれ殺される。
「……く、そ……!」
男は気力を振り絞り、痛む体に鞭打って身を起こした。あちこちに刻まれた傷口から、灼熱する激痛が襲ってくる。流れ出た血が服と肌の間に入り込んで、ベタベタと気持ち悪かった。
どうにか立ち上がり、自分が入ってきた工場の出入り口へと視線を向ける。
しかし。
「……?」
おかしい。今しがた入ってきたばかりの扉がどこにも見当たらない。そこからは月光が差し込んでいるのだから、すぐに見つかるはずなのに。
「……ヒッ!?」
その理由に気付いた瞬間、心臓が口から飛び出しそうなほどに跳ねた。
甲高い悲鳴を漏らして脱兎のごとく走り出す。
工場の奥へ。出入り口を塞いでいる奴の手が届かない場所まで。
男が逃げる先には大きく天井が剥げて、光が広く降り注いでいる空間があった。まるでスポットライトに照らされた舞台がごときそこへ、男の足が踏み込んだ刹那。
月光が――翳った。
「――!?」
思わず面を上げる男の目に映ったのは、真円を描く月――その中央を穿つ、歪な人影。
「うぁあぁあああああああああ――!?」
断末魔の叫びは、しかし途中で断ち切られた。
打撃音が響き、男の体が玩具のごとく宙を飛ぶ。
ぐしゃり、と工場の壁に叩き付けられた。
血飛沫が勢いよく迸り、壁に花模様を描く。
どさり、と。
思い出したように、男の体が地に落ちた。糸の切れた操り人形のように転がった男の目は大きく見開かれ、しかしそこに命の輝きは一片もなかった。
ただの肉塊と化した遺骸から、堰を切ったように鮮血が溢れ出てくる。真っ赤な水溜まりが床に積もった埃を呑み込みながら、その範囲を広げていく。
月光を鈍く反射しながら面積を増やしていく血溜まりを、踏む足があった。
ちゃぷり、と音を立てて血に足を浸したそれは、大きな体をぐっと撓ませると、
「ウォオ――オオオオオオオオオオオオオオォ――――――――!!!」
夜空に向かって雄叫びを上げた。
ただでさえ半壊していた天井が、咆哮の衝撃によってさらに崩れ落ちた。月光のスポットライトが範囲を広げ、それの姿を曝け出す。
およそ人の姿ではなかった。
金属のような光沢を持つ髪は硬く逆立ち、全身を覆い尽くしている。毛皮の下に隠された筋肉は隆々と盛り上がり、かつては衣服だったものがロープのようにまとわりついている。内側から膨れ上がる力に耐えきれず、引き裂かれたのだろう。高級革を使用した黒のブーツもまた、先端が突き破られ、太い爪の生えた足指が顔を出していた。
それは――〈獣〉だった。
「――ォオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオォ――――――――!!!」
狼が遠吠えを繰り返すように、〈獣〉は再び月に向かって咆哮した。
見事に獲物を仕留めた達成感を堪能するかのごとく。
胸に満ちる充足感を誇るかのごとく。
そして、三度目の雄叫びを放とうとした、その時だった。
「おーおー、派手にやってくれたなぁ」
出し抜けに暢気な声が、どこからともなくかけられた。
緊張感の欠片もない言い種に、しかし〈獣〉の動きが凍る。
「――!?」
愕然とした〈獣〉の頭の上にある耳が、忙しなくバタバタと動いた。音の反響から発生源を探っているのだ。
しかし。
「おいおい、どこ見てんだ? エロ本でも落ちてんのか?」
先程とはまったく違う方角から軽薄な声が響いてきて、聴覚による索敵は無駄だとわかった。
「――!」
故に〈獣〉は弾かれたようにその場を飛び退き、月のスポットライトの中央へと移動した。全方位を警戒するために。
「グァルルルル……!」
せっかくのいい気分に水を差された〈獣〉は、鼻っ面に獰猛な皺を刻んで周囲に視線を巡らせた。血にも似た赤色の双眸に怒りの炎を灯し、大きく見開く。
「へぇ、どうやらまだ言葉は通じるみたいだな」
またしても異なる方角から聞こえてきた声に、〈獣〉は憤怒の咆哮で応えた。
「ォオオオオオオオオオオオオオ――――――――ッッッ!!!」
太い喉から放たれた爆音は全方位に放射され、廃墟と化した工場内に響き渡る。同時に〈獣〉の耳が動いて反響を繰り返す音を捕まえる。人外の超感覚を駆使して、音の響きから周囲の状況を把握しようというのだ。
「あーうっさいうっさい」
しかしながら結果として、瀟洒な声の持ち主はあっさりと姿を現した。
