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掌編小説シリーズ  作者: 藤泉都理
2026.5.
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2352/2526

蠅と蜂とあの子と私




 毛髪。

 眉毛。

 睫毛。

 産毛。

 腋毛。

 陰毛。

 皮膚。

 骨。

 肉。

 血。

 臓腑。

 汗。

 唾液。

 鼻水。

 涙。

 心。

 魂。

 言葉。


 ひとつ。

 いくつか。

 ぜんぶ。


 必ず腐れている部位がある。

 人間の嗅覚では嗅ぎ取れない。

 いいえ、きっと、他の生物でも嗅ぎ取れない。

 蠅だけ。

 蠅だけが明確に嗅ぎ取る。

 腐れている臭いを明確に嗅ぎ取って、私の周囲を飛び回るの。私に留まるの。私を食べているの。私に卵を植え付けているの。けれど、その卵が孵ることはなく、腐れ落ちるの。私を食べた蠅も腐れ落ちて、私の一部になるの。決して、私から飛び立つことはない。


 ひとつ。

 いくつか。

 ぜんぶ。


 私はどんどんどんどん腐れ落ちていっているの。

 ねえ。

 あなたには見えていないの、常に私の周囲を飛び回る一匹の蠅が。


 あの子は私に言った。

 私はあの子に言った。


 蠅は動物の糞や死骸だけを食べるわけじゃない。

 不衛生なものだけを、汚物だけを食べるわけじゃない。

 人間のように動物の体液や肉も食べるし、蜂のように花の蜜や果物も食べる。

 だから、あなたの周囲に一匹の蠅が飛び回っているとしても、あなたのどこかが腐っているわけじゃない。

 見えないの。

 ええ、私には見えない。

 そう、あなたには見えないんだ。


 あの子は私に人差し指を向けては、ゆっくりと動かし始めた。

 額、へそ、右手、左足、左肩、右肩、左太もも、右耳、左目、右目、口。

 人差し指を鼻に留まらせて、あの子は言った。


 うらやましい。


 あの子は私に言った。


 羨ましい、あなたの周囲には一匹の蜂が飛び回っているんだもの。

 羨ましい、あなたの周囲には花蜜と花粉しか餌にしない一匹の美しい蜂が飛び回っているんだもの。

 羨ましい、あなたの周囲には汚物か美物かどちらともを餌にしない一匹の美しい蜂が飛び回っているんだもの。


 うらやましい。


 あの子は私に言った。

 私はあの子に言った。


 私は虫が嫌いだから、いや。あなたが羨ましがる蜂でも、いや。美しくても、いや。私の周りを飛び回っているなんて、耐えられない。逃げても追いかけて来るなら、殺虫剤で殺す。

 殺すの。

 ええ、殺す。

 そう、殺すなら、私にくれたらいいのに。


 あなたの、


 私の鼻に留まっていたあの子の人差し指が動き出す。

 細くて、長くて、白くて、爪は少し深めに切り揃えられている、あの子の人差し指。

 どこもかしこも、細くて長くて白くて少し深めに切り揃えられている。

 どこもかしこも、色気と陰と白が兼ね備えられていて美しく。

 どこが、

 腐っているというのだろうか。




 あの子は私に言った。

 スキップするように軽やかに言った。


 毛髪。

 眉毛。

 睫毛。

 産毛。

 腋毛。

 陰毛。

 皮膚。

 骨。

 肉。

 血。

 臓腑。

 汗。

 唾液。

 鼻水。

 涙。

 心。

 魂。

 言葉。


 ひとつ。

 いくつか。

 ぜんぶ。

 あなたのものを私にくれたらきっと、


 あの子は首を小さく傾げた。

 あの子は瞳を小さく傾げた。

 あの子は唇を小さく傾げた。


 ひとつ。

 いくつか。

 ぜんぶ。

 あなたのものを私にくれたらきっと、あなたの一匹の蜂は私の周囲を飛び回ってくれるのに。きっと、あなたの一匹の蜂は私の一匹の蠅を追い払ってくれる。食べてくれる。殺してくれる。視界に入れないで済むようにしてくれるのに。私だけの一匹の蜂を連れて来てくれるのに。二匹の蜂が飛び回ってくれるのに。


 だったら、

 私はあの子に言った。


 ひとつ。

 いくつか。

 ぜんぶ。

 だったら、あなたのものを私にちょうだい。そうしたら、あなたの一匹の蠅は私の周囲を飛び回る。私の周囲を飛び回るのなら、私の一匹の蜂と一緒に殺虫剤で殺すのに。

 いいえ。

 あなたが望むのなら、あなたの周囲に飛び回っている今にでもすぐ、殺虫剤で殺すのに。


 見えないのに。

 教えてくれたら、そこに向かって殺虫剤を噴射する。

 そう。

 うん。

 殺しても殺しても殺しても、次から次へと新しい一匹の蠅が飛び回る。

 ずっと、殺し続ける。

 ずっと。

 ずっと。

 嘘つき、離れていくくせに。離れて行こうとしているくせに。

 うん、あなたの傍に居ると、私が嫌になる、嫌いになるから、離れようとした。だけど。あなたが私を必要とするなら、傍に居る。

 そう。

 うん。

 いいえ。いいわ。離れていい。蜂を殺そうとするひどい人だって分かったから。いい。ええ。私から離れる。

 そっか。

 ええ。

 じゃあ。じゃあね。

 ええ。でも。その前に。


 触れるか否かの曖昧な近さまで、あの子は親指の腹を私の上唇に近づけて、端から端までなぞって、そっと、離して、さようならと言った。

 私はあの子にさようならと言った。

 私が先にあの子から離れようとしたくせに、私はあの子の姿が見えなくなるまであの子を睨み続けた。


 うらやましい。

 あの子の言葉にひどく歓喜した私はけれど、その言葉を引き出した功労者は私ではなく、私に見えない一匹の蜂だったことにひどく、

 ひどく、

 やはり、

 歓喜して。

 歓喜した私はひどく、

 みじめったらしく。

 みすぼらしく。

 いやらしく。




 針金のような脚を空に向けて地に落ちている羽のある虫は蠅だったのか。

 私の周囲を一回りしてはどこかへ飛翔していった羽のある虫は蜂だったのか。

 私は確認することなく、歩き出す。




 汚物を食べては病原菌を運び、死をもたらす蠅。

 美物を食べては配偶子を運び、生をもたらす蜂。


 蠅は蜂を食べたら、蜂になれるのだろうか。

 蜂は蠅を食べたら、蠅になってしまうのだろうか。






 あなたは私の傍から離れるけれど。

 私はあなたの傍から離れるけれど。

 きっと、あなたの目には常に傍に居る私が見えていることでしょう。

 一匹の蜂が周囲に飛び回る私が、ずっと。

 私も。

 一匹の蠅が周囲に飛び回っていないあなたが見えていることでしょう。

 きっと、

 ずっと、











(2026.5.9)




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