水槽に沈めた指輪
縁が波打っている丸く透明な水槽に指輪を沈める。
意匠も装飾も施されていないストレートの漆黒の指輪。
ゆらり、ゆらゆら。
水の入った水槽の中でシーソーのように左右に揺れながら、白い砂利に着地。
すれば、漆黒の指輪はザトウクジラへと変化して、歌声を奏で始める。
世界中の海の遥か彼方まで届く不思議な歌声。
誰に届けているのだろうか。
魔法使いの少年、くくるは、水槽が置かれたテーブルに椅子を近づけては座り、腕枕に頭を乗せて目を瞑り、ザトウクジラの歌声に耳を傾けた。
原因は不明。
陸と海が分かたれたその年。
海が天空へと飛び立ってしまったその年。
天球へと姿を変えてしまった海へと飛び立って行った魔法使いの師匠から手渡されたのが、この漆黒の指輪だった。
師匠の魔力が籠められた漆黒の指輪だった。
いつかまた陸と海が交わる時まで預けておく。
毒魔法、深層意識に入り込んで観照したり操作したりする魔法、暗殺に特化した魔法など、闇の魔法に突出した師匠だった。
世界を支配せんとした闇魔法を使う悪の魔法使いの野望を阻止するためには闇魔法を知り尽くす必要があるからと、闇魔法をその肉体に、魂に、心に叩き込んだ師匠だった。
闇魔法に対抗するために闇魔法を使うとはいえ、やはり禁忌の闇魔法を使う事、影の濃い外見、愛想皆無の態度と口調から誤解される事が多々ある、嫌われ者の師匠だった。
誰よりも愛情深い師匠だった。
おまえがこのザトウクジラの歌声を気に入っているのは承知しているが、魔力が減少するので水槽に入れるな。
師匠は言った。
世界を支配せんとする悪の魔法使いは封印したが、その悪の魔法使いの意思を引き継いで世界を支配せんとする悪の魔法使いはまだ息を潜めて機会を窺っており、危険な状況である事には変わりない。
おまえは一人で対処できるが、いざという時のために私の魔力を籠めた、このザトウクジラの骨で作られた漆黒の指輪を預けておく。
何故師匠が、天空へと飛び立った海の元へとたったの一人で向かったのかは、誰も知らない。
何故師匠だけが、天空へと飛び立った海の元へと向かえるたったの一人なのかは、誰も知らない。
(師匠に怒られるな。師匠の貴重な魔力を減少させて、いざという時に対処できなかったらどうするって。無表情で、圧だけを重くさせて、強くさせて、空気を凍らせて、僕を叱るだろうな。だけど。僕は。本当はずっと。この指輪を水槽に沈めたままにしておきたい。ずっとこのザトウクジラの歌声を聞いていたい。魔力が全部なくなるまで。魔力がなくなったら、師匠が、帰って、きてくれるかも、しれない………なんて。こんな甘えたな考えを持っているなんて知られたら、破門されるな。それだけは回避しないと)
「くくる様」
「うん。分かった」
悪の魔法使いが現れたとの知らせを受けたくくるが呪文を唱えると、ザトウクジラは元の漆黒の指輪へと姿を戻しては、白い砂利の上へと降り立った。
このまま沈めておきたいとの思考は拭う事はできないと思いつつも、くくるは漆黒の指輪を手に取り、ハンカチで丁寧に拭ってのち、小指にはめて部屋を後にした。
早く。
早く、強くなって、自由に、思うままに、この漆黒の指輪を水槽に沈めたままにできるようにしたい。
(強く、)
時々、漆黒の指輪を水槽に沈めながらも。
強く希いながら、くくるは今日も悪の魔法使いと対峙する。
強くなったでしょうと胸を張って、師匠と再会する日を夢見る。
(早くあなたとザトウクジラの歌声を聞きたいよ。あざみ師匠)
(2026.5.14)




