三叉路の喫茶店
仙道企画その2、参加作品です。
文芸(純文学)日間3位ありがとうございます。
三叉路を見下ろす四階建てのアパートメントの三階で、デスクワークに勤しむ私が、縮こまった体を伸ばす。体を左右にひねり、凝った肩に手を乗せて、首を曲げると、ごきっごきっと嫌な音が鳴った。
窓から見える空は、冬の海のようなうねりをもって、灰色に染まっていた。
雲の端っこだけ、ほんのりと赤い。そろそろ日が暮れる。
お腹がぐううと鳴った。腹部をさする。なにか口にできるものはないかと見回せど、机に置いたペットボトルも空になっている。その横にあるパックの豆乳もペコっと潰れて、見るからに空ですと訴えていた。
私こと、三上悠里の仕事は文筆業だ。本日は、悩ましいけど原稿の進みが遅い。このまま、机にかじりついてても、思いつくことはないだろう。
気分転換と称した現実逃避の部屋の掃除も終えている。これ以上ここにいても先に進むこともない。
私は立ち上がり、反り返るほど身を伸ばす。
机の端っこに積み上げた本の上から三冊目を抜き取り、脇にかかえる。メモ帳にペンを持った。小銭をポケットにつっこみ、私は家を出た。
廊下の端にある、急で細い階段を降りる。一階の扉を開けると、そこは三叉路の商店が並ぶ一角だ。
扉をあけるなり、秋風が染みて、ぶるんと身震いする。両手を口元にあてて息を吹きかけると、吐いた息は真っ白になった。
「冬も近いな……」
私はアパートメントの入り口を閉じる。
舗装された道路。歩道と狭い車道。小ぶりな車がそろそろと走る。三叉路の角は、レストランと花屋。ここは、パン屋、美容室、本屋などの個人商店が、道沿いに並ぶ地元の生活拠点だ。建物は四階建てや五階建てになっており、上階はすべてアパートメントである。
私は階下の店に飛び込む。
扉を開けると、ふあぁっと珈琲の香りが漂い、うるさくない程度にジャズが流れている。
「いらっしゃい」
カウンターでカップを並べているマーク・ウィルソンが、誰からも好かれそうな嫌味のない笑顔で笑いかける。
「寒くなったね」
私はカウンターに駆け寄って、肘をつける。
「今日のおすすめパンはある?」
「クロワッサンとクッペ、残っているのはチョコチップマフィンだね」
「じゃあ、クロワッサンとチョコチップマフィンが食べたいわ。良い香りね、珈琲」
「淹れる?」
「ブラックで、マイルドなおすすめのブレンドでお願い」
「かしこまりました」
注文を終えた私は、一番好きな道沿いの席に座る。窓から一望できる三叉路が好きだ。行きかう人を見ながら、誰かの人生を思い描く。
お皿にのせられたクロワッサンとチョコチップマフィン。マグカップにそそがれた珈琲。ふわっと漂う香りがたまらない。
マグカップを両手で持ち、行儀が悪くても肘をつく。
家で珈琲をドリップする時は気が急いて、ブクブクとわいたお湯を寝かせる間もなく、フィルターの中で尖がり帽子のようにつんと立った粉の頂点に、ちろちろっとお湯をかけてしまう。えぐみが出て、のど越しに棘が残る。
マークが淹れる珈琲はまるい。香りがたちのぼり、ふわっとつつまれる。飲み込めば、柔らかい液体が喉を流れ、玉の雫を飲み込むように、するりと流れ落ちていく。名残惜しくも、淡雪のように解け消えて、ほんのりと残るのは、甘い思い出のようにキラキラとした記憶だけ。
初恋が薫る珈琲を一口二口楽しんで、窓外の花屋を見つめる。
店員がブーケを作っている。赤を基調として、白とピンクの花を添えている。透明なビニールシートで包み、持ち手にリボンを添えた。
棚の奥にあるショーケースの中段の空いた花かごに添えている。
店先の小さな小棚の上に並ぶ手のひらサイズブーケを見つめる小さな女の子がいる。お母さんと一緒に選び、その中の一つを手に取った。
先ほどブーケを作っていた定員が応じる。
お母さんが会計を済ませれば、小さなブーケは女の子の手の内に包まれる。
意気揚々とした背が道の向こうに消えていく。お母さんが彼女の横に付き従う。恐れも怖さも知らない幼子にとって、枯れる花の儚さがもたらすものに想いを馳せる。
記憶にも残らない過去の沈殿が積み上がり自我となすと思えば、あの花は底に沈み、消えて、浮き上がることもなく、輝くこともないだろうけど。
クロワッサンに手を伸ばす。