凝り固まったコールタールのような闇から、月光の灯りの下へと進み出てきたのは――黒尽くめの大男。
漆黒のロングコートに、顔の上半分を覆い隠すほど大きなサイクロプス型のサングラス。こんな暗闇の中にあって、そのサングラスの色はあまりにも濃い。まるで鏡のようになったサングラスに〈獣〉の姿がくっきりと映るほどだ。
「――ガァァルゥルルルルルゥゥゥ……!」
〈獣〉は身を低くして、唸り声で威嚇した。それは不愉快な邪魔者に対する抗議であり、警告であり、宣告だった。
お前を殺す――そう言っている。
だが黒衣の男は歯牙にもかけず、口元に不敵な笑みさえ浮かべて〈獣〉を見つめていた。サングラス越しでもなお、肌に突き刺さるほどの強い視線を〈獣〉は感じる。
不意に男は最小限の動きで左腕を挙げ、左耳に掌をあてがう。
「鹿角、目標発見だ。フォロー頼むぜ」
目の前にいる〈獣〉に向けた言葉ではなかった。ここではなく、どこか別の場所にいるであろう誰かに語りかけ、口元の笑みを深くする。
「グルルゥ……!」
より一層低くなった〈獣〉の唸り声。全身の毛が荒ぶる戦意に逆立つ。鼻面に凶悪な皺を寄せ、巨大な口が耳元近くまで裂ける。ぞろりと並んだ牙が剥き出しになり、月光を反射する。漲る悪意に、四肢の筋肉がはち切れんばかりに膨れ上がっていく。
そんな露骨なまでの威嚇動作を、しかし黒衣の男は、はっ、と笑い飛ばした。左手を耳に当てたまま、空いた右手で〈獣〉を指差し、歯を見せて破顔する。
「いいなぁ、その顔。最高だ」
告げると同時、腰を落として構えを取る。そうするだけで、ただ棒立ちしていた時と比べて嘘のように雰囲気が変わった。
改めて見るに、男も〈獣〉に負けないほどの巨躯であった。よく鍛えられ、引き締まった肉体をしている。
半身に構えた男は、前に出した左手を、くいくい、と動かして〈獣〉を誘った。
「来いよ、まだ遊び足りてないんだろ? ほぉら遠慮すんなって。お兄さんが相手してやっから」
笑みを浮かべる口元――やけに長く伸びた犬歯の隙間から、小馬鹿にしたような笑い声がこぼれ落ちる。
このあからさまな挑発に、〈獣〉は迷うことなく乗った。
「ゴァアァアアアアアアア――――――――ッッッ!!!」
夜気がビリビリと震えるほどの咆哮。灼熱する憎悪が〈獣〉の全身を膨れ上がらせる。
ナイフのごとき爪が生えた足を、勢いよく踏み出す。いつの間にかそこまで広がっていた血溜まりが、ばしゃりと勢いよく飛び散った。
月光に煌めく血飛沫のカーテンをぶち抜き、〈獣〉の巨体が弾丸のごとく馳せる。
唸りをあげる〈獣〉の右拳。稲妻のごとき一撃が黒衣の男に叩き込まれた。
が、しかし。
「おっと」
軽い声と共に、男が〈獣〉の懐に飛び込んできた。肉を裂き骨を砕く〈獣〉の必殺の一撃を、左腕で難なく受け流して。その身を、風を受けた柳のごとくしならせて。
「ほいっ、となぁ!」
男の声音に力が入った。〈獣〉に接近した男はその黒衣を翻すと、装甲付きの革手袋に包まれた右拳を地面に触れる直前まで下げ、そこから飛燕のごとく上昇させた。
切り裂くようなアッパーカット。下手に避ければ風圧だけで〈獣〉の毛と皮膚を切っていたであろう拳撃を、しかし怪物は空いていた左手で受け止める。
落雷にも似た大音響が鳴り響いた。
「グァルルルルルァ……!!」
真下から突き上がってきた男の拳を受けた〈獣〉の掌から、わずかな煙が立ち昇った。衝撃が熱量に化け、皮膚を焼いたのだ。
驚くべきことに、〈獣〉と男の膂力は拮抗していた。空を切りはしたが、男の片側を押さえる〈獣〉の右腕。受け止められこそしたが、小刻みに震えながらも押し返されない男の右拳――どちらも負けず劣らず、その場から引きも進みもしない。
「なるほど、パワーはたいしたもんだ」
はっ、と黒衣の男が歯を見せて吐き捨てる。直後、コンクリートを蹴って大きく後退し、〈獣〉との間合いを開いた。
「こいつは思ったより楽しめそうだ。なぁ鹿角、ちょっとだけ手出し無用で頼むぜ」
楽しげに嘯くと、男は首を回してゴキゴキと骨を鳴らした。再び構えをとると、両の拳を勢いよく握り込む。
筋肉の急激な肥大化に、革手袋がミチミチと音を立てた。
男はサングラス越しに〈獣〉を見据え、笑みを深くし、囁くように告げた。
「さぁ――ショウタイムだ」