つまめば、カサリと音が鳴る。ここのパンは、三叉路の向こうにあるパン屋さんのものだ。朝と夕方にパン屋の店主が、籠一杯のパンと、ものすごい長い食パンをもってやってくる。
朝と昼にお目見えする、珈琲付き厚焼きトーストは私も好きだ。
三時のお昼には、ハニートーストに変わり、夕方はザクザクと四角く切られ甘い卵液につけられて焼かれる。焼き色に焦げ目がついた原形を残さない食パンをフォークで刺して食べれば、甘党の酒飲みの良いつまみになる。
クロワッサンをつまんでちぎる。きゅーっと伸ばすと、繊維のような糸を引いて、引き離されることを惜しむようだ。私はそんな別れを惜しむパンを引き裂く。
悪意はないわ、クロワッサン。
食めばバターがふんだんに使われている油分を感じる。咀嚼するごとに甘い。
ちぎっては食べ、ちぎっては食べる。もさもさと口に含み、パン屋を眺める。
長いバケットもった老女が出てくる。入れ違うように、仕事帰りのトレンチコートを着た女性が入店する。
店内には数人の人影が見えた。
クロワッサンを食べ終えて、お皿の上で指と指をさすり、パンくずを落とす。
油分だけが指先に残る。テーブルの端に置かれた、紙ナプキンの束から一枚抜き取り、指先を拭いた。そのペーパーを握りつぶさずに、裏返して、唇をぬぐう。更にたたんで、四角くした紙をテーブルの端に置いた。
珈琲のカップに口をつければ、中身はもう半分も残っていなかった。
メモ帳を開き、ペンを持つ。見たものを走り書く。
ブーケを作る花屋の店員。
店先の小さなブーケを手に取る童女と母。
パン屋から出てきた、バケットを持って出てきた老女。
入れ違い、パン屋に入ったトレンチコートを着た女性。
彼女たちは、今日はどこにいて、何をして、今ここにいるのだろう。
二三行、思いつくままメモをとる。彼女たちの本当の人生は知らない。なにを悩み、なにを考えているのか。
どこかの物語のように、人は人の心は見えることなんてないんだ。もし、人の気持ちが分かったらどんなに楽かと思うだろうか。
私は思わない。
人が他者の心を読めるようになったら、その気持ち悪さで、自殺したくなるんじゃないだろうか。
私は、悪い人間だから、そう思ってしまう。
ブーケを作る花屋の店員。
売れ残った少ない花をまとめて飾っているのかもしれない。少ない量を花かごに入れておくよりまとめて、リボンをつければ、誰かの目にとまるから。
きれいなものを売っていても、そこにはちゃんと採算をとる思考がある。
店先の小さなブーケを手に取る童女と母。
幸せそうに見えても、子育てに悩むお母さんは多いよね。人から見て良いお母さんに見られてくて疲れてしまう女性もいるだろう。夫婦で子育て観が違い対立したり、子どもは母親がそだてるもんだと非難ばかりする夫もいる。
家庭程、闇深いものもない。
パン屋から出てきた、バケットを持って出てきた老女。
体が思うように動かなくなって、今日できたことが明日できなくなり、昨日できたことが今日できなくなる。そんな日々の中で、食事を作ることもおっくうになり、手軽なパンを食べるようになっている。あそこのバケットは硬いけど、まだ食べれるなら、歯は丈夫なのね。
入れ違い、パン屋に入ったトレンチコートを着た女性。
会社で仕事をすれば嫌な人もいる。良いことばかりじゃないでしょう。社会からちゃんとすることばかりを求められ、ムリゲーを強いられている女性も多い。
そんなの無理と言おうにも、鈍感な男性社会は、できているやつもいるだろうと、自身の思考停止に見向きもしない。
メモを取って閉じる。
創作には何の役にも立たない思索の羅列を残した。
「悠里はいき詰まるといつもそこに座るね」
マークが寄ってきて、私の隣に座った。
見回すと、客は私一人だった。
「そうね。ここの景色が好きなのよ」
「この三叉路が」
「よくできた景色だわ。人の営み、街のざわめきが融合した動くジオラマみたい。いきかう人に無数のドラマが隠されていても、それを包み隠すような美意識がある」
「そう?」
マークが首をかしぐ。
「どうせなら、美しい夢をみていたいわ。
悲しいことも、つらいことも、結局は自意識の範囲でしか受け入れられない。
世界に星の数ほどある不幸が流されていくのは、それを受け止められる人なんて、いないからよ。過去なんて、語れる人が語るだけなのよ。語れない過去を持つ人は沈黙し、言葉を飲んで生きている」
「そこまで考えたりしないからなあ」
マークはそう言って頬杖をつく。
「珈琲がうまく淹れれたらうれしい。焙煎がきれいにできたらうれしい。小さな喜びのつみあげしかないよ」
「そういう生き方が一番いいんじゃない。良い夢をみるように、私も生きていたいわ」
「夢ねえ」
「この三叉路の上に、通る人の数だけ、違う現実が重なっているのよ。彼ら、彼女たちにはそれぞれ違う場面なの。重なって、離れ、また重なって、すれ違う。無数の現実の交差点の傍観者として、ここに座るのが好きなのよ」
「それでいつもメモをとっているの。ネタにするため?」
「まさか、こんなメモ、なんの価値もないわよ。所詮妄想だもの、私の。余計なことを考える遊びよ、遊び。人が求めるものは、現実じゃない。リアリティーと現実は別物なんだから」
「よくわからないね」
「本当に現実に即した物語なんて、誰も読みたくないのよ。人間は、自分の物語さえ、向き合いたくない生き物よ。
他者の痛みを見つめて、じっと耐える精神なんて、だれも持ち合わせてはいないのよ。
傷つく人の物語を見て、共感や同情を示すより先に、自身が傷ついた心の整合性を保とうとする人間らしさを否定したくないのよ。
正論を言いながら、この人は自分が傷ついたことを怒っている、その人間らしさが愛らしいと思うわ」
「また、よく分からないことを言うよね」
マークが苦笑する。
「こういうよく分からないことばっかり考えさるのよ。筆が進まないときはなおさらね。意味のないことを、意味があるふりをして誤魔化しているだけね。ただの現実逃避よ」
「気分転換じゃないの」
「そうとも言うわ」
ガランと店の扉が開き、「いらっしゃい」とマークが立ち上がった。
残された私は、少なくなった珈琲とチョコチップマフィンを頬張って、お会計を机に置いて、店を出た。
木枯らしが吹く。街灯が光る。寒さに両手で腕をさすった。
アパートメントの入り口に手をかける。
手にひんやりとした雫が落ちてきた。
おもわず見上げると、頬に水滴がぴちゃんとあたる。
雨だ。
ドアを開けはなち、急いで中へ入る。振り返れば、道に丸い黒い点が無数にあらわれる。
ぼたぼたと雨音が重たい。
ゆっくりと扉を閉じて、階段をのぼる。
大きな雨粒が叩き落ちてくる。
屋根に地面に、太鼓を叩くように打ち付けていく。
廊下におり立ち、自宅前まで歩き、扉を開けたら、真っ直ぐ机に向かった。
残した原稿と向かい合い、雨音に耳を傾けながら、筆を進める。
雨音に後押しされて、筆は自由に進んだ。
望まない現実を捨てて、望まれるリアリティを書けばいい。
ただそれだけのことだ。
ただ思う。気持ちのいいだけのリアリティの奥底に、ほんの少し、誰かの感情を刺激する傷を残したいと……。
現実とは所詮、エッセンスだ。
物語の本当の嘘は、現実に立ち向かい自分と向き合う人間像、これこそが真っ赤な嘘なのだ。
どんな人間にも物語があるなんて虚構だ。最期まで、自己保身に正当な理論武装をして、自好都合解釈の幻覚の中で死んでいく。それこそ人間ではないか。
今日分の原稿が仕上がった。私はうーんと伸びをする。
ふああと眠気が襲ってくる。私はふらふらと寝床に、ぽすんと身を投げた。
急な眠気が襲ってきた。ちょっとだけ、十分だけ眠ろう。お腹も満ちて、仕事も終わった。ほんの少し寝たら、起きて、シャワー浴びて、歯ブラシして……。
「悠里、悠里……」
遠くから声が聞こえて、目覚める。
「服着たままだよ、歯ブラシは終わったの」
お母さんみたいなこと言うのは……。
「マーク……」
目をこすりながら、身を起こす。
「……お店はぁ……」
「閉店したよ。また明日だ」
「十分寝ようと思ったら、長く寝ちゃった」
私はうーんと腕を上に伸ばした。
「歯ブラシしないと虫歯になっちゃうよ」
「はあい」
日常はいつも優しい。
どうせこの世が、自意識の幻なら、私は良い夢を見ていたい。
最後までお読みいただきありがとうございます。
同企画参加者様の作品も読ませていただきました。同じ曲でありながら、まったく違うイメージを受けていらっしゃるのがとても興味深いです。曲とそれぞれの書き手の内面がシンクロするような作品が並んでおります。
もしよろしければ、同企画参加者様の作品もお目通しいただければと思います。
